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水晶の街  作者: iuと猫
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後編・4

 物語には、いくつかエピソードがある。


それを描いておこう。


ある日の事。


ケンイチは夕方のシャワーを終わらせて、濡れた髪をタオルでゴシゴシしごきながら、地階から1Fロビーに顔を出した。


「あのさ、(街の食堂の女主人の)今晩の新作メニューの大盛り秋刀魚丼は、見た目ネコまんまで(猫の御飯で)多分味もネコまんまで、でも美味かったから何て言うか。複雑な気分だ、なぁ?管理人」


ガラス壁から伺う外の気配に、夕暮の訪れがある。ロビーに満ちる光は、残る日の色から、間接照明やスポットライトより洩れ出るるり色味のある白色に、移りゆこうとしている。


 管理人は机に座り込んで事務仕事をしており、その姿を卓上のスタンドランプが照らし出している。


いつになく考え込んでいるな?と、管理人に歩み寄るケンイチは、ガラス越しに小路脇に軽トラックが駐車している事に気付いた。食堂の女主人だ、ここに来てるのか?


「食堂のねえさん?何でこんな時間に?」


管理人は表情も神妙に、ええと、とか、うーむとか、答えにくい態度だ。


「先程から、オーディオを使っておられます」と、声を低めに継いで。


「ケンイチさん?あの方のデリケートなプライバシーというものがあります。デリカシーをって…」


「は?」


確かに、2Fフロアから音楽が聴こえていた。


(何を言ってる?デリケートとか、デリカシーのない管理人が言ってんじゃねーゾ)


ブツブツ言いながらケンイチは、とりあえず挨拶でもしておこう、と階段を上がっていった。


 2Fフロアから見える遠景に森林の眺望があり、丁度水平線に夕陽せきようがある。フロアにはまだ残る日の色が差し込み、茜色の霧が満ちる回廊のようだ。


オレンジ色の淡いコントラストの中、静かな気配で音楽に耳を傾けている食堂の女主人が、そこにいた。


「音楽なんて珍しいな?」と、声を掛けるケンイチの足音にも気付かなかったのだろうか。


女主人は驚いた顔をケンイチに向けて(なんだ、ケンイチさんか?)とそのまま何も言わず、オーディオに注意を戻してしまった。


「?」


普段は陽気で、歯切れよい女主人の筈だが、何だか雰囲気が違うゾ?


 ほんの1時間ほど前、ケンイチと管理人は食堂でワイワイやって夕食を終わらせていた。あまりひどくない下ネタありの、下らないバカ話で盛り上がった。それと随分勝手が違う。


彼女は、仕事着の薄汚れたエプロン姿のままで、その手にほうかぶりを握っていて、仕事を仕舞えてそのまま来たのだろうか。もう心地良くなった食堂の料理の匂いを、ケンイチはかすかに感じたような気がした。


「元気がないな、どうしたんだ?」


反応を億劫おっくうがる女主人は、一生懸命に音楽を聴いているのだ。


怪訝になってケンイチは、女主人の前のガラス製の小さなテーブルに目をやった。コツリ、と音楽ディスクのケースを手に取り眺めてみたり。


「…リボルバー、ビートルズか。アビィ・ロードじゃないんだな」


やはり、それはもう熱心に音楽に聴き入っている女主人は、しばらく経ってからようやく口を開いた。


「それでいいんだよ」静かな口調で。


「美術館にあるビートルズは、それ一枚きりだし」目を閉じて。


「これが、死んだ主人が好きだったアルバムなんだ」


ケンイチが「えっ?」と、声を漏らす。


口ごもるケンイチに、それを見透かした女主人は軽く微笑した。


「安心しなよ、もうずっと前だ。病気で死んだ、苦しんでもいないし寿命だったのさ」


彼女は語る風でもなく、独り言をポツリ、ポツリと言った。


「私の中にはね?特別な日付がある、それが23日、23のエニグマだ…」


「ある月の23日が主人の誕生日だった。そしてある月の23日に、あの人は死んだ、だから23日―今日は特別な日なんだよ」


「病室から眺めた夕日が綺麗な時に、あの人は逝ったんだ。だから夕日が綺麗なうちに、ここでビートルズを聴きたいんだ。こんないいかげんな私だけど、主人は私を宝物のように大事にしてくれていたんだ」


「…」


 ケンイチが悪い質問をしたなという風になる。頭を掻きいたわるように。


「別にいいじゃねーか?毎日来ればいい。ヨーコさんが言っていたゾ、ここのオーディオはなんだかスゴイらしい」


女主人は頷いて、寂しげに「見えるんだよ」と、ポツリ。


ケンイチは空中に人の姿を描く仕草で「ビートルズが浮かびあがる、だろう?」と相槌。


「そして、主人が笑っている」


「?」


相槌を封じられるケンイチだ。


「…なぜだろうね」


女主人は分からなくてもいいんだよという風に「ビートルズの4人の横に、時々主人が現れるんだ。そして笑ってる、がんばれって言ってる」と言って、ただ誰もいない筈の空間を見つめるばかりだった。


 おとなしくなるケンイチ。当惑もあり黙り込むしかなかった。


亡くなった自分の夫が見える?…心霊現象なのか?不思議なオーディオ・システムだが、そこまで不思議な装置なのか?


一瞬背筋に寒気も走るが、このシステムなら何度も聴いている。映像が浮かぶのは確かだが、それでも幽霊までは見なかったゾ。


 思い過ごしだろうと、そうを口にしようとしたケンイチは、その時に見てしまった。


目前の空間にビートルズのメンバーらしき姿と、もう一人。そこに、彼女の亡き夫らしき男の姿が現れたではないか!


更にその人物はケンイチに気付き、はにかんで笑いペコリと頭を下げる!


「!ゆ、幽霊!」(幽霊の感嘆符の絶対値)


ケンイチが凄いものを見たと慌てて女主人に目をやると、女主人は…


ソファーに座る彼女は、なんと若返っていた、清純な乙女姿の女主人がそこに座っている!


ケンイチは目をパチクリさせるが、映像は変わらない。じたばたと焦るケンイチだったが…


なぜだかふいに、ケンイチの心が沈静した。とても静かなのだ。若き女主人は、ご主人と静かにやりとりをしていて、会話をしていて…


ご主人が、何か説明をしている、忠告している、さとしている。乙女の女主人は反省したり、首を傾げたり、その度にご主人が笑う、彼女も笑う。


 光彩がひらめくような感覚があった、そして我に返るケンイチ。


今彼に見えていたものは、次には忽然と消え失せていた。旋律は静かに流れている。


(オレは、何を見たんだろう)


ケンイチは慄然として、考え込んでいた。


分析をすれば、この不思議なオーディオ・システムだ、秘密はまだまだありそうだ。リアルを越えて、ついに聴く者のイメージまで他者に影響するのか?例えば西野陽子ならそう分析するかもしれない。


願うものが見える、例えば魔法の鏡だとかどこかで聞いた話だ。では、女主人が願うものが見えたのか?


 違うような気がする、とケンイチは思う。


女主人はさておき、ケンイチは願ってなどいない。事実、会話があるからこそ他者にも見えた、とそんな思いが強い。


ケンイチの脳裏を「このシステムは、陽の光のように暖かい」と、評した西野陽子の言葉がかすめていた。そのほうが近い、理由があるのなら暖かいから、だからそこまで描いてしまう。


西野陽子は言い得ていたのかもしれない。


システムの真意の前に、仕組みや理屈にどんな意味がある?夢のような人に遭えて、自分は若返って。


それがこのシステムがここにある真意だとすれば、驚きよりも何よりも断然、素敵ではないか。


 目をやると、女主人は、デフォルトの姿に戻って背筋を伸ばしてソファーに座り、いつの間にか泣いていて「あの人はずっと励ましてくれているのかね?」


いつしか微笑んでしまうケンイチだった。


何か声を掛けようとすると、あっちに行けシッシッ、と煙たがる女主人(オレはネコか?)


ケンイチが首に下げていたタオル差し出すと、チーンと鼻をかむ女主人は、やはり普段着の彼女なのだ。


苦笑になりケンイチ。


「分かったよ、もう邪魔しない。だからオレにも聴かせてくれないか?」


 背後でカチャリ、と音がする。食器が鳴る音だ。


振り返ると管理人だった。彼は3人分のコーヒーを準備して(デリカシーをって?)足を忍ばせて背後にやってきており。


彼は女主人に「23日のエニグマ、初めて伺いました。貴方はお幸せでは?」と声を掛けて励まし、ケンイチには「ところで、なぜですかケンイチさん?」と、質問をした。


「貴方まで、なぜ泣くのですか?」


えっ?と、ケンイチ。


不用意な大粒の涙が、彼の頬を伝ってしまっていたので。

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