後編・8
管理人はスルリと金狼の背後に身体を入れる。
後から首に腕を巻きつけられ、もがく金狼だ。距離をとる打撃戦は不利とみたのか、管理人は金狼に組み付く、接近戦に持ち込んでいた。
だが関節技?空手家が自らそんな戦法を選ぶのか?とケンイチが、ギャラリーが回り込み詳細を伺うと、あろう事か管理人は。
「コノヤロウ、よくもやりやがったナ」と文句を言いながら、背後から金狼の頬をひねくりあげていた、あれ、あれれ?
金狼の表情が、動揺とあわせとんでもなく歪んでいる、ジタバタする、管理人は離さない。やみくもな肘打ちも、後に抱き付き踊るようにかわす管理人の体術に効果がない。
金狼が後頭部で後方に頭突くような動きを見せ始めて、管理人は金狼の背中に蹴りを入れて、体を離した。蹴りは空手のものではない。例えばそれはどつき漫才のつっ込み方がやる、痛くないオーバーゼスチャーな、ケリだ。
どうなってる?とケンイチは思う。相手は、殺人鬼だゾ、なぜ空手を使わない?
離れざま、金狼の裏拳が管理人の首をなぎ払うように放たれたが、管理人は更に速いスピードで裏拳の回転方向に回り込み、一周し裏拳を追い越して無防備な金狼の目前に現れていた。すっげーゾのケンイチがここだ!と思った決定的場面だった、が。
管理人は、ここから左右の細かい平手打ちを金狼に浴びせ始めていた。要するに手首だけの、ビンタか?
金狼は、怒り狂う。右のストレート、左のフックとハンマーのような拳を連弾で繰り出すが、冷静を欠く攻撃など管理人は軽くかいくぐる。右から左から隙間から、とビンタを張り続ける。
そのビンタは、例えば相撲力士が使う張り手などではない。音だけがパチパチと響く、相手の戦闘力を1パーセントすら奪わない汚らしい攻撃だ。だが難敵の気持ちを折るには、効果絶大だった。
金狼の抵抗は、強弱を以って試みられたが、次第に勢いが無くなっていく。
金狼の特徴の一つは、無類のタフネスぶりだった。関東副都心の繁華街で、外国の現役プロレスラーと殴り合いを演じた事がある。立てなくなったのはもちろん相手だった。なまじ耐久力に自信があったから―例え矢野龍介の打撃にもすんなり倒される訳がない、という自負があったから、この事態が歯がゆく受け入れられない。
オレはナメられているのか?ケンカにすらなってねーのか?野郎、貴様、テメー、コンチクショウ、おのれ矢野龍介!逆上の色が赤く腫れていく金狼の頬に見てとれるが、ビンタがそこを狙うのだ。パシパシパシ。声を洩らせると口元までパシパシパシ。体制を整えたい金狼に、それを許さない管理人は執拗で。
(サディスト?)
遊んどる、とケンイチがため息になる。ヤクザ達も見守る表情に嘲笑が浮かんでいた。
ふと一番若い男と目が合う。ギラついた風貌で露骨に睨み付けてくる。ケンイチが組を逃げ出す前は、アニキアニキとお世辞ばかり言っていた若い男だった。
好奇心だけでヤクザになって虚勢を張って、例えばそこで凄んでいる。寂しいもんだと、ふと感じてしまう。オレもこんなだったかと嫌気がさし目を背ける。
空手を使え。早く倒せとケンイチは思っていた。相手は天下の金狼だ。すんなり行くのなら、早く決めてしまえ。
遂に金狼はビンタの嵐に、もがくのをやめていた「判った、止せ、もう止めてくれ」と、途切れ途切れに哀願を繋ぎ始めた。
管理人が、手を止めると。
見ると金狼は、頬が2倍くらいに腫れ上がり、唇はタラコだ。瞼も腫れ上がり、きっとサングラスの奥の瞳は糸目になっている筈だ。
管理人はやり過ぎましたかと笑い「何でしょうか?」と、本当にいやらしい。
「…強いな、余裕だな、矢野龍介、やっぱり憧れる」と呟く金狼は肩を震わせている、降参を表明しながらも怒りを収め切れないでいるのか。
いずれにせよ白旗だ、とケンイチは受け取る。確かにやりすぎだゾ管理人、と金狼に同情を寄せながら、冷静に2人の有様を見る。管理人はかなりやられたが、恥をかいたのは金狼だ。この勝負引き分けだろう。
と、そこでふと金狼の右手が、軽くリズムを取っている事に気付く。金狼はまだ何か狙っているのではないか?
「だが、オレは殺し合いをやってんだ!お前らの曲芸とは、違う!」
突如、怒鳴る金狼。ケンイチは、不吉なイメージを伴って電撃のように思い出した。金狼のあだ名は抜刀の金狼だ。コイツは、背中に隠した短刀で踏み込み、居合斬りを使う!
管理人、退け!と叫ぶケンイチ、憧れなど、堕ちろ!と咆哮する金狼、声は同時だった。
剣術の居合は暫撃である。運動の連動を犠牲にして、筋肉が放ち得る一度きりの瞬発点に全てを注ぐが故に、達人の居合いの抜刀は長尺の日本刀で切っ先が音速を超え、上段からでは断ち切れない巻き締めた藁束の塊をも、一刀で絶断するに至る。
金狼は剣術を秘め抱き、それを実践で使うのだ。40センチの仕込み刃を腰に隠しその居合が放たれる時、敵には凄惨な最期が待っていた。
ところが、仕込みの短刀は宙を舞う。
暫撃を避ける事は難しい、だがこちらも暫撃を以って迎撃に臨めばそれに応じる事が出来る、それが武道の真髄、心眼である。
管理人の放った迎撃の一閃は、あの超高速回し蹴りだった。なんと初めて空手の技を見せた管理人は、居合抜きの短刃を蹴り飛ばしていたのだ。
一同が唖然とする。ケンイチも3号爺も、もちろん金狼も。
金狼にすれば、あの戦慄の回し蹴りは、想定したものより遙に速かった。矢野龍介、お前はあの試合ですら全力でなかったのか、と何も見えなかった事に震えてしまう。次にはいよいよ繰り出される管理人の空手技があろうというのに、もう術がなく立ち尽くす。
だが管理人は。空手技は繰り出さなかった、変わりに笑って「憧れは、堕ちません」
金狼の右頬に、回し蹴り触れたのか少し切れ、血が滲んでいる。管理人は腰に下げていた手ぬぐいを差し出していた。
「勝手に憧れておいて、勝手に止める?そんな勝手はやめていただきたい」
「…」
金狼は、ホレホレと管理人が勧めるので、仕方なく手ぬぐいを受け取る風だった。それは芝草があちこちに付き、明らかに汚いが管理人愛用の1枚だ。
「汚ねぇ」
金狼が呟くと、え?の管理人。ふん、金狼は憮然としていた、しかしすぐに苦笑いを返す。
彼は、スーツの胸ポケットから1枚数万円するエルメスのハンカチを取り出すと、管理人にひらひらと振ってみせる、自分の頬に当てる、ばか、氏ねと笑顔で罵って。
「矢野龍介、お前こんな田舎で何をやってる?」
そして、金狼は踵を返したのだ。
「帰るゾ!」
撤収の号令だった、ヤクザ達は反応する、これで騒ぎは終わったのだ。
のろのろと追手達が動き始めた、引き上げていく。
そこでケンイチがちょっと待てと、兄貴分の腕を掴む。兄貴分は露骨に不愉快なガン付けだった。
すまねー、許してくれと言うケンイチは、人に初めて見せる哀願の表情をしていた。ロッカーの鍵だ、ほら、それから組にはちゃんとワビを入れるから…
「だから、もうココに来ないでくれ」
束の間、両者のらみ合いになった、いや正確には、ケンイチは肩を落とし目を芝に落とし気味に。
そんなケンイチを、突然、兄貴分が殴りつける。すわ、小競り合いか?
ケンイチは手向かわなかった。歯を食いしばって殴られるままだった(だが、今のパンチは…なぜか力がなかった?)
兄貴分は何も表情を見せない、ケンイチは続けるしかなく「ここは違う場所だ、俺達が出入るする所じゃない、オレは判った、もう判ったから此処に来ないでくれ」
兄貴分は未だ僅かの間黙っていた。ようやく「あのな」と口を開くと、なぜか笑いながらに。
「金は、とっくの昔に戻ってきていた。例の拾得物だ。私鉄の駅員が、ママチャリで届けてくれてナ?金を詰込んだ旅行バックには、組長の住所、氏名札がしっかり掛かっていてな、落し物だった」
「中央から金狼がお出ましになってな?コッチも退くに退けなくなっただけだ。金に関して心配はするな」
「オレとのイザコザも、今の一発で勘弁してやる。だがな?」
「組に対してケジメをつけろ、ヤクザは遊びじゃネーゾ。それが出来なきゃ、オレ達はいつまでも此処にやって来る」
兄貴分はケンイチの傍を離れるが、離れ際に痛快に大きく笑った。
「ケンイチ、お前何があった…随分変わったな?」
敷地の外では、高級外車から首を出した金狼が、イクゾと叫んでいる。
高級外車は砂塵を撒き散らし荒っぽい発進をする、追手達は美術館を去って行った。