ネオスクリプト・精霊と。そして…
管理人がナイルとの死闘を忘れかけた頃、月日が流れたある日の深夜だった。
就寝後、間もなく1Fロビーに人の気配がした。
管理人がパジャマ姿で、かつバットを握って恐る々そこを伺ってみると。
ロビーには照明が灯いている?
ロビーの中央に、人が立っていた。少年だった。
(深夜にチビッコの泥棒か?)
ロビーに現れる管理人を待っていたかのような、少年だ。管理人を見とめて笑顔になり、ペコリと頭を下げるのだ。
管理人は怪訝の中にも、不思議な空気を感じていた。
大きな横縞模様の古びたTシャツに半ズボン、素足にボロボロのズック。薄汚れた身なりの少年だ。目を引くのは、浅黒い肌よりも、目隠しのように眼部をぐるぐる巻きにした白い包帯だった。少年は目に怪我を負っているのだろうか?
「どうしたの?どうして君は、此処にいるのかな?」
不審者といえ、相手は10才位の子供だから、管理人の問う声色は優しくなる。少年は笑って。
「僕はケケといいます。はじめまして、僕はブラジルの子です」
ふむ、と頷き、直後にギョッとする。少年が喋った言葉は日本語ではない。ポルトガル語?だが、それは耳にして胸に収まる時に、日本語に理解出来るのだ。それでたじろぐ、管理人だった。
「驚かせてゴメンナサイ、ただ僕は貴方と話したくて、此処に来ました」
「私と話したいの?」
「ナイルと戦った事、彼も此処の味方になった事も知っています、てか、見ていました」
(ナイルの事を知っている?)
この子は何者だと、更に呆然となる管理人を可笑しそうに笑って、ケケ少年。
「たくさんの事を知った、なのにどうしていいか解らない。貴方は今苦海に沈んでいるんでしょう?」
管理人は得体の知れない少年への警戒もあったが、それ以上に問い掛けに窮する思いがあって、それで返答が出来ない。
確かに彼は、もがく思いでいたのだ。ナイルと戦ったあの日から、確かに悶々とした日々を過ごしていた。
得体の知れない世界に巻き込まれた、知らなくていいものを垣間見た。意識すれば出口の無い闇の中にいるのにまるで無力で、ただ漫然と繰り返される日常を眺め続けるのだろうか―エンドが定められているというのに。
少年は察していたのである。
「答えはこの美術館そのものです。此処で行われている試みに、答えがあります」
「君は?」と、思わず洩らす管理人の疑念だった。
「白い部屋の老人の試みを、知っているの?戦争と逆の、実験のようなものを?」
少年は微笑して、軽く制して手を上げて。
「偶然の符合は、必然です。事象が正しければ、事象は証明される為に条件を整えるのです。人の生きて行く道も同じ、確固たる未来は必ず踏み石を準備する…」
管理人が目にする少年の表情は、喜びとも悲しみともつかぬ不思議なものだった。
「貴方は知らない、此処を作った人も知りません。この丘は偶然にもレイ・ラインです、多くの人の魂が巡る場所です。ところが昔、此処に小学校がありました。円形校舎の建物に、天蓋が有って、その形がに多くの魂の行き場を見失わせ、苦しめていました。そこに、この美術館が建てられました。彼らをこの水晶の建物が救ったのです。悪霊達は水晶が形作る幾重もの六芒星を巡り浄化されていき、遂には精霊となって天に昇りました、それは今も続いている」
「また、偶然にも此処で始められた試みは、誠意に満ちていました。白い部屋の老人は、幸いにも善人です」
「更になぜか、貴方はナイルを味方に引き入れる事に成功しました。悪意までも、此処に害を及ぼせなくなりました」
管理人が、思考が混乱したまま問いかけようとするが、ケケに「つまり」と押し言われる。
「つまり、必然が始まったんです。人は遂に、次の高みを目指し始めた」
管理人は幾度か制せられ言葉を失い、かろうじて「君は何だ?」と、問う事しか出来なかった。
少年は、ニッコリと笑って。
「僕は、僕らは。この物語に関わる者ではないけれど次に現れる者です。星に選ばれ道を差す指、です。僕は、僕らは一度にたくさんの人の心に同時に現れて、一緒に悩み、共に問題を解決していきます。でも普通の人間なんです」
「貴方には伝えたかった。美しい道を歩んでいるのなら、答えは常にその中にある、と」
「水晶の塔・美術館の管理人、矢野龍介氏、もう悩まないで。3つの福音をお伝えします。貴方は多くの人に愛されます。此処は多くの人の心の拠り所となります。そして、貴方の病気は治せないけれど、最期に貴方の心に安らぎが訪れます。それは一組の男女によってもたらされます…」
少年ケケは。そして煙のように、管理人の目の前から消えてしまったのである。
☆
「な、何だ、それ!?」
と、こればかりは飛び上がらんばかりに驚くケンイチである。
ケケ少年は幽霊だな、ここで幽霊を見たんだな?と青ざめてキョロキョロ、好奇心一杯で、騒いでいるようにも見える。
管理人は僅かの間、そんなケンイチを静かに見ていた。
彼は回想話の中で、少年ケケが触れた「病気は治せない」という部分を省略していた。少年ケケはひた隠しにしていたそれを見抜き、それは治せないと言ったのであり…
実は、管理人・矢野龍介には伏せていた最も大きな秘密ある。それこそが彼の余命の短かさ、であった。
彼は、眼底の奥に既に末期に至った脳腫瘍という死魔を抱えていたのである。それは5年前に既に発病し、告知宣告されたその時点で既に手の施しようのない惨状であった。
彼は、独り煩悶の末、ホスピスを選んだつもりで、美術館の管理人という仕事を選択したのだという―此処に来た、武道の行き詰まり以前の本当の理由を、ここに至り話す必要は無い―今そう感じて、ケンイチを見ていたのであり。そして、少年ケケの予言めいた言葉の通り、この赤毛のケンイチが現れたんだ、と静かに想っていた。
病いについては、その始めから諦めがついていた。
彼にとって、今や最も深い彼の懊悩は…此処で過ごした『時』の価値だ。果たして意味があったのか(唯、もうそこにしか求められない一点だった)
大いなる試みは立派な事だと理解できる。素晴らしい絵画、心に響く音楽、想像の翼を解き放つ文学、それに価値がある事は分かるが、それは本当に何かに繋がっていくのか?
おぼろげに、見事繋がったと思う。西野陽子が第六感を探り当てた、その上でケンイチが何かを教えてくれたように思う。何か大きな歯車が回ったような気がする。
私の生きた日々は、最期に結実したと管理人は少し嬉しかった。だからケンイチと過ごした日々はたまらなく楽しかったのだ。
彼はこれで全てを話したつもりだった。最後に、改まって此処でケンイチに謝意を伝えようと考えていた。ありがとうと言うべきか、楽しかったと言うべきか。だが、彼の視界はそこで途絶え、意識は暗闇に墜ちてしまう…
突然、管理人は床に昏倒する。
驚くケンイチだった、慌てて屈み込み、気配を伺うと。ぐーぐーと、管理人は大いびきだ。
「クソッ、やっぱり酔っぱらいのたわ言だったか?」
と呆れ笑いつつ、だがすぐに異変に気付く、管理人の体が激しく、痙攣している?
一瞬戸惑い、背中に寒気が走りケンイチは慄然とした。どこかで見た事がある、脳に重篤な危険がある場合、こんな風に倒れるのではなかったか。
おい、起きろ管理人と。寝ているのならばの声を掛ける試みに、管理人は異様に、頑なに反応しないのだ。
「オイ?…オイ!管理人!」
ケンイチの呼び掛けは叫び声となり、静かだったロビーの空気を切り裂いていた。
次回、終話です。