後編・7
ケンイチが此処で過ごした、最後の土曜日の早い午後。
数日続いた雨が上がったので、丘に出たケンイチが芝刈り機をブンブン振り回していると、視界の遠くの門前に、ゆっくりと車が停車する。それは、良く知っている黒塗りの高級外車だ。
ケンイチは芝刈り機のエンジンを止めて、唇を噛んだ。
門を挟んで、車から降りてきた男達と3号爺が言い争いになっている。ケンイチは歩み出して、すぐ小走りになった。
「ケンイチなんぞ、おらんゾ!」
鉄柵越しに3号爺がめくらめっぽうに叫んでいるが、襟首を捕まれて動けなくなっている。
「離せ!」
全力疾走で、怒声を上げるケンイチ。
明らかにそれと分かる男達。市街Z会のヤクザ達が、いっせいにケンイチに目を向けた。
彼らは声を荒げて、鉄柵を乗り越えて芝生に降り立ってくる。1、2…3人、よく知っている3人だ。
2人は下っ端ヤクザ、残る一人は兄貴分で、組事務所を飛び出す際に、ケンイチに傷を負わせた男だ。もちろん、その時は不意を衝かれただけで、たっぷり仕返しはした…
ケンイチはひと月前、やくざ組事務所から、金庫にあった現金を持ち逃げした裏切り者だった。追手が現れるのは必然だった。追手はその時の姿のまま、シーンを切り取ったような当時の勢いで、遂にやってきたのだ。
探したぞ、許さんぞと、追手が口々に声を荒げる。
3号爺は逃げれば良かったものを、かばうように場に割って入ろうとして、簡単に再び捕まっている。
ケンイチは、人質になった3号爺に舌打ちしながらもニヤリ、と笑った。
短刀を抜く者がいたが、この3人ではケンイチに歯が立たない。ケンイチのケンカの腕前は、3人を総合したよりもおそらく、立つ。自覚していたし何より、3人が凄んでばかりで一向に詰め寄れないのは、それを物語っていた。
人質のハンデが合っても楽勝だ。ケンイチの笑みは追手達にそんな風に映ったか?だがケンイチの内心はヤケクソだった、それで笑っていた。
自分が嫌でたまらなかった。遅かれ早かれこうなる事は判っていた、なのにオレは。
すんなりと、捕らえられれば良かったのかも知れない。
だがふがいない自分に対する怒りが、彼をヤケクソにさせていた。こうなったらひと暴れしてやるゾ。
兄貴分の「覚悟しろ!」と言うセリフは気持ちを逆撫でする。
「いいゼ、相手になってやる。ここしばらく、調子も狂ってたところだ」
対峙する距離はケンイチの距離だ。右に回ると、ヤクザ達は左に回る。じりじりと間を詰めると退く追手。
やはり慎重になっているナとケンイチは思う。彼の笑みは、戦闘モードの不敵なものに変わる。
(それで、オレが倒せるか?)
しかし、ここで視界に、高級外車から降り立つ男の姿が目に入り、ケンイチはギョッとする。
追手はもう一人いた。その男は2m近い大男、白いダブルのドレススーツに特徴のある金髪のサーファー・ヘア、スクエア型の赤いセルフレームのサングラスは…
近付いてくる金髪の大男は、殺し屋・金狼だった。ケンイチの表情から、血の気が失せていた。
金狼は、任侠の世界やその筋の裏社会の、有名な殺し屋だった。その同じ世界で知る限り、お目にかかる事の無い雲の上の大物だ。
下っ端ヤクザに接点などもちろん無く、そもそもなぜここに現れるのか判らない首都圏あたりの、いわゆる中央のメジャーな筈の、暗黒社会の有名人。
以前、組事務所で、その雄姿を映像として見た事がある。
どこかの大組織の幹部の葬儀だったか法要だったかを、マスコミが取り上げた報道番組に、ちらりとその派手な姿が映り「あ、コイツだ、知ってるか?」―時間つぶしに読んだ、裏社会の薄汚れた任侠雑誌にも写真付きで特集されていた、凶悪を誇らしげにする黒い偶像に「この人だ、任侠界最強の殺し屋だ…金狼」と、仲間内の誰かが指を差し憧れ話す、奇形した賛美を思い出す。
(こんな奴が、ナゼ出てくるんだ?)
首筋を冷や汗が伝う、見ると追手達は勝ち誇った顔になっていた。
「ケンイチ、終わりだな」
誰かの言葉にケンイチは歯軋りする、ちくしょうと思う。
金狼が近付いてくる。多分ケンイチの攻撃範囲より、大きな金狼のエリアだろう、そこに至ればお終いだ。素手の殴り合いは同じスタイルでも、レベルは雲泥程違う。
その寸前に覚悟が決まった。両拳を一度開いて、握り締める、ボキボキと指の関節が鳴る。
「やって、やるゾ」
金狼は、ケンイチを見下すように眠そうな表情だ。薄笑いを浮かべて両手をポケットに突っ込み、そこに至ろうとした処でピタリと足を止める。
奇妙な間がある。気付くと場の気配が変わっている。
「管理人!」と3号爺が声を上げ、振り返ると背後に、いつの間にか管理人が立っていた。
管理人は、いぶかしげに「何が、どうなっていますか?」
金狼がニヤリと笑って「メインディッシュが、登場か」
2mの大男が対峙する、その様は壮観だった。
金狼の狙いは、ケンイチなどではなく初めからこの管理人・矢野龍介だった。
どこかの地方の組で揉め事が起きている…、些細な情報から偶然、金狼はその関係者に矢野龍介がいる事を知ったのだ。
まったく興味のないマイナーな傘下組織の、下らない出来事がケンイチの逃亡劇だった。だが、どうやら騒ぎを起こしたチンピラの逃亡先に矢野龍介がいて、何か関係があるらしい。
それだけで充分だった。以前から金狼は、管理人・矢野龍介を探し回っていた。
矢野龍介は、伝説の男だ。最も強いだろう日本人、失われた格闘界の星。そのネームバリューは闘う男達の世界では絶大だった。
華やかなエンターティメントとしての格闘界がある。闇の中で凌ぎ合う悲惨な殺し合いの世界もある。金狼はその暗黒の世界で、自らの体を磨り潰し命を削るように生き延びて、それなりのポジションに登りつめた、その頂点に。
ところが、陰陽、明暗の格闘界どちらも統べてランク付けされる場合に(当事者に取っては,比べようもないと笑いたくなる、バカげたランキングとやらだが)その珍妙な序列で、金狼は矢野龍介に次ぐナンバー2だった、いつまでも。
死して神格化された者を超えられないのなら仕方がない。だが、過去しかない消息すら判らない矢野龍介を、なぜ恐ろしく強い、と口にする者が絶えないのか?なぜ風評を変えられないのか?彼は歯軋りをした。それは同時に、身の内に憧れを隠し切れない自分に対してでもあった。
かつて記録映像として見た矢野龍介という男は。その空手家は、オープントーナメントという世界戦決勝ラウンドで1度きり動き、南米の世界最強を謳う対戦相手を戦闘不能にした、それは映画の1シーンのような、超高速の回し蹴りだった。
あの矢野龍介には戦慄した。そして畏怖を以って(俺はこの男に勝てるのか?)
幾度となく修羅場をくぐり抜けテクニックを身に付ける度に、あの映像に肉薄する自覚があった。そして今や、流血の中で洗練された自分の格闘技術は、確実にあのラウンドの矢野龍介を、超高速の回し蹴りを弾き返し圧倒するに至っている。
探し出し決着をつけよう、頂点に憧れなどいらない。
今、金狼は力で勝ち取ったこの裏社会で、絶大な賞賛と生きて行く保障を得ていた。だがその内に生き、生かされながらも、反吐が出るほどにこの世界が嫌いだった、恨んでいた。俺を利用し、血の海を平然と笑う自らは決して手を汚さない奢れる者達が、未だ支配の側でのうのうと生きているこの国。
では今度は俺が震え上がらせてやろう、何時まで笑っている?と。
憧れなどという美しい思いの欠片すら無い、荒涼とした世界を現出させて、自らこの暴力の世界を嘲笑してやろう。
金狼にとって、それが目の前の男を倒すという事に他ならない。待ちに待った、彼が最強を証明するに不可欠な儀式だったのである。
「矢野龍介、やっと見つけた」
金狼は呟き、危険な瞳でにんまり笑う、が管理人は興味が無い。ちらりと金髪の大男を一瞥しただけで、視線は追手のヤクザ達とケンイチに巡らせていた。
「この騒ぎ、説明していただきましょう」
「これは、その」
ケンイチは口ごもる。ヤクザ達が口々の罵声は異口同音で「ケンイチは組の金を持ち逃げしたんだ!」「1億だ!」「かばい立てすると、容赦しねぇぞ!」
ヤクザ達の騒ぎ立てに、1億?持ち逃げ?ケンイチさん?と呟き、管理人はケンイチを睨みつけていた。
「それはケンイチさんが悪い、本当ですか?」
「それはその。本当だ、ごめんなさい」
ケンイチが肩を落とす。謝りなさい、そしてちゃんと返してあげなさいと、管理人が諭し始めると、ヤクザ達の雰囲気が変わる(おや、この大男?話せる人じゃねーか?)
短刀を抜いていた者が、構えていた手を下ろす、3号爺の拘束もいつしか解かれる。何となく、金狼を除く者達で談議が始まっていた。
「金は返すよ、組には迷惑をかけた」
「ケンイチ、金はどこにある?」
「私鉄のコインロッカーだ、ひと月前に隠したままだ」
「ひと月前!?」
3号爺の襟首を捕まえていた一番若い男がすっとんきょうに。
「ケンイチ、ロッカーは2週間で拾得物だぞ。じゃあ金は…駅の落し物係だ」
「え?」
ケンイチが困った風になると、全員がやれやれと腰に手を当ててしまう。
こりゃ笑い話だ、では無かった。
鈍い音がして、管理人がぐわっとうめき声を洩らす。
金狼がいるのだ。
金髪の大男は鬼神のように既に始めていた。議論など必要ない、この男の目的は違うのだ。
恐るべき右の一撃だった。大木のような豪腕が唸り、管理人の頭部を直撃していた。次に砲弾のような左がアゴをえぐる。
周辺がばらばらと散り距離を取り、ケンイチもその中に在って拳を握り締めていた。
凄まじい金狼の重量級の攻撃だ。たまらず管理人は数歩後退るが、重たい前蹴りが追い腹部に命中する、膝を落とす管理人の頭部に、凶弾の右拳が見舞われる。
管理人は芝にめり込まされ、そこに倒されてしまった。
「管理人!」
3号爺が叫ぶ、ケンイチがダメだ、と洩らす。ヤクザ連中はいたたまれない顔だが、仕方ないもう止められない、と模様眺めだ。
勝ち誇る金狼は管理人の胸元を掴み、苦痛に顔を歪める大男を引き立たせようとしていた。
「ケンイチ、あの金髪は強いのか?」
3号爺の問い掛けに、ケンイチは嫌でも頷かざる得ない。
金狼は恐ろしく強い筈だ。奴にまつわる血生臭い話はごまんとある。素手の勝負で有名な武道家が太刀打ち出来なかった話が、任侠雑誌にも数ページあった。この男にはあだ名がある、確かおぞましい、何だったか?
3号爺逃げろ、後はオレが何とかすると言う端で、3号爺が胸ポケットからカードのようなものを取り出すのを、ケンイチは見た。カードはまさしくカードの風だが、3号爺が表面を撫でると一瞬表面が輝きデジタル表示が閃き流れる。
始めに数回点滅した大きな文字は signal・NAILだった。
「ケンイチさん、逃げろ」
半ば無意識なのか。よろめき立つ管理人は、金狼に胸ぐらを捕まれたまま、ファイティングポーズでケンイチに呻いた。
「3号爺を助け出して、ここは逃げなさい」
3号爺がきょとんとする。
「ワシは、もう捕まっておらんぞい?」
議論は丸く収まりそうだった、だからヤクザ達は特に3号爺を人質にする理由もなく。彼は隠れるようにケンイチの傍にいた。
少し空気が変わる。管理人は今、何か、ムスッとしなかったか?
管理人の顔面を、金狼の頭突きが襲う、ゴッ、ゴッ。鈍い音で2回、これはキツイ…
「憧れていたのにな?失望したぞ、矢野龍介」
これで終わりだと、金狼が舌なめずりをして3度目の頭突きを叩きこむ、バシッと音がして?管理人が手の平で、金狼の額を受け止めていた。
管理人は面白くなさそうに金狼の頭部を突き放す、よろめいた金狼だった。管理人は呟いていた「せっかく盛り上げたのに」
あっ?何だって?コロリと空気が変わっていた。