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水晶の街  作者: iuと猫
22/40

後編・6

 ゆっくり時間が流れている。


ケンイチは雨音を耳にしながらそう感じ、中村弁護士に目をやった。


彼はずいぶん長い時間、ひとところに立っている。魅入っているのは【恋文】だったので(もしかしたら、ザワザワしているのかもしれんナ?)


 ケンイチはメモを片手に立ち上がっていた。


「その【恋文】なんだけどさ」と、中村弁護士に歩み寄って。


「本物なんだってさ…信じられるかい?」


タメ口は、もちろん悪意無しだ。


中村弁護士は、街の噂でケンイチが口が悪い事を知っており、とっても善い奴だとの褒め言葉がつく事も、もちろん知っていてそこは気にならない様子だ。


「本物でしょう?ここにあるものは」


彼の返答は笑顔で、【恋文】を眺めつつ、目を返しつつだった。


 横に並んでみると、中村弁護士は一回り小柄だ。だがその立ち姿はゆったりと堂々としていて、おそらく周囲に体格差を感じさせないだろう、彼は細身なのだが。


「本物なら、時価数百億円だってサ、有り得ないだろ?」


ケンイチが肩をすくめて笑うと、弁護士も笑う。


弁護士のかもす雰囲気は大らかで、ざっくばらんだった。笑うさまも他者に合わせてくれるようで、例えばその印象は、何にでも静かに耳を傾けてくれるふところの深い老紳士の風。


「しかも、いわくつきだゾ。知ってるかい?」


「いわくつきだゾ、ですか?」


温和で親しみ易い弁護士の笑顔が、ケンイチを普段以上に饒舌にしたのか。


「実は【恋文】には事件があって…」と、が楽しげにコホンと咳払いをしただけなのに、ふむふむと、興味を寄せて彼がケンイチを見るものだから。


ニヤリと笑ってケンイチ。メモを片手に「昔、笑える事件があった。1971年、ベルギーで発生した義賊「ティル」による【恋文】盗難事件とわ…」と、なんと事件の説明を始めてしまったのだ。


始め弁護士は面食らうのだ、だがすぐに苦笑いになって(ふんふん、と熱心に聞き込む中村弁護士に、時々質問「コレは、何て読む?」「え、ん、ざ、い(冤罪)です」)


熱心に辛抱強く、2人は何だかたどたどしくも、話し手と聞き手を上手くやり遂げたのだった。


ふぅ、説明終わり、というケンイチは軽い赤面だった。まんまヨーコさんのコピーだったナ、とは内心だ。


 事件のあらましは、弁護士の肺腑はいふを衝いたようだった。


彼は唸り「美術品犯罪事件の公判事例として、聞いた事はありました」と言って、しきりに絵画に見入る。


「その事件の、これが本物なのかなぁ、本物でしょうか?」


弁護士が意見を求めているのに、ケンイチは一瞬口ごもったり(はたと、この人は澄んだ瞳をしてるナ、などと思ったからだが)


【恋文】が本物オリジナルか贋作か、すんなり疑念してくれた事に感謝になりながら、会話に戻ってのケンイチは「状況証拠は、本物らしい。そんな事件の大それた名画なのにナ」


彼は腕組みになって、口をへの字に曲げて見せた。


「普通なら、有り得ない話だよな。本当に本物ならなぜ此処にあるんだろう?」


独り言ともとれる口調は寂しげで。


「こんなチンケな美術館で、ひっそり展示なんて。名画が泣いちまう」


弁護士は、ちらりとケンイチに目をやる。


「絵画の価値が、展示場所で変わるものでしょうか?」


そんな中村弁護士の意見はもっともだろう、だが名画は名画たればこそ、在るべき場所を選ぶのではないか、とケンイチは思う。少なくとも、世を忍ぶ…なんて厭世的であってはならない筈だ。【恋文】については、オリジナル、レプリカの疑惑以上に、未だに何か釈然としないところがある。それが何か、ケンイチにもよく分からないのだが…


 ここでケンイチは質問してみる気になった。この人の絵に対する印象はどうなんだ、と、妙に気になって。やや躊躇いがちに、瞳は悪戯っぽく。


「ところで【恋文】に、ザワザワしないか?」


不思議そうな中村弁護士は「ザワザワ、ですか?」と、キョトンとする。


(そりゃそーだ、突然何を聞いてるんだ、オレ)


問い掛けておいてうろたえる自分に、ケンイチが呆れていると。


 中村弁護士は暫く絵画を見て、次に笑みを見せ、視線をガラス壁の雨だれに移し「私は芸術がよくわかりませんが」と、語り始めた。


「此処で【恋文】を観ていると、不思議に気分が落ち着きます」


「ご存知だと思います。私は弁護士です。職業柄、例えば刑事事件などは、知らなくてもいいプライバシーを覗き見るもので…人の思惑、移り往く感情という面倒で危うい、掴み処のないものに翻弄されます。疲れてしまい迷う事もあり、そんな時はよくここに立ち、【恋文】を眺めます」


「本物か、偽モノか、その展示場所がどこであるのかに関わらず。少なくともこの絵画の婦人が庶民的であり、此処でそれを観れるのなら、私は構わない、例えば街ですれ違うご婦人を思い出させてくれ、ホッとさせてくれれば、それが偽モノで秘密の部屋であっても、私は嬉しいでしょう」


 まるで雨音のように「ザワザワとは?落ち着かない感じですか?」と、弁護士が問うのでケンイチは慌てて「いや、そうじゃなくて」


「感動するんだ、ザワザワと…あれ?落ち着くかも知れない」


ケンイチは首を傾げて考えてみて、どちらかというと落ち着くんだなと気付き結論し、うなずく。


即座に「それなら私も同感です」と相槌する弁護士は、そして不思議な事を言った。


「感動してザワザワするのでしょう?問題にすべきはそこです。感動を問うのなら私は【恋文】と、それを教えてくれたケンイチさんに感じます」と。


 はぁ、オレに?


雨音が強くなっていた。


「義賊「ティル」は、バカげた行為ながらも難民を助けようとしたのでしょう?貴方はそれを賛美するように、ロイマンス青年を弁護するように、事件を語っていましたよ?」


中村弁護士は微笑んでいる。


「それなら、私が【恋文】の前で立ち止まる理由と同じです」


変わらずケンイチは、はぁ?で。


「アンタ、まさか?難民でも助けてるのか?」


ケンイチは、又バカな質問をしたと恥じ入るが、中村弁護士はユーモアをって真面目に返答してくれるのだ。


「人の弁護は、難民救済と同じです。罪無き人は何人も法の下に守られる権利がある。報酬の有るなしに関わらず、ね」


 はぁ?は少し間が空いて質が変わる、笑いに変わる。


「弁護士さんだろ。当たり前にそうじゃねーのか。報酬の有るなしに関わらず、だろ?」


「はい、そうですとも」


中村弁護士は嬉しそうに頷く。彼は又、変な事を言った。


「【恋文】を盗んだロイマンス青年も、ザワザワしたのかもしれませんね?」


ケンイチは眉を寄せる。えっ?弁護士の言葉がストンと胸に収まらない感覚だ。ロイマンスが、ザワザワした?


「単純に、彼を衝き動かしたものは、絵が訴えるヒューマニズムだったのではありませんか?私もケンイチさんもそれを感じた。ザワザワとは、感動と別の次元で落ち着くんだ、沈静するというのなら私も同じです、随分落ち着きました」


「事件は枝葉がついて大仰ですが、案外、素朴なものだったのかもしれない」


素朴な、ヒューマニズム…


そんな考えは微塵も浮かばなかった。ロイマンスは世間を騒がせたかっただけの、愉快犯だとばかり思い込んでいた。


 ふいに、ケンイチの心がザワザワした。


絵画に、ではない、オーディオ・システムでもない、ここにいる中村弁護士にだ。だが彼は…人だゾ?


中村弁護士は会話に満足した様子だった。


幾度も頷いた後、最後にひときわ大きく一つ頷いて、ケンイチの肩に手を置き「楽しいひと時でした、またお会いしたいです」と言って、ケンイチから離れる。


 雨脚が強まり、雨音が更に強くなった。


気付くと既に距離があった。目で弁護士の背中を追うケンイチ脳裏にはその時、不思議にも…海のイメージが広がっていた。


海岸線の長い砂浜だ。青年がいる、強い風に、上着がはためき、髪が散らされる。風と海鳥と波の音がする。水平線に視線を投げ、空を仰ぐのはマリオ・ピエール・ロイマンス…ティル?それとも?彼の気持ちがなぜか伝わる、ナゼ奴は、あれほどまでに孤独なんだ?


 我に返るケンイチの視界に、2Fから1Fへフロアを降りつつある弁護士が映り、そこに管理人がお喋りに参加しようと階段を上がってきており。弁護士は、固辞を終わらせようとしている…


 更にケンイチの脳裏にイメージが浮かぶ。今度は海岸線ではない、あの時だ。


あの日、故郷の美術館でA男の人物画に慟哭どうこくした、かつてのあの時。


今になって、フラッシュバックの中に見い出し気付く事があった。あの時、ハンカチをくれた中年のサラリーマン風の男性は、怪我を気遣うお喋りのつもりだったのか、こんな事を言った。


「この絵の中にいる女の子はきっと、このポーズを取る男の子を好きなんだろうね」


 A男は。


A男はそれをケンイチに伝えようしたのではないか。再会し別れを惜しむ為でなく、A男が最後に伝えたかったのは、B子の心だったのではないか。


 衝動的に身をひるがえしたケンイチは、中村弁護士を追おうして、階段の手前で管理人に制せられ「どうしました?」


「弁護士は?」


「良い時間だったと。良い話をしてもらったと、ケンイチさんを褒めていましたよ?」


ケンイチが、管理人を突き飛ばし踊り場に急ごうとするので、解らぬ管理人で「ケンイチさん、中村弁護士は本当に良い方です、絡んではいけません」


「うるせ、判ってる!」


 階段を降り切ろうとしたところで、ケンイチは中村弁護士の背中を見つけた。既に、彼は美術館の入り口扉に立ち、傘の準備をして出て行く気配だ。


「なあ!」


声に気付いた中村弁護士は、上半身だけで振り返る笑顔を見せる「?」


ケンイチは、なぜ追いすがり声を掛けたかったのか自身で判らない、気持ちの向かうままだった。如実にょじつに階段を降り切らぬままに。


「アンタ、まさか難民の弁護じゃねーんだよな?」


まさか、と苦笑する弁護士は「今は、そうですね、とある傷害事件の弁護です」続けて。


「水晶の街に、気は優しいが乱暴者の青年がいて、彼を守りたい、母子家庭を守る事になります。儲けなどありません」


ただのヒューマニズムですと付け加え、彼は気さくなガッツポーズを見せる。


(くそ、まるでオレじゃねーか)


巡り、遡る(さかのぼる)何かがある…


「そうか、オレには良くわからねー。だけど…がんばれ。いや、頑張って下さい!」


ナゼに敬語だと動揺になるケンイチを、背中に受け止めたかのような中村弁護士だった。そして、彼は美術館を去って行ったのである。


 そこに、片手を上げた挨拶が残っていた。


あの時あのサラリーマンは、もちろん中村弁護士ではない。だが重なる姿をケンイチは感じていた。


つかの間だがオレは今、あの時を取り戻していた…誰もいない空間を前にして、ケンイチは礼を言わなきゃと思う。


「ハンカチをありがとう…教えてくれてサンキューだった。A男、B子を幸せにしてくれよ?」


―西野陽子が暗示した第六感とは何か。


ケンイチは、漠然ばくぜんとしたそれに触れたような気がしていた、いや、ほんの今そのただ中に在って、答えが解っていた筈だった。だのに、それをすぐにを見失ってしまい…彼は暫くの間、そこに立ち尽くしていた。




 そしてある日、追手が美術館に現れる。遂に、ケンイチにとって奇跡の2日間が始まった。

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