ネオスクリプト・流星群(終話前半)
今回だけ〔15歳未満の方の閲覧にふさわしくない表現〕が含まれています。
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苦手な方はご注意ください。
ケンイチは慌てふためいて、弾けるように管理人の傍ら(かたわら)から立ち上がり、フロア奥の事務机に走っていた。
惑乱しうわづりながら「きゅ、救急車」と、いったん机の電話機に触れるものの「いや、気道確保か」と、そこを離れる。管理人室に飛び込み、茶箪笥をがちゃがちゃ探って、なんだか手に割り箸をで握リ締める、そして再び事務机にと、突っ伏すように舞い戻ってきた。
「110番、いや、119番!」
電話機のプッシュボタンをガチャガチャと乱暴に叩きながら、しっかりしろよ管理人、と念じ呟く。
救急にはすぐに繋がった。
「…Z市地区管轄救急救命センターです。どうされました?」
「人がぶっ倒れた、痙攣してる、重体だ」
「頭を動かさずにそっとしておいて下さい、呼吸はどうですか―そちらの住所を教えて下さい」
受話器の奥から冷静な声色で住所を問われ、ケンイチは住所?と面食らう。よく考えたら知らんゾ、と心中で叫びながら、落ち着けケンイチ。
机に重ねられた書類をひっくり返して拡げ、探してみるが判らない。そういえば公団から届く黄色い封筒があったと思いつき、机の隅に束にして重ねられていたそれを調べてみるが。
どの封筒にも、どこにも。水晶の塔・美術館御中と、宛名だけしかない!?
「―回線を調べました。そちらは市内中央商工ビル…水晶町住宅公団オフィスですね?」
市内?明らかに食い違う所在を告げる声に、ケンイチは色を失って。
「違う!此処は郊外、水晶町だ、Z市内じゃない、水晶の塔・美術館だ!」
はたと、思い当たる節がある。ケンイチは血の気が引く思いだった。
世間に対して公には住宅公団が表立っている、と管理人は言っていた。徹底的な秘匿はないにしても、伏せがちのではないか?運営はそうだった。住所、電話回線なども、一度住宅公団を経由するのだとしたら?内にいたケンイチに気付き得ない、外から見れば閉鎖的な運営だったとしたら?
それが今は裏目に出たのではないか…
ケンイチは、力任せに机を叩いていた。ちくしょう!致命的だ。からくりは簡単で、それで支障なくやれるのかもしれない。だが今、もたもたしてる場合じゃない。
「―もしもし、では美術館で検索します。何か目印になる建物はありませんか?」
「丘だ!山を目指せ、GPSとか何かで」と。
ここでケンイチは「あっ」と、閃いていた。GPS機能…といえば?管理人がそう言っていた、ワンダフル・ナイルカード!
ケンイチは受話器を放り出し、管理人に走り寄る。探り当てて、彼の財布を乱雑に振り回すと。
バサバサと、少ない紙幣やレシート類に紛れて、数枚のカードが床に散乱する。
その中の、薄いペラペラの緑色のカード、これだ。3号爺が持っていたワンダフル・ナイルカードだ。
さあ、使い方はどうだったか?3号爺は簡単に使ったゾ。
(矢印がある、ここをどうする、こするのか、タップか?)
ケンイチが床に座り込んでカードをいじっていると、管理人がひときわ大きく体を引きつらせて…
「ああ、くそっ!」
その時だった。カードが黄色く輝く表示を閃かせた…CALLING。
よくわからん、だが!とケンイチは立ち上がっていた。CALLINGだ、連絡か何かがともかく走ったぞ!
慌てて机に戻り、受話器を握りしめるケンイチだったが、受話器の奥の声は沈黙だ。
(そりゃそうだ、くそ!オレの馬鹿野郎!)
だが「…こちらはナイル・コールセンターです」と、突然女性の声が響く。
ギョッとして、ケンイチは受話器を握り締める。繋がった?だが?救急センターは?
「―今後受話器は戻して待機して下さい。貴方の行為は数秒間のロスとなりました」
相手などお構いなしの、冷静沈着な声は続く。
「回線は本通信が介入しています。如何なる第3者もこれを解除できません。所属と組織を明示願います」
ギョッとしたままでケンイチ。
「所属は?…わからねー、だけどここは水晶の塔・美術館だ」
女性の応答に一瞬の間があった。
「…用件をどうぞ」
「管理人が倒れてるんだ、重病だ、救急車を呼んでくれ」
再び間があり「おい?」「ヒットしました」と、両者の声が重なる。
「…水晶の塔・美術館・管理人―キーワードがヒットしました。緊急度をSランクに変更、コール地点を確定、一斉指令が北半球全域下に発令されました」
「は?」
「上海、韓国両空域、哨戒部隊からアンサーバック。そちらに向かいます。到着所要時間は、最短で2分30秒後、最長で3分後です。更にハバロフスク空域、グアム空域よりアンサーバック…大規模な動員が必要ですか?」
「いや、救急車は1台で…」
「では、案件は満たされました。グッド・ラック」
「ま、待て、何だ、それ!」
「…規則を破っちゃいけないんだけどね」
えっ?とケンイチは受話器を握り締める。女性の声はトーンが落ち、聞き覚えがあるものに…
「ケンイチさん、よくやった。管理人を助けるんだよ…グッド・ラック」
それきり切れてしまった通話だったが。
ケンイチは呆然としていた。今の声は間違いない、食堂の女主人だ。
だがどうして?スパイか何かかと、しかし、ここで首をひねってる暇はなく。
ケンイチは体を変えて管理人の容態を伺う、今は現場で出来る事をやらねばならない。
管理人は呼吸が切れ々だ。苦しげに不規則に、大きく背中を曲げる喘ぎを見せている。
(喉が詰まってる!?)
ケンイチがゲンコツで力任せに背中を叩くと、管理人がそこに激しく嘔吐する。だがそれでも尚に気管を詰まるのか、管理人の苦悶が続く。
ケンイチはすかさず口をこじ開け、顎内に割り箸を握り締めた手をねじ込ませていた。テレビで見た。こうやって上から割り箸で舌を押さえつけて、巻き込ませないようにして…
その途端、管理人は引きつけを起こして、歯を立てあごを閉じてしまった。慌てて、左手をねじ添えるが、時既に遅く、ケンイチの右手先はその奥歯で噛み付かれてしまっていた。
油圧の力のような、凄まじい顎のかしめだ。
ケンイチは目を血走らせて、ぐぅっとくぐもった声でうめく。管理人が頑強に歯を食いしばっていて、そのあまりの激痛に一瞬気が遠くなる。
親指あたりの骨が軋んでる、だが管理人、呼吸させてやるからな!
管理人の口から、血が流れ始める、ケンイチの指先からの出血だ。それでも抑える手は戻さない。
痺れに震える体で押しやり、血液を飲ませない風に管理人の頭を動かすと、管理人が一つ大きく吐息をついたのが分かる。
(よし!)
だが、管理人の顎部の緊張は解けるどころか、更に強度を増す。波浪のように押し寄せては退く激痛がケンイチを翻弄していた。
くそっ、くそっとその波の耐えがたきに耐える。涙が止まらなかった。
痛みが来るほどに、その度に泣けてしまう。
悲しい程に、鮮やかに。管理人と過ごした陽の当たるこの丘の日々が、脳裏に浮かぶのだ。
大丈夫だ、これ位何でもない、わはは、だな?管理人。
鈍い音がした。骨が噛み砕かれた激痛が来る。チクショウ、やりやがったナ…だけど。
「オレは言ってなかった」
出血が、吹き出すおびただしいものになった。指がちぎれていく…それでも。
「ありがとう、世話になった、管理人!」
―ケンイチが永劫のような時の長さを感じ、涙を枯らし、痛みに朦朧となり何も分からなくなった辺りで、ナイルの救護班が到着したのは、通話後から本当に3分以内だった。
ケンイチは、この時の事をぼんやりとしか憶えていない。
濃紺の戦闘服の兵士姿の男達がばたばたとやってきて、救命処置を行い、数人がかりで管理人を運んで行った。
(そりゃ大男だし、宜しくたのむゾ…)
「…お前の右手の親指は、もうだめだ。ここで切断するぞ」
兵士が顔を覗き込んでそう言っていた、ケンイチの治療をしてくれた彼が、腕に局部麻酔をしたのを憶えている。
(や?来てくれたのか?救急車よりめっさ、速かったナ…)
麻酔は、ケンイチの酒による酔いも呼び戻していた。ここで、ケンイチは気を失ったのである。
ザワザワする。
第六感が寄せ来ている…
次にオレが見るものは何だろう…
気が付くと、ごく自然な日常だった。
ケンイチは、図書館の机についていた。
静かな空気、ただ、思索や、検索の人息がする。
ページを捲る乾いた紙が立てる音、書籍棚の回廊に宛てを尋ね彷徨う靴音、ブツブツという、沸き囁かれる独り言、筆記具の奏でるかすかな作業音…そんな静寂達が、空調の利いた乾いた空気の中に流れ、行き届いた寒系の間接照明に満たされた館内を漂っている。
ケンイチの服装は、綺麗な綿のシャツに、清潔な色のジーンズ、適度にこなれた白布地のスニーカー、卸し立ての澄んだブルーのM1ジャンバー、清潔で、さっぱり爽やかな青年の風だ。
彼の向かいに座り、雑誌に目を落としている女性がいる、若き日の、ケンイチの母親だった。
正面に座る同世代の男性が、まさか自分の息子だと知らない彼女は、ケンイチを気にとめず、ただ雑誌に興味をうずめている。向かいあう距離はたっぷりと遠い、それはごくありきたりの館内の机に向かう利用者の姿だった。
ケンイチに母の認識はあった。だがそんな取り立てた興味を感じない。ただ母という人物だ、同世代という立場で眺められる奇異な機会だというだけの、特別でない独りの女性の姿を見ている感覚だった。少し前からじっと、彼女を見ていた。
机上の数冊の雑誌の中に、育児物がある。写真で見た事しかなかった若き母は、今丁度ケンイチを身篭った頃合なのだろう。そんな雑誌を彼女は静かに読んでいた、小さく息をしている、時々、うん、と記事に納得させられている…
母は、透き通った白い肌をしていた。皮膚を感じさせない白すぎるそれは、妊婦だからだろうか。痛々しくも見え、育もうとする命が、まだ淡く頼りない脆さを滲ませているのだ。
はらりと、長い髪が額から垂れる。正面にいるケンイチを少し気にして軽くそれを掻き揚げながら、思いをめぐらせるものがあるのか、紙面を離れた瞳は宙を見つめる。時々顔をあげ、首を傾げ考え事をしながら、そんな風にひと時を過ごしていた。
穏やかな佇みだった。
柔らかな模様が動くだけのピントの合わない背景の中で、透明な水の中に置いた玉石のようにくっきりと光る透徹した瞳は。迷いなく優しく、ただ正しい物を見ようとだけしていた。
遠慮がちな、彼女の女性らしい柔らかい仕草はしばらく後の、帰る身支度となり退席する姿まで貫かれ、それは同じように見えた。
彼女がその間際、持ち帰る雑誌の中にしたり顔を見せたのは、資格の関する書籍だった。そういえば母は若かりしこの頃、会社勤めをする働き者の女性だったのだ。
パリンと、何かが割れる感覚を体に覚え、気配を耳にしたような気がする。空席になった向かい側の机上を見つめるばかりだったケンイチは、いつしか変わった季節を季語で今不意に実感した、そんな顔をしていた。宙を見やり、考えに想いをはせるそんな横顔は、母のまるで生き写しだった、ケンイチは、彼女の息子なのだし。
ぼんやりとするケンイチは、不思議な安息を迎えた気分だった。
蒸発した母だった。
心のどこかに在ったわだかまりが一つ消えていた。母親に激昂したがその実、最期まで彼女を苦しめたうしろめたさがケンイチにはあった。この人はずっと苦しんで生きてきたのだろうか、オレの為に…
だから若き日の母の、少なくとも溺愛や、疎ましさの中にだけ生きていなかった姿を見、迷いなくその時を生きていた事を知り、少し救われたのだ、そして思い出していた。
「人は等身大で、それ以上になれないしそれ以下でもない。気にせず、歩んで行きなさい」
それが彼女の口癖だった。きっと母は、息子に教えながら自身に言い聞かせていたに違いない、つまり、やはり今を頑張るしかないと。それで何かに辿り着きそこから見える美しい景色に、その時に問いたければ価値を問うべきなのだ、と。
ケンイチはここで不意に目をやって、机の上に置いた自分の右手に驚き、すぐに気付いていた。右手は清潔な包帯が巻かれ、その少しだけ根元を残し親指は、失われていて。
(ああ、そうだったナ)
光景の視界の左隅から、白く薄い光がやって来る。
それは押し寄せて一瞬で輝度を増し、視界一杯に広がりケンイチに同化する。
体があっという間に潰れて、あっという間に爆発的に広がる感覚がある。
視界の白い光は、急激に前方一点の焦点に殺到して更に集中していく、訪れるスターボウ。
ケンイチは純粋にエネルギーに変換され質量を虚数域にシフトし、光の速度の理論値を越え跳ぶ、時間という制限を破って。
すみません、終話も長いので2つに分割しました。
ところで、iuと猫。
猫の名前はミェネコといいます。
彼女によるとiuは小説を描く時、いつも小さいのだそうです、目を閉じて何か呪文を唱えているのだそうです。
そんな彼女が、朝顔の葉っぱを運んできます、それを食べながら、iuは頑張るのでした。