後編・5
また、ある日の事。
ケンイチは、2Fフロアの壁際の長椅子に片膝を立て座り込み、時間を潰していた。
もう折り目もくたびれてしまったメモ紙を、利き手の中指と人差し指でつまみ、顔の前にかざして見入る。メモ紙は、あのピクニックの最中に西野陽子から手に入れた、フェルメールに関する手書きメモだった。
そこには、芸術家の生誕、足跡、作品名、所蔵と評価額?例の「ティルの義賊」やIRA政治犯が起こした事件の顛末などが、びっしり書き込まれている。
細いボールペン字で、所々にある感嘆符や疑問符は絵文字を手書きして。思い切りの良いまっすぐな筆致の流し終わりが右側にはねてしまう、クセはあるが綺麗で読み易いひらがな。
何度もひっくり返してそれを眺めて、最後の余白の9ケタの数字に目が止まる、未完成の通話番号だ。
西野陽子がメモを渡そうとして「私のスマホは……」と書き込んでいた途中で、ケンイチが「いいよ、それは」と取り上げて、そうなって。
ヨーコさんは露骨に面白くない顔をしたなと、思い返してしまうケンイチも、その時面白くない顔でメモをひったくった。もう数え切れないほど何度もメモ紙を眺め、また今、ケンイチは同じ面白くない顔をしていた。
ケンイチのため息は、雨音に溶ける入る。ガラスの壁面に水滴が踊っている、その日は午前からの曇天が、午後遅くに雨に変っていた。
2Fロビーには、先程から来館者が一人いる。
静かで柔和な老紳士、ロマンスグレーの風貌の水晶の街の住人、中村弁護士だ。
以前女主人の食堂で笑顔をくれた人物で、以来、街中で見かけると笑顔を交わす位はする。先程もケンイチはひょっこり現れたその姿に、軽く頭を下げる挨拶を済ませていた。
絵画鑑賞をする中村弁護士、長椅子でぼんやりのケンイチ、階下の管理人はまた得たいの知れない事務仕事をして、しとしとと雨音だけがする、そんな館内だった。
ケンイチはフェルメールの記事を眺め、自分の内にある、過去の出来事を思い出していた…
ケンイチは好きでフェルメールを知った訳ではない。
故郷で高校時代の最後の春休みに、思い出の地方の美術館で、たまたま催されていたのがフェルメールの展示で。また、美術館にフェルメールを観に行った訳ではない、観賞と呼ぶのなら旧友の、コンクールで賞を取ったという絵画を観に行った、その有様を言うのなら、観賞というよりボロボロになって転がり込んで、だ。
ケンイチには、幼馴染の友人、A男とB子がいた。3人は中学までは同窓で、ケンイチとA男はB子にほのかに想いを寄せ、B子はどちらも選べないほど大好きで…という、それはありきたりな甘酸っぱい三角関係だった。
A男とB子は、共に勉強が出来る優等生、ケンイチは子供の頃から勉強が苦手でその分、腕白で。成長期の異差がつきがちな時期に、3人が兄弟のように仲が良かったのは、それぞれが健気だったからだ。
A男は理性的でいつもケンイチを立てようとした、B子はどんな時でも男の子2人を平等に褒めよう、共に行動しようとした。それが判っていたケンイチは、無理やりにでも2人と過ごそうとした。
卒業前には2人は優等生、ケンイチは出来損ないと明確な区分けがなされたが、3人の友情に何一つ変化はなかった。
3人は同じ美術部に所属していた、それが3人が友情を繋ぎ得た要因のひとつだった。ケンイチが冗談で入部した美術部に、A男とB子は1も2もなく入部して。
絵が上手い、下手というのならケンイチよりもB子が、B子よりもA男が上手に絵を描いた(つまり、一番下手くそはケンイチだった)
もちろん中学生の技術やレベルに大差はない。上手い下手より、ともかく絵を描くの好きだった3人にとって、同じ部に所属する事は、大切な時を共に過ごせる陽だまりの場となり得たのだ。
A男は言った、ケンイチ…B子はお前が好きなんだよ?もっと真面目にやれよ?
B子は褒めた、ケンちゃん…A男はデッサンが上手だけど、色使いはケンちゃんの方が綺麗だよ?
ケンイチは笑った、A男とB子はお似合いなんだから、ちゃんと付き合えよナ?
日が暮れるまで部室で語らう3人だった。
高校に進学すると、3人は疎遠となる。
母子家庭だったケンイチは家庭の事情もあり、隣町へ越し実業高校へ。
見知らぬ土地で、ケンカなら誰にも負けないケンイチは、ごく自然に荒れくれていった。程なく、近隣に名が知れる程のケンカの猛者となり…この頃に『赤毛のケンイチ』という素地が出来上がったのだ。
ケンカに明け暮れる日々が続いた。どこかでA男を見かけた事があって、ケンイチは見なかった風にA男を見た。B子から数回連絡があったが、それも届かなかったものと聞き流した。2人を黙殺した。それほどに、ケンイチの生き方も感情も変容していった。
A男とB子から最も離れた頃、彼らを忘れかけていた頃。
高校卒業の春に、A男からの連絡があった。
絵は今も描いているか?僕は続けている、市のコンクールで入賞した、観に来てくれ…
ふん、と鼻を鳴らしたケンイチだったが、電話口の懐かしい声が耳朶に残った。
「B子と僕は進学する。上京したら会えなくなる、美術館で3人、再会しないか?」
その日、ケンイチは約束したの時間に間に合わせるつもりだった。
気の利いたセリフは吐けねーなと、しきりに考えながら道を急いでいたケンイチの前に現れたのは、よりによって、隣町の対立する不良グループの集団だった。
今日は勘弁してやるからあっちにいけ!と言えば、だから当たり前に乱闘になって。
何とかヤツラをやっつけて息も絶え絶え。正午にと約束していた美術館に、泥まみれケンイチがたどり着いたのは、閉館間際の夕刻だった…
当然、A男とB子の姿はなかった。
ケンイチは2人を探す事はせず、その年の市の展覧会の展示ブースを、よろめきながら探し当て、したたかにやられ変形した顔をイテテと押さえながらA男の作品を見つけ、耐えられずにそこに座り込んだのだった。
身体中の痛みに歯を食いしばって、ケンイチは目の前にある作品に目をやると。
そこに在ったのは、丁寧なタッチで描かれた油絵の人物画だった。人物はあの頃の、中学生時代のケンイチの後姿だった。
背後からの視点だ、キャンバスに向かう少年が筆を口にくわえて、右手を上・左手を下に、両方の親指と人差し指で4角を作りトリミングしている…紛れもなくそんな癖を持っていた、ケンイチだ。隣に笑うのは?…B子の姿も描かれていた。
封じ込んでいた感情が一気に溢れ、ケンイチはバカのように泣いた。友情は色褪せないのだと思い知った。ケンイチは涙を止める事が出来なかった。
あの日、他に来館者が一人いた。中年のサラリーマン風の男性で、ボロボロで床に座り込んだケンイチの様を心配して、ハンカチを差し出してくれた。
「キミ、大丈夫か?」
凛とした静けさの中、夕日が差し込む薄暗い美術館の、片隅の光景だった。
その時の美術館のリーフレットを、ケンイチは持ち帰り、しばらく大切に保管していた。
リーフレットは主に、同時に展示されていたフェルメールの作品群を紹介をした物で、【恋文】は画像付きの詳細な解説がなされていた。ケンイチが持ち帰ったのは、その紙面の目立たない隅に、当時のコンクールの入賞者であるA男の氏名が、記録として小さく記載されていたからだ。
眺め読みを繰り返し、結局フェルメールを知り【恋文】という絵画が印象に残る処となったが、そのリーフレットは、今はどこにやったのか。故郷のどこかにしまいこんで、その場所も忘れてしまった。
風の便りで、A男とB子は学生結婚をしたのだと聞いた。
今は幸せに、九州、熊本の大きな川の近くに暮らしているのだと聞いている…