後編・10
その日の夕食は、中村弁護士宅で鍋物、すき焼き(内密にはケンイチの送別会)となった。
湯気の向こうでビールを煽り、豪快に笑う管理人がいる、その隣には食堂の女主人と、中村弁護士だ。向かいに座るのはケンイチで、順に西野陽子、中村弁護士の奥さんと座り、宴もたけなわ、皆上機嫌だ。
ケンイチは、笑いの渦の中に在って尚、笑いつつ独り首を捻っていた。
昼間に事件があった。逃走劇の決着はともかく、それよりも突然飛来したあのヘリと戦闘機だ、あれは何だったのか?管理人も3号爺もお茶を濁すばかりで「いつか話す機会があれば」で、うやむやになったままだ。
そもそも、この飲み会にも納得がいかない。
確かケンイチと管理人、2人だけで一杯やろうと、管理人が持ちかけてきた話だった。ソレが見よ。ただの宴会だ、皆で楽しむ食事会になっているゾ。
中村弁護士は、美術館で語らって以来随分ケンイチを気に入りのようで、再三呑みに来い遊びに来い、と誘ってくれてはいた。だからといってこの宴会は、連絡を取ったその晩の事だ。性急すぎではなかったか?ましてや、食堂の女主人、よりによって西野陽子まで引っ張り出すとは。どこが男2人の別れの杯だろう。
別にこんな風の宴なら、女主人の食堂の周辺にも居酒屋や呑み屋はあり、それなら女主人の店を利用すれば良かった筈だ、要望に応えて弁護士夫妻をお誘いすればそれで善しだったろう。弁護士宅は商店街・繁華街から(女主人の食堂から)2丁しか離れていない住宅街の始まりに位置する、こじんまりした平屋だ。(女主人の食堂の)近所で、敢えて各人が食材や飲み物を持ち寄り、ワイワイやる必要がどこにあった?
更に更にと考える程に、ケンイチには何かと不満に思えてくる、それはなぜなのか。
要するに、目の前の男のせいだ。つまり目の前で、ワハハッと大喜びし過ぎている管理人、ケンイチはその姿に憤懣やる方なかったのだ。
美術館の丘から降りてきた大男は、おそらく(間違いなく)自分が楽しむ為に、この宴会を画策していた。別れを惜しむだと?ならばなぜ、あろう事かすき焼きの肉を独り占めにし、ビールを1時間に1ダースのペースで呑み続け、皆をからかい、大はしゃぎしてるんだ?
(コイツはひとつも、勢いが変わらない)
ケンイチの疑念は、今や確信に変わっていた。送別会は口実に違いない、始めはそのつもりだったかもしれないが、今となっては自分が一番楽しくて仕方ないのだコノヤロウ。
もちろん場には事情を明かしていない、皆知らないで当然に、料理に舌鼓を打ち酒を楽しんでいる。そんな中では不機嫌になれる筈もなく(えーい、くそっ)
「どうしました、ケンイチさん?」とは、かんらかんらの管理人だった。
「何でもねえーよ、知らねーよ」
そうだったと気付く。管理人が絡む話はいつも最後はバカバカしくなって笑ってしまうんだったっけ?
始めの内、皆は管理人の乱痴気騒ぎぶりに、目を丸くしていた。
だが、彼が度を過ぎて騒いだ訳ではない。酒を勧める為に盛り上げたかと思うと、皆の呑みッぷりを注視しつつ抑えるべき処は抑え、治めようとしていた、彼なりに心を砕いているようだった。皆はそれぞれにそれが判って、感じ入るそこここでと感謝の笑みを浮かべ、宴会は和やかに進んだ。
宴の席の身の上話は誰かから順番に、と始まった訳ではなく自然にそうなった。各人が自分の意見を面白おかしく話す内に、その人の身上が伺い知れるものだった。
食堂の女主人は、そこそこに酒が強い。盛んにお喋りをする内にも、管理人に何度も酌をさせた。冷酒をぐいぐいやって「亭主は、ふざけてたけど、まともな人だった…」
彼女によると彼女は10年ほど前に、水晶の街で小料理を夫婦で始めたらしい。若き日は2人はミュージシャンを夢見るバンド仲間で、それはそれは奇抜なライフスタイルを貫く夫婦だった。
だからといって、いつまでも音楽に浸り続けはせず、その情熱は、ご主人が導く形で小料理店の経営に注がれた。夫の口癖は、生きる事(飲食業で生計を立てる事)即・心が奏でるミュージックだった。
主人を早くに失いロストした失意は大きかったが、女主人に言わせると食堂の厨房に残る夫婦だけの旋律は今も鮮やかに色褪せず、寂しくはないのだという。息子が一人いたそうだ。少年期に交通事故で亡くしたのだといい、彼女はそこは黙し語らなかった。
「ところで、私は別に歳は離れてても、管理人ならオッケーだよ」
もちろん女主人の酒の席の冗談で、管理人は酒の席ながらの苦悩を、腕を組む「うふふ」の仕草で答えていた。
中村弁護士夫妻は、20年程前に此処に越してきたのだという。
それまではZ市街の外れの地区に、アパート住いだったが、アパートの建替えを機に、住み易く居心地が良い物件としてこの住宅を見つけ、水晶の街に居を移したのだ。
ケンイチに言わせれば中村弁護士とは、驚く程聡明でたっぷりとした知性をふんわりと体現している、そんな人物だった。
会話の中の弁護士の論調は、自分の考えや感想だけを楽しませる為に語らいでおく、そして意見があるのなら伺いましょう。そんな優しい風だから語らいに破綻は有り得ない。優しい皆の相談役とは街の評判であり、管理人やケンイチもそこは頷く処だ。
今晩改めて紹介された弁護士の奥さんは、美術館を訪問する婦人グループの中で、ケンイチもよく見かけた事がある女性だった。
静かな印象、なるほど柔らかな物腰の弁護士にはお似合いで、妙齢でいつまでも可愛らしい野菊のような女性だ。そう言えば、美術館で見かける姿は食堂の女主人と親しく、大掃除の時にはそのグループの縁の下の力持ちの役柄で、明るく振舞っていた。
「私達は、管理人とケンイチさんがデコボコ漫才のようで、面白いですね」
夫妻は声を合わせて笑い、2人共に美味な酒のようであった。
管理人・矢野龍介はと言うと、今夜まず始めにそのバンソウコウだらけの顔を、皆に驚かれていた。
「昼間美術館に。大柄な金髪の美女がやって来まして。見とれて階段を踏み外しました」この説明にはケンイチ、大笑い。
彼には今更話す内容はないかと思われた。5年前に、此処に美術館の管理人としてやって来た事、空手の達人である事、それは西野陽子にさえも知れている、既知の事実だし。
ところが、軽い新事実が語られた。それによると、彼がまだ都会(関東)に住んでいた頃、実は彼にも浮いた話があった、彼は都心の高級クラブのママさんと一時お付き合いをしていた、というのだ。
夜な夜な彼の宿所に、高級外車で乗り付けたそのママさんが現れては、彼を誘惑して大変だったらしい。
これには、皆がすっとんきょうな声を上げた。当時の管理人は、ボロアパートにママチャリしか持たない大男に過ぎず、不相応な付き合いは結局すぐに破綻したのだそうで。
「当時のアンタなら、空手で、いくらでも稼げたんじゃないのかい?」
もったいないと不満を洩らす女主人に、管理人はスコッとビールのコップを空けて。
「まったく、性に合いませんで」
クックックッと笑いながら彼にビールを注いでやるケンイチだが、もちろん黙っていない。
「今はRayuさんだろ?RayuTubeのRayuさん♪ユーチューバーはこれも無理だ」
「ちょっ、ちょっと」と、まんざらでもない様子で喜ぶ管理人に、ケンイチがむっときて後悔になる横から。
西野陽子は「何それ?聞捨てならんゾ~!」と、彼女の番を始めた。
陽子は、国税に勤めるお堅い役人以外の部分を、少しだけ明かした。趣味は筋金入りのオーディオキチガイ以外にもちゃんとあって(へえ、そうなんだと言ったケンイチは、もちろんここで彼女に頭をはたかれた)他に好きな事、それは星の観察なのだそうだ。
「星の観察?」皆が唸った。
星は、いつまでも普遍的にそこにあります、と彼女が言うと、北極星ですね?と、管理人が合いの手を入れる。西野陽子は微笑ましく管理人を見て、ぐっと、ぐぐぐっとワインのグラスを空けた。
ギョッとするケンイチ。彼女の持参したワインは3本だ、確か1本は女主人が飲んだ、じゃあ2本はヨーコさんが空にしている、大丈夫か、ヨーコさん。
星は、色々な見方を許してくれます、そこが素敵です…
西野陽子が語る星とは、北極星を中心に地軸の自転により夜空を巡る星々ではない。彼女は違う視点から眺めるもう一つの星々の姿を話した。銀河座標と呼ばれる、銀河中心と銀河面を基準とする座標系から捉えた、星世界である。
太陽系も自転をし、公転をしている、銀河系の一員として。では、その銀河は何を中心に回っているのか?その銀河系の銀河北極は『かみのけ座』、銀河南極は『ちょうこくしつ座』と呼ばれる…
夜空の煙のように見える天の川は、銀河系と言う星雲を内部からみた側面を観察している姿である―少女の頃、星空ウオッチングの会に参加した時に、大人達からそう聞かされた西野陽子は、ナゼそんな観え難いものを観ようとするのか尋ねた。
いい質問をすると笑った一人の大人が、彼女に教えてくれた。
「では、邪魔な障害物の無い空がある、目立たないけれど、そこは『宇宙の窓』と呼ばれているよ?」
大人が指し示してくれたものが、銀河北極の『かみのけ座』だった。あの部分を中心にして銀河は巡り、その先には遠くまで見える、より透明な宇宙がある…
「見方によって、まるで違う話でしょう?星空には色々な姿がある…だから素敵です…ひっく!」
ケンイチは、ひっくを気にしながらも、真面目なヨーコさんらしいと感じる、星の話はさっぱりわからないが、ロマンチストなんだなと感心する事しきり。
☆
それにしても和やかだなと、談笑の中でケンイチは思う。こうやって、皆で鍋を囲むという雰囲気の中にいるのは、何年ぶりだろう?
ケンイチが少年の時、両親が健在だった頃は、無条件にこんな団欒があった。
片親となって。荒れた青年期を経てその延長でヤクザになって。暫く経って、或る日ケンイチが実家のアパートに帰ってみると、母親の姿はなくなっていた、母は蒸発していた。
愛人の影がちらほらあって、彼女はそれでも上手く良き母親を演じていたが、ある日忽然と、ケンイチの前から姿を消してしまった。
親子の縁を切りたかったのかと、当時は勝手な母親に怒りを感じた。愛人を探し出し血ヘドでも吐かせてやろうか。しかし、ヤクザ者の息子と生きるよりマシかもなと、そこは思いとどまった。母は幸せになるチャンスを見つけ、それを選択したのだと苦く納得もして。
母親からは後日、所在を伝えるつもりだったのだろう連絡があったが、ケンイチは届いた手紙に添えられた菓子箱を窓から放り捨て、書面は内容もいい加減な確認で丸めて、ゴミ箱に放り込んだ。母への怒り、荒んだ自身への怒りを混ぜこぜにして、捨てた様な気がしたものだが。
それでも思い出せば優しい母だった。蒸発劇の寸前まで確かに母であった。忠告も聞かずバカな道に走った息子に、なぜならそれまで、彼女が用意し続けた食卓の暖かさは、今此処にあるものと何も変わらなかったのだから。
(全部、オレの我儘から、こうなった)
オレは自作自演で荒れすさんで、結果、幾つかのものを失ったんだ…
ところでこの家には、一体ビールが何本あるんだろうか、と皆が不審に思い始めた頃。
ようやく管理人が腕時計を気にしはじめる。弁護士はそれに気付いて「ああ、いい時間ですね」と声に出す。
先程から西野陽子はすっかり酔ってしまって「コンチクヨー、コラァ、ケンイチ」と、ケンイチをポカスカやっている。始まって、あっという間の数時間だった。そろそろ、宴会はお開きだ。
彼はその時、迂闊に洩らしてしまう「今日は、オレなんかのために、すみません」
稲妻のように。
ふにゃふにゃの西野陽子が反応していた。彼女はケンイチの襟首を掴む。
「ちょっと、ケンイチさん、それどーゆー事!?」
しまった、と管理人が大汗になり、弁護士夫妻と女主人が眉を寄せる。視線がケンイチに集まり、同様に(何だって、どういう事だ?)と。
ケンイチ、ダメダ、此処ニイテヨ、と呻き、酔いで自律を失った西野陽子が首元に取りすがるが、ケンイチは寂しげに微笑んでいた。
「実は」と、切り出し。
「オレは、実はゲストなんかじゃありません、ヤクザです。Z会のただのチンピラです。オレは、みなさんを騙していました…スミマセンでした」
「オレ、いなくなります」
管理人は下を向いている。
頭を下げたままのケンイチを、西野陽子はポカスカ叩き続けていた…