ネオスクリプト・白い秩序
1Fロビー、正面より右手側の奥ばった長椅子にケンイチと管理人は並んで座っている。
顔を赤くした疲れたような2人の酔っ払いがぐだぐだ休んでいる、そんな構図だ。
管理人は、先程から気持ちが良いのか悪いのか、はぁとか、うぷ、とか言っている。ウイスキー・ボトル1本、日本酒半升、ビールを中ビン36本超えで飲んでいる、完全な呑んだくれ。
かく思うケンイチも、かなり呑んではいた。ただケンイチは、先程の管理人が放ったプラズマ弾という奴のせいで、どうしても酔いに任せられずにいて、横にいる管理人を色物と見てしまう。管理人は時々、うけけと笑っているし。
だが外観とはうらはらに、管理人の思考は明瞭だった、いつしか日々の会話の風だ、話す程に引き込まれていく…何食わぬ顔の管理人と疑問符だらけのケンイチ、いつもの2人だ。
さて、どこから話せばいいのやら、と管理人は両手の指を組み、そこにアゴを置いて思案深げだった。
「私がここに来たのは5年ほど前です。水晶の塔・美術館の管理人として、私はやってきました」
「前任の美術館の管理人は、私の空手の師匠です。以前、食堂の女主人は、面識があると言っていました。彼女をゲストにしたのは、師匠でしょうね。中村弁護士のように、穏やかで懐の深い私の師匠です。管理人としての師匠は優しかった事でしょう…私は、師匠の勧めでこの仕事を選びました、強く斡旋されたというべきでしょうか」
「5年前の当時の私は、はたから見ると、格闘技界で成功をした売れっ子の大スターでした。昼間に金髪の大男がやって来ましたね?彼はしきりに、私のナイスなカッコよさに憧れると、素敵だと話していたでしょう?(ケンイチはいいえ、と首を横に振る)当時どのような道も選択できました。しかし諸事情があって…」
諸事情、というところが、小声になった。ケンイチはそこに気付かなかった。
管理人が微笑む、うん?とケンイチ。
「いいえ」と、管理人は「…話を続けます」
管理人は組んでいた手の指を解き、おもむろに両手の甲を見せる。
相変わらずバカでかい、野球グローブのような手だな…おや?
ケンイチは少し目を細め、じっと観察して気付く。両手共、手の甲にぼんやり傷跡がある。見た目綺麗だが色が違う、裂傷の跡だろうか?
管理人は、薄く笑って指を組みそこにアゴを置くまた同じポーズだが、視線は宙に向けられていた。
「その頃私は、空手の正拳が突けなくなっていました。速すぎて、です。目標物で拳が破壊するというケースもあるのですが、私の場合は。空気の壁によってすら…手の皮や肉が裂傷を負うようになりました、音速の壁というものです。それは保護具でどうにでもなる事ですが、では私と闘う相手はどうでしょう?たまったものではない、大怪我をする。私の武道論は、決して殺し合いではありません。周囲の思惑とは別に、私はその世界の桧舞台から去る決意をしました」
そう言えば、地下フロアにあるサンドバックはカチカチに固まっていた、とケンイチは思う。使っていなかったのか?謎が一つ解けた…
「ちなみに―プラズマ弾を放てるようになったのは、偶然です。ここに来て一年ほど経った頃でしょうか?早朝の丘で鍛錬をしていました。全力で突けない拳で相手を打ち倒す…本質を射抜く正拳とは如何なるものか?などと考えたひと突きが、プラズマでした…あの瞬間は忘れられません。静かでした、風は優しく、丘の芝草が辺り一面で波のようにそよぎ…遠くのヒノキの大木がぶっ倒れました(笑)プラズマは、拳を失った私に神様がくれた贈物だったのかもしれません。しかし、当時の私にはそれを上手くコントロールできず―今は百発百中デスヨ?正真正銘、結局私は空手を封じられたのです。制御できないそれを使ったら最期、人を殺してしまう。これではもう武道と言えなかった」
「師匠は心配して下さいました。比肩するものなき孤高、などと褒めていただきましたが、師匠は悲しげでした。病院にも連れていかれましたが…精神病院でした!くそっあの老いぼれじじぃ!」
師匠に向かって何て事を言いやがるとケンイチは思うが、管理人は激昂したきり寂しそうにしている。そんなものかなぁと(いや、そんなものじゃないゾ)と少し情を移してしまう…
「それで、私は、管理人の仕事をせっせと頑張る事に決めたのです」
管理人の口元が、決意の真一文字に結ばれている。うんうん、と頷くケンイチ…軽い酔いどれの男達。
「けれども」と管理人が言うので、ケンイチが苦く聞いてやる、変わった類の愚痴話なのか?
管理人が、思わせぶりに笑った。ただの愚痴話ではないという深い色が、その瞳の奥にあった。
「…管理人の仕事は、ひどく単調なものです。美術品等の管理は当たり前にあり、世界的名画の管理は確かに重要な仕事かも知れない。ですが…ご存知のように丘の手入れと、住宅公団から毎日届く郵便物の整理が、主な仕事です。これが毎日続けられる。私は息が詰まってきました。師匠は、なぜこの仕事を斡旋したのでしょう?私が空手を失ったから?楽な仕事だから?…ところが軽微な業務に比して、私に支払われる給料は高額でした。大企業の部課長クラスの年収が保障されているとのお話でしたが、とてもじゃないがつりあわない…待遇の良さも、返って私は悩ませるようになりました。私はこんな場所で何をやっているのだろう?いつしか悶々とした日々を送るようになり、管理側に問い合わせてみる処となりました」
「管理側は、正確には『水晶の塔・美術館振興財団』という法人です。水晶の街・住宅公団とは関連グループのようで、具体的に動くのは決まって公団です」と、管理人は前置きをした。
「始めのうち、贅沢な苦情では?の一点張りの返答ばかり―私の質問になかなか答えてくれない管理側でしたが、ある時、責任ある立場の方とお話をする事が出来ました。パソコンのビデオ通信でしたが、厳重なセキュリティ下でした」
「パソコン画面の奥は、真っ白い大きな部屋でした。大きな、これも真っ白なテーブルがあり、そこにはごく普通のビジネスマン風の老人が座っていました。背後の窓は逆光で、人物の姿は良くわかりませんでした。ビルの一室のようでしたが、ともかく一面が真っ白でした。そんな中で老人は言いました…大きな取り組みが行われている。美術館の管理・運営はその中核である。だから何も言わず、何も悩まずに頑張ってほしい…」
大きな取り組みとは何だと思いますか?と、管理人がケンイチに問う。
えっ?と。こんな時いつも頭がついていかないケンイチは慌ててしまうのだが、管理人は構わずに。
「大きな取り組みとは何か?それは、戦争と逆の行為である…と老人は言いました」
「目的は、具体的な人類を進化させる試みである…」
「は?」固まってっしまうケンイチである。
ハハハ、と笑う管理人はやはり構わない風で。まるで聞き手などいないかのような顔をしていた。
「人間の歴史にはこれまでに多くの愚行がありました。戦争、企業間競争です。それに人は血眼になって湯水のように、労力と資金を投じてきた、最期には何も得られないというのに。それでは、そうでないものに、湯水のように資金を投じる…それが大きな取り組みだそうです、戦争と逆の行為です」
「目的は人類の進化だそうです。生物学的に行き詰まっている、人類の進化にメスを入れる―脊椎動物の骨の数は、ある時代に至って以後、もう変化をしていません。哺乳類の指の数は5本の左右対称、霊長類が持つ長さの比率が理想的な最終形態であることは、DNAが持つ設計図の中で既に決まっているそうです。そこに生物学的変化の新たな波の発生を促す…そのきっかけは何であるのか?」
「幾つかの因子の選択肢があり、未だ進展の可能性がある脳の働き、未到知の人の心、とりわけ音楽や芸術で得られる感動、もしくは創作心…紆余曲折、試行が在っての末に、それが選ばれたのだそうです」
「私は疑念しました。実験室で行われる話ではありませんか?我々に関係ないのではありませんか?と。しかし老人は笑いました。それでは進化ではなて、改良・改悪であろうと。そのような手法が、生態系の可能性の種―進化を妨げてきたのだと。進化とはごく自然にやってくるものだと…」
「学術の構築、突き詰めた科学の進展によって世の中は便利になりました。重い物は荷役の機械が運びます。飛行機で一足飛びに、海外の友人に会うことも出来るようになりました。変容は続きますが、それが今の限界なのだそうです、そしてそれは果たして正しい姿であったのか。一方は潤う、けれども同じほどの負なるものがあるのではないか?…一つの国家が企業が、競争に勝って繁栄したとします。それと同じ程の滅亡があるのだとすると、例えばそれは、細胞の暴走的増殖現象の一面をみているのではないか―老人は社会をそう総じたのです」
「老人から、美術館の運営には莫大な資本が投じられていると聞きました。時価数百億円の【恋文】など簡単に購入できる程です。―水晶の街について私は今日まで、本当に何も知りませんでした。中村弁護士のお話によれば、どうやら公団は大きな取り組みの中の一部のようです。大きな秩序の中で動く歯車の一部ではないでしょうか?―その時の老人の話では様々に充てられる予算は、まず初めに数兆円。その規模で随時充てがっていくとの事でした」
「国家プロジェクト…と私は画面を忘れて唸りました。画面の奥で老人は笑うのです、国には出来ない試みだと。白い部屋の大きな白いテーブルに座った彼は「一握りの人間として利益を独占し続けた揚句、繰り返される歪に大いに嫌気がさして、一握り以外の利益を考えるようになった趣味の悪い金持ちが始めた事だ。未来への悲願と良心以外に、私には何も残っていない」と笑っていました」
管理人は宙を見つめたまま「…信じられますか?」
ケンイチは「…信じられません」
「てか」と、ケンイチは呟き「数兆円って、いくらだ?」虚ろに目を彷徨わせている。
管理人は吹き出して「実は私も全っ然」大きく息をついて「信じられませんでした」
「信じられない話でした。人類の進化に芸術、美術館ですよ?逆の行いだからといって、戦費のような金額です」
2人の間に、当たり前に間があって。「けれども」と管理人が口を開く、トーンが落ちている。
何一つ信じられないケンイチだったが、信じられぬままで、語調が変わる空気を感じ、耳を傾けていた。
「…けれども私は、老人の話を信じるようになりました。2つの出来事がありました。これからお話するそれが、私の疑心を払拭したのです」
落とすような管理の言葉がそこに響く。ロビーは尚も静まり返るのだった。