後編・11
「さて、ケンイチさん。これからどうするおつもりですか?」
中村弁護士が、お茶をズズ、とすすりながらに問う。ケンイチは、まだ幾分口ごもり気味に「それは…」と、返答に窮すのだった。
先程、ケンイチが素性を明かしてから暫くが経ち。すっかり片付けられた座敷のテーブルを、今は管理人、ケンイチ、中村夫妻が囲んでいる。
食堂の女主人は、酔いつぶれた西野陽子を「この娘は今晩、私の店に泊める事にするよ」と肩に抱き、連れ帰り際ケンイチを睨み付け「ケンイチさん」と、ドスの利いた声で。
「いいかい?キミがヤクザ者でも何でもかまわないけど、無茶をするんじゃないよ?」
ケンイチは苦虫を噛み潰した顔で「ああ、わかった」と、応えるしかなかった。
ヤクザ者でした―彼がが告白してからの経過は、こうだ。
まず、管理人が焦りまくって「私の責任です、申し訳ありません。ケンイチさんは馬鹿モンでしたが、もう大丈夫です」と、そこに土下座をした。西野陽子もなぜかそれに習って「私も知ってたんです。ケンイチさんは、とんでもない奴です」と、ひれ伏してしまう。つくづくチクショウと、しかしケンイチも下げた頭を上げられないでいた。
弁護士夫妻と、食堂の女主人は困惑して顔を見合わせていたが、どこか笑みがあった。ショックを受けた風ではない、なぜなのか?
その答えはすぐに明らかになった。
中村弁護士は「西野陽子さんはそれを知っていたのですか?」と問い、コクリと頷く彼女を見て取りニッコリ「それなら、問題はないでしょう」
食堂の女主人も、苦笑いだった。
え?と、今度は頭を下げた3人が困惑になったのだ。驚かないのか、ゲストのケンイチの正体はヤクザ者なんだゾ?
「実を言うと。知っていました、かな?」コホンと喉を鳴らし、中村弁護士は笑いながら。
「ネット上の管理人の紹介ブログです、確か最後の写真は寝姿でしたね?背中を、少しはだけていた」
ぐっ、がはっという、伏せた顔での男達の呻き声と女主人の声が交錯した。
「ケンイチさんは背中に。あれは流行のタトゥーじゃないね、ハデな刺青があるだろう?バッチリ写ってたし」
管理人・テメェ!ちょっ、ちょっとタイム!と、頭を下げたまま口論を始める2人を、弁護士夫妻は面白がる。こんな姿が夫妻のお気に入りなのだ。
「街の皆さん、ご存知のようですよ?だから安心をしてね?」
励ますような、弁護士婦人だ。食堂の女主人も一緒になってからかうのだ「初めから皆知ってる、事情のある男だろうが、ゲストだから大丈夫でしょ?位のもんだ」
まあ刺青があれば、と中村弁護士は楽し気に。
「やっぱり、その手の人なのかなぁ、コワイなぁ、しかし好青年だしなぁと、街の人気者だしなぁと」
西野陽子が、下から覗き込みながら「私は喋っていません、私じゃあナイヨ?」
ともかく笑い話となった。
この際に、食堂の女主人は刺青の絵柄は『千手観音菩薩』である事、腕が24本ある事をケンイチに喋らせ「千手観音なのに、たった24本かい?へー!」「…千本も背中に背負る訳ねーだろ」「しかし聞いた事がないデザインだね」「オレは美術部だったからナ」「どれ、見せてみ?」「見せん!」
西野陽子は此処に至って安心したのだ。酔いを取り戻し、ぽやんとして。
「良かったネ、ケンイチさん、ずっとココにいて頂戴」
ごちんとテーブルにおデコを突き、彼女はそのまま寝入ってしまう―と、これが顛末だ。
ケンイチは勧められるままに、濃い熱い日本茶をすする。酔いは半分醒めていた。管理人に目をやると同じようにお茶をすすり、こちらにウインク中だが。
(コイツ絶対、後でぶん殴る)
ケンイチの瞳は決意に燃えながら半ば、管理人を不思議に思う色だった。
早くから、ケンイチがヤクザ者だと知れていたのに、皆が優しく接してくれたのはこの男のおかげだろう、管理人とは街の住人にとって、それ程絶大な信頼が寄せられる人物なのだ。
だが腑に落ちない。美術館の管理人がなぜカリスマ的な人気を博すのだろう…街の名士だとしても、一介の人間がこれ程までに信頼され得るものだろうか?
ケンイチの疑念に答えようとしたのは、涼やかな物を出しましょうと、林檎や梨を剥いた小皿を運んできた弁護士婦人だった。
「街の皆さんは、過去に傷がある人ばかり。職業を後ろめたく思わなくていいのよ?」
オイオイ、と軽い咎めだての弁護士に、アラ、いいじゃない。
「私だって、若い頃は半ば娼婦同然で…」
ぶっ、ぶっ、ぶーっとお茶を吹き出す男達、弁護士は声を荒げる。
「お前、何もそんな事まで」
「アラ、いいじゃない!」
婦人は毅然として「彼は正直に話してくれたわ、私達が心を開かなくてどうするの?」
うむむの弁護士は、腕組みになり黙り込む。
「私と主人は出会い系サイトで知り合いました、私は男を騙しお金を騙し取るサクラで」
うーむ。
「主人は、詩ばかり記入する変な純情な人でした、可哀想で私は最後まで騙せなかった」
あ、うーむ。
「だから一緒になったんだけど、主人は弁護士のくせに貧乏で、それからが大変でした」
あ、う、ううん!と喉を鳴らしたのは管理人だった「奥さん、別に話さなくて良い事もあります」
「でもね」野菊のように穏やかで慎ましい婦人が、伝えねばならないんだと、強いて口を閉じないのだ。
「私達だけじゃない。食堂の女主人さんだって、病弱なご主人と連れ添って、大変な状態でこの街に来たわ」
「八百屋さんだって魚屋さんだって、事件に巻き込まれたり借金取りに追われながら、この街にやって来た」
「…この街のお陰なの、私達は皆この街に救われた、美術館に救われたの」
ケンイチさん?と婦人が続け問う「貴方は美術館のゲストなんでしょう?」
ケンイチは問われるままに、自信なげに(管理人がうんううん頷いているので)ハイ、と頷く。
「それなら貴方は。ヤクザをやめて水晶の街に住みなさい。住宅や土地が無料になる」
管理人とケンイチは「えっ?」と驚く、住宅や土地が無料になる、という言葉にだ。何だ、ソレ?
難しい顔になるのは中村弁護士だった。咎めるとも戸惑うとも取れる表情になり、彼は妻を見る。
妻は夫にペコリと頭を下げた。
「貴方ごめんなさい、私のお喋りはここまでです、後でしっかり怒られます。だけど、どうかこの子を助けてあげて」
婦人の肩が震えていた。彼女は下を向き、ぽつぽつと涙を零しはじめてしまい。
「…お前、考えていたんだなぁ」
弁護士は、夫人の肩に手をやると力を込めて励ます仕草をし、頬にハンカチを与える。婦人はそれきり何も話さなかった。彼女は生来、草木のように寡黙であった。
そんな人が今ひと息、懸命に喋ったのだ。ケンイチには何がしかの熱意が伝わる、管理人は婦人の懸命な様に涙を誘われつつ、彼らは固唾を飲み弁護士を見つめていた。
今、彼女から端を発した街の事実とは何であろうか、と。
弁護士は尚も、複雑な面持ちで考え込んでいた…