ネオスクリプト・黒い秩序③
機関車のピストンのようにギャンギャンと、左右の拳を引き手も見せずに繰り出し、一足飛びに間を詰め、かわされた拳の軌道を変え、鉄槌に変化させながら敵を求めたが、空を切る。貫き手後にただちに狙いを変え掌底へ、更に移動する目標へ心眼で見極め、カウンターの回し蹴りへと繋ぐが。
管理人の重量に満ちた流れる攻撃は、全てかわされてしまう。
体を入れ替えつつのタイミングに、ナイルのボクサーのフックのような変則軌道の拳が、管理人の防御手につきささる。更にナイルの、とてつもなく重い前飛び蹴りが管理人の完璧なブロックを、それもろとも弾き飛ばす。
管理人はよろめきながら退きつつも、次に旋風のような円の動きでナイル側面を伺い、利き手で袈裟懸けに手刀を打ち逆手の裏拳に結ぶがナイルもまた、円の動きでそれを受け流す。
ざわりと、ナイルの飛び道具のような貫き手が来て、かろうじてそれをかわすが。紙一重のそれは管理人の首筋に、軽い切り傷を作っていた、管理人は歯を食いしばる。
攻撃は止めらない、それを止めればナイルの攻撃が押し寄せてくる、そうなれば防ぎようがない。変則を入れて、拳と足技で円の動きから線の動きへ展開する。ナイルは呼応して一瞬で間を取る、彼は笑っていた。
管理人は不思議だった。
ナイルの武術は中国拳法を思わせる。打撃は悉く重心が乗り、動きは絶妙のバランスを保つ。だからといって自らも遜色なく立ち会えている筈なのに、何一つ打撃が当たらなかった。
遊んではいない、この男に遊びなどでは立ち向かえない。一つ一つ、破壊するつもりで確信をもって放った筈の攻撃先に、そこに、忽然とナイルはいないのだ。
なぜかわせる、と内心で問い叫びながらナイルに怒涛の攻撃を浴びせるが、死角からナイルに反撃される。考えずに、せめて一太刀と繰り出した乱暴な往撃さえ空を切る。掴みかかる戦法を試みたが、絨毯爆撃のようなナイルの拳の連撃が、瞬く間に管理人に防御を強いた。
一切が通用しない、見切られている。それでも管理人はもがきながら、あらゆる技と型を繰り出してナイル挑んでいた。
ナイルは管理人・矢野龍介の攻撃を、完全に全て流し切る、それには理由があった。
それが、ナイルが体現する処の最大の武器、コンセントレーション(ナイルの集中)であったからだ。
コンセントレーションとは、ある種技であり、姿であり、環境のようなものだった。
ナイルがそれを意識して使うと、彼は自らが負傷しない行動を、ごく自然に取る事が出来る。打撃が来るのであれば、そこにいないように、あらかじめに体が動く。予知のようだがそれをまったく意識しない。予兆に無意識に対応し感じるままに一連に動き、結果オーライ。コンセントレーションとは、完全無欠の防御の形であった。
コンセントレーションは、格闘時下ではミクロ的に機能する。流れるように動きつつ、実は全ての打撃点をかわしている。更にそれはマクロ的にも有効に働いた。
ある時ナイルは、とある諜報機関に遂に行動を捕まれ、狙撃手のスコープの先に狙われた事がある。
その時彼は、ヨーロッパ某国の、とある繁華街のオープンカフェでくつろいでいた。もちろんコンセントレーション発現下で、である。その時、彼は不思議にも首を回したが故に、その瞬間頭部に着弾した筈の弾丸を、かわしていた。直後に彼は立ち上がり狙撃手の視界を外れ、席を奥にと移る。偶然居合わせた団体の観光客が、彼の姿をかき消してしまいその暗殺劇は未遂に終わる。ナイルは、午後のひと時とばかりに、悠然とコーヒーを楽しんでいた。
またある時期、対立する某国が、脱出不能な計略を以ってナイルを陥れ(おとしいれ)ようと画策した事がある。さしものナイルといえど、2重3重の刺客、巧妙に張り巡らされた罠の下では逃れようもないだろうという計画は、それの立案段階のうちに、コンセントレーションを纏い(まとい)おもむろに行動を起こしたナイルの手によって破壊された。ナイルのコンセントレーションは、逃れられないならば、それ以前に回避すれば良いと選択していた。つまり、墜落する旅客機ならば、はじめから搭乗しないのだ。
いわば、刹那の動作に限らず長期のスパンに亘る行動まで、防御の一連の動きとなる、それがナイルのコンセントレーションだった。それはあたかも(生き延びたものが証言できたのなら)環境が防衛的に働くように見えた、かもしれない。
これこそが、ナイルが世界を席巻し勝利し得た本当の理由だった。敵対した者達は、悉くなぜ自身が負けたのか分からないまま滅びていった。ナイルは危険を回避できるのではないか?と気付く者もいたが、コンセントレーションがどこまでに及ぶか測れるはずも無く、それを打ち破れる者は皆無だった。
ナイルのコンセントレーションは、彼が世界に君臨した十数年間の永きに渡って誰にも破られなかった。だが彼は生涯の最期に、人でない者と戦う事になる。その時遂にそれは破られて、彼は四分五裂に引き裂かれ命を落とすのであるが、もちろん今この時、ナイルが自身の運命を知る筈もない…
☆
(…たいしたものだ)
管理人の空手技をしのぎつつ、ナイルは感心していた。
見よこの剛拳をと思う。管理人の正拳突きは、速すぎて目にも止まらない。拳が血まみれになっている、かまいたちのような空気による裂傷か?それほどにこの男の突き技は、速く鋭い。
コンビネーションの足技が、あらぬ方向ながら危険な角度で放たれる。ボッと空気が炸裂している。木柱や、氷壁を粉砕する空手家の蹴り技だ、浴びればひとたまりもない。
ナイルは、それを全てかいくぐって攻撃に転ずるのだが、更に管理人・矢野龍介を評価すべき点は、それを防御出来る、彼の卓越した技術だった。
ナイルの格闘打撃術は又一流である。中国拳法を基礎に近代格闘術の粋を集めたそれは、破壊力は管理人に及ばないにしても、スピードやテクニックで彼を凌駕する暗殺体術だった。管理人は恵まれた体躯と、修練を極めた空手術と、天性のセンスでナイルのそれに対抗しているのだ。
但し、そろそろ満身創痍の状態だった。
(ボロボロだな、矢野龍介)
管理人の血の滲む唇に、血の気がない。チアノーゼ(酸欠)だ。
管理人は、ナイルによって一度も動きを休める事が出来ない戦いを強いられていた、空手の呼吸法を用いても、10分間を超える全力疾走の極限下では、著しい酸欠となる。
ナイルは見計らっていた。大木が朽ち倒れる時が来る。その時にどうする。粉々に粉砕してしまおうか。
(…不思議だ)
管理人は上がりきった息の中で、なぜか心だけが静かに、感じていた。
あれほど修練を重ね、正確にコントロールされた自分の打撃技が、全てかわされるという歯軋りはいつしか麻痺してしまったが、奇妙に夢中になって攻撃している自分がいる。
何となくだが、自分は喜悦しているのではないか?一方では汗にまみれ、歯を食いしばる敗色の濃い戦いに喘ぎながら、一方でそれに高揚する自身を、管理人は感じていた。
自分には、永く兄弟子がいなかった。先輩弟子はいたが、彼らをすぐに追い抜いて成長した管理人に、彼らは冷ややかだった。管理人が頭角を顕した頃、彼は共に組み手の出来るパートーナーを失っていた。
道場の隅で、佇んでいると誰かの「化け物」と囁く声が聞こえた。孤高とは、孤独であった。孤独とは、管理人の少年時代だった。彼に兄弟はいなかった、体が大きく、優しすぎたものだから、子供時分の彼は学校でいつも苛められていた。だから強くなり、友達も作りたくて空手を始めたというのに。
結局、自分は何も見つけられなかったのだろうか。
ところが今、まるで演舞だが、全力で戦えている自分がいた。ナイルを見ると余裕だ。苦し紛れの変形した技を、いなして流して。まるで、そうではないと諭してくれている、長兄のように。
彼の反撃を受ければ、なるほどここに隙が出来るのだと痛感する。
だが、待ってくれ、視界がかすみ始めてきた。
彼の意識は、酸欠による混濁が始まっていた…