前編・3
ケンイチは、続けざまに吸っていた煙草を灰皿にねじ消して、溜息をついた。
其処は1Fの管理人控え室だった。彼は畳に座りこんで、見てもいないテレビの画面に視線を向けていた。
先刻まで暫く、管理人は自身の発言通り、芝の手入れをやっていた。その後ロビーの奥で事務仕事を始め、その間も今も、ケンイチに構う風でなかった。つまりケンイチは野放しにされていた。
ケンイチは何をしようかとウロウロして、とりあえず地階を見て回った。その後の此処でのひと休みだった。
地階は、あの道場風の広間、幾つかのゲストの部屋で構成されていた。あとは簡単に、電気やボイラー等の設備の区域が在った位か。
ゲストの部屋は各々、どこの扉も施錠されていなかった。覗いてみると、どの部屋もケンイチの部屋と同じ造りだった。
広間の道場といえば、ともかくサンドバックがコンクリートのように固くて(おそらく管理人もほとんど使っていないのだろう)もう少しで、自由の利く右の拳の皮が剥げるところだった。腹を立て蹴り込んでみると、埃っぽく重い音が寂しく響き、ケンイチ以外に人気の無い空間を強調した。地階は無人らしかった。
テレビは画面に、料理番組のやり取りを延々と表示している。
ケンイチは気が付くと、彼が私鉄駅のロッカーに隠した大金について、考えてばかりいた。もう何回目だと、煙草の煙を苦く吐く。
ひと抱え以上の札束だった。幾らあったのだろうか?思い付きで慌てていたので、勘定出来なかったが数千万、数億か?ともかく組にとっては大金だったろう。今頃、仲間達が血まなこになってケンイチを探しているに違いない。
夜になったら、とりあえず金の確認にだけは行きたいが、又、管理人は自由にやっていいと言ったので、このまま美術館を抜け出して逃避行を再開しても良かったが、そのどちらも、簡単にはいかなくなっていた。
乗り付けたガタビシ・カローラだ。ケンイチが乗り捨てた場所に、既に車はなかった。では、車は、今どこに在るのか。
ケンイチの見立てでは(というか、ドアミラーが一部覗いていたので間違いなく)美術館入口の鉄ゲート(例の変な、小さい、3号じじい。今朝も居た)のすぐ脇に、なぜかどこからか運ばれた藁の山が在って、車はその中に埋め隠されているのだ。下手くそなカモフラージュだった。シルエットが車の形をしていた。
ケンイチは先程その横に立ち「誰がやった、クソッ」と、地団太を踏んだ。それを3号爺が見て笑うので、詰め寄ると彼は「わしは知らんぞ」の一点張りで。
「もし車が山の中に在るなら、勝手に掘り出して乗っていけばどうぢゃ?わしも手伝うぞ、ぢゃが(隠すのは)大変ぢゃったのに」
ケンイチの激昂は今は収まっていたので、畳の上に吐くチクショウは、呟くようだった。車は動くのだろうか。映画ではあるまいし、辺りを蹴散らし藁山から飛び出して出発、などしたくはない(最悪、やるしかないが)
ともかく、左腕の傷の問題は解決した。一定の期間なら此処美術館になりを潜める事も出来るようだ。ほとぼりが冷めるまで、静かに身を隠す場所を得たのは幸いだった。
だが、そのほとぼりが易々(やすやす)と冷める訳がないと、ケンイチには判っていた。持ち逃げした大金が足枷だった。大金が絡んだ以上、組が追跡を諦める筈がない。そして、長く此処に隠れ続ける事は難しいだろう事も。
此処は、組があるZ市街からそう遠くない場所らしく、逃げ延びたとは言い難かった。何処かに逃げ延びなくてはならない、何時か、時期を見計らって。
結局、今は何も出来ない、成り行きを計るしかないと結論すると、ケンイチは情けなかった。
彼は盛んに毒づいた。そこに、後悔といまいましさ、もどかしさや焦りを入り混じらせて。
イライラもしていた。酒はないか自棄酒だ、と管理人室の冷蔵庫を漁ったがビール缶一つない。部屋には、酒類が一切無かった。
ケンイチは腹が立って、庫内の牛乳を2リットル、コーンスープの1リットルの紙パックを空けてやった。管理人に八つ当たりだ、ザマーミロだ。
ケンイチが、ゲップとやる(飲みすぎた。気持ちが悪い)
ドア越しの、ロビーの会話が洩れ聞こえたのは、そんな時だった。
「おかしくないですか?」と、問う声。高いトーン、女性の声だった。それが少し聞こえた。
ケンイチは、畳から降りてドアを伺い、そば耳を立てた。
ドアを少し開けてみると、手前に事務机が見えた。
視界に、若い女性と会話する管理人の姿が映る。会話は聞き取れないが、女性の質問に管理人が応対しているようだった。
暫く見ていると光景は、何だか女性の調子が質問から詰問へ、管理人は応答が言い訳になっていく。女性が明らかに高飛車で、管理人は押されている。大男と、小柄な女性の言い争いか?見方によっては女性は管理人の腹に向かって、管理人は女性の頭上の空間に向かって盛んに話している。
ケンイチはククッと笑って(何やってんだ、アイツ)
他に人影はないようだった。管理人は女性と対一で、何か不利な口論をしているのだ。
(オーイ、管理人。コッチ向け)と。
ケンイチが、隙間から指でVサインを作り合図を送る。暫くすると管理人がそれに気付き、苦笑いを返してくる。
緊迫する場面ではないらしかった。とりあえず追っ手ではないな、とケンイチは思う。管理人は押されている。此処では何となく世話になっているし、ここは一つ助けてやるか。
勿論、ケンイチは目立ってはいけないが、いざ行動してみればその自覚も足りず、実は第一、先程から退屈で仕方なかったのだ(要は追い返せばいいんだろう?)
「ぃよう」とか言って。
たまたまやって来た風を装った、明らかに滑稽な顔をして、快活にドアを開けたケンイチが、ロビーに登場する。
管理人が、明るい表情でホッする筈もない。彼は更に頭痛がすると顔をしかめたので、ケンイチの不興を買った。
(何だよ?助けに来たのに)
(何で出てくるんですか?貴方)
やり取りの合間に絵画を次々に流し見している女性だった。彼女はケンイチに視線を注ぐ。
女性と目があってケンイチは「どうも」と頭を下げてみせるのだが、女性は無愛想に口元をニコリ、だけだった。
女性の身長は160センチ足らず、栗色のストレートの髪。グレーのスーツはリクルート調でまだ二十代半ばだろうか、体に柔らかな線があまりない。彼女はケンイチに言わせれば、デコボコのないただの小娘に過ぎなかった。
(この女、何者だ?どうしたんだ)
ケンイチが、管理人の傍に寄ってそっと小声で尋ねると、答える管理人も小声だ。
(市の役人さんらしいです。書類上の手続きが変だとか。調査に来られたようです。先程から説教されていまして)
(アンタ管理人だろう、何ヤッテンダ)
(若い女性です。どうにも苦手です)
そこで男達のヒソヒソ話に、女性の咳払いが割って入った。それ一つで見事な牽制だった。
彼女は、お喋りを止めた管理人とケンイチを並べ見て。
「館長さん、お名前は?」
「私は」と管理人。なぜか親指を立てグット・ジョブの仕草を添えて。
「矢野龍介といいます。当美術館に館長という役職はありません。私はただの管理人です」
管理人の仕草に、女性はきつく目を細める。イラりとしたのだ。ケンイチも下手な管理人、と思う。
「で、そちらの方は?」
「オレは」と答えるケンイチの口を抑えて、管理人が慌てて代弁をする。
「当美術館のゲストです。ケンイチさんです。しばらくこちらに滞在されています」
封じられた紹介をされて、ケンイチはどうも、と手を上げる。魚の死んだような瞳をして見せる。
女性の瞳に、更増した不快感が看て取れた。
第三者の登場で、会話に水が差された感があった。ケンイチはそこを衝く。う、うんと咳払いをして。
「役人さんだって?ずいぶんチャーミングな役人さんだね。それで?その役人さんがナゼ朝っぱらからこんな所に?お暇ですか」
「……今どきの公務員には、各人ノルマが課せられているんです。その役人さんって言い方、やめてくれませんか?」
女性が怒気を露にする。彼女は「何て、奴」と呟くと、其処が我慢できない場所だと言わんばかりに、歩み始める。
2Fフロアへと階段に向かう。男達は距離を置いて続きながら、背後でごちゃごちゃやった。
(ケンイチさん、揉めては駄目です、絶対に)
(馬鹿だね。オレに任せろ)
ケンイチはウィンクしてから、管理人の前を行く。
ケンイチは幾つか階段をすっ飛ばし、駆ける。2Fフロアの上がり際で女性に追い着き、横に並んだ。
「ごめんよ。じゃあ美人の彼女、お名前は?」
女性が何か言う前に、露骨に冷やかすのだ。彼女が嫌がる話をして、それでダメなら最後は脅そう、などと気楽なケンイチだった。だから何気なく目を向けた先の絵画に「あっ」と、声を出してしまう。
女性は、男の嫌がらせには慣れていた。どうせ次々に変な事を言うのだろうと、身構えていたのだ。けれども、隣の男に次のセリフがない。間が空くのも変なので仕方がなく「私は」と続けた。
「西野陽子といいます。出向きが市のお役所ですが所属は国税局。一応キャリアのはしくれなんですけど?この美術館は、登記上にいくつも不備があるんです」
ケンイチの反応が薄い。女性、陽子は憮然とした。名乗らせておいて無視なのか?という顔をケンイチに向けると、彼の視線が絵画に釘付けなのに気付く。
「あの?」
ケンイチは我に返った。ごめんごめんと詫びながらも、視線は絵画に向けられていた。
「これって、さ」
独り言のようにケンイチは呟いた。
「知ってる絵なんだ。フェルメールの【恋文】だ」
なぜか感慨深げなケンイチである。勿論、陽子には理由も判らない、唯の不審な男の怪訝な風、なのである。ちょっと、何だよこの男と、ケンイチをじろじろと眺め回す。
そこに、階段を上って管理人が現れた。追い着いた大男はケンイチの横に並んだ。
階段から見ると、一番左から順に、西野陽子、ケンイチ、管理人。携帯電話のアンテナが綺麗に立ったような並びだった。その正面に、ケンイチが云うフェルメールの【恋文】が佇んでいた。
「はぁ。【恋文】だ」と、ケンイチが溜息をつく。
「ふうん。【恋文】ですか」と、味気なく陽子。
「オリジナルのフェルメールの【恋文】です。当美術館、自慢のコレクションです」と、胸を張る管理人。
さて、それではと。役人西野陽子が、美術館に対する登記上の問題についてむし返そうと、口を開きかけた矢先だった。
ケンイチが目をむいて、管理人に食いついたのだ。
「オリジナル?本物だって?」
強い口調だった。
「そんな筈は無い、絶対に無い」
えっ?と陽子と管理人だ。2人共同様に、何を言い始めたんだとケンイチを訝しがる。ケンイチは管理人を嘲笑うかに文句を言った。
「有名な絵画だろう?何でその、オリジナルが此処に有るんだよ?」
管理人が、眉を顰める。
嘘がばれたか、それとも、ケンイチさん何を言ってるんだ、のどちらかだった。果たして管理人の態度は、後者だった。彼は大真面目に、自分は間違っていないと主張するのだ。
「正真正銘のオリジナルです。私はそう聞かされております」
「馬鹿な話だぞ」
ケンイチは食い下がって、文句を重ねた。
「オリジナル、本物の【恋文】なら、幾らすると思ってんだ」
管理人が口を噤む。ケンイチは、吐き捨てるような吐息をつくと、いまいましそうに絵画に視線を戻した。
(美術館だって?此処はイカサマ美術館じゃねーか)
陽子が「あの」と口を挟む。
「これ?この【恋文】が、そんなに有名なものですか?」
ケンイチは鼻をふん、と鳴らして応じる。
「彼女。【モナ・リザ】とか知ってる?ゴッホの【ひまわり】とか知ってる?」
うんうん頷き、ちょんちょんと絵画を指差しながら、陽子は怪しそうに見入って。
「そんなに有名な絵が。本物?」
「と、此処の管理人さんは言っている。だが真っ赤な大嘘だ。国際絵画だぞ。時価どれ位する、数億、数十億」
腕組みのケンイチに、嫌な話だなぁとひょっこり年相応のイヤダァの口元を見せる陽子だった。しかしそこで、鼻息を荒げた管理人ではないか。
彼の鼻息は、2人に聞える程だった。
「失礼ですが、美術館の品格を貶めない事も私には責務なのです。故に申しあげておきます」
彼は、きっぱりと言った。
「この美術館は、潤沢な費用で運営されています。数億、数十億円する美術品の所蔵も容易です。従って」
何だって、とケンイチと陽子が訝しがるのも構わない管理人だった。
「当、美術館、所蔵のコレクションは全て、オリジナルの本物です。既知の公に知られている所蔵と重なる絵画が当方に幾つかあります。フェルメールの【恋文】もその一例です。世界の多々・某々美術館の、公と称するものが実は贋作、偽物であるという事です」
ケンイチ、陽子が各々に何か言おうとした。管理人が制する。とりあえず役人、陽子に対する小声の弁明だったが、それがケンイチをも黙らせていた。
「お役所の目が厳しいのも、その辺りにあるのでしょう?美術館運営の背景に、税金など、莫大な資金が動いている筈です。だから、一地方の一美術館が際立ってしまうのでは?それで、貴方は調査に来られた」
陽子は幾度か小さく頷きながら。ケンイチは未だ信じられない風に。管理人は静かに、絵画を眺めていた。三人三様の無言になって。
2011年11月に、加筆、改行スペースを削除しました。