前編・2
クリーム色の天井が見えていた。クリーム色の天井?と、ハッとする。
はっきりと目が覚めた。
ケンイチは体を起こして、辺りに目をやってみる。見覚えのある戸棚に調度品、テーブル。そうか、此処は。
ケンイチが目を覚ましたのは、ゲストの部屋だと聞かされた、あの美術館地階の部屋だった。
彼がまず激しい空腹を感じたのは、テーブルの上に準備された山盛りのクロワッサンと、まだ暖かいコーン・スープが目に入ったからだ。ベットを離れ、がっつくようにそれを食べる。オレはどれ位寝ていたのだろう、何がどうなっただろうと、食事と同じ勢いで考えながら。
部屋には誰もいなかった。では、あの大男。管理人はどこにいるのだろう。
ケンイチは食事を終わらせると、軽く部屋を検分した。
部屋には更に、クローゼットや扉が在った。扉の奥は、洗面台とそこそこに広いバスルーム。
ケンイチの衣類が、ベット足元の籠の上にたたまれていた。綺麗に洗濯され、荒い麻生地の青いカッターシャツに有った筈の血糊は、痕も残っていない。彼はそれを羽織る。その時に左腕の傷に、気が行く。
左腕の怪我は上手く治療されていた。疼く違和感があったが、ほとんど痛みはない。勿論、力を入れるとズキりとしたが、普段使いには大丈夫そうだ。
「よし」
ケンイチは部屋を出て行こうとして、気付く。頭にブルーのパステルカラーの三角帽。彼はナイト・キャップを被っていた。何だこりゃ、と舌打ちになる。
ベットにナイト・キャップを放り投げた、そして部屋を離れる。
階段を上がり、控え室からロビーへ。
早朝らしかった。
柔らかな朝日が差し込むロビーは凛とした空気に満ちていた。空間の底に冷たい塊の滞留があり、まといつくそれはサラりとしている。
ケンイチはガラスの壁の向こうに、管理人の姿を見つけた。屋外の少し先の広い芝の中に、大柄な体躯の男が立っている。
ロビーを横切り、ガラス扉を押し屋外に出ると、外の空気は冷たく、密度濃く澄み切っていた。其処は芝生の緑と朝露の水煙が溶け合って、どこか別世界のようだ。
管理人は、そんな中にいた。
彼は、ワイシャツを脱いだ上半身肌着姿だった。筋肉隆々というか、いかめしいロボットのような骨格をしている。その体が、ゆらゆらと揺れている。空手ををやると言っていたナ。太極拳や何かのように、緩慢に四肢が動いている。
ケンイチは「よお」と、挨拶を口にして、彼に歩み寄って行った。
管理人は、動きひとつ止めず、眉一つ動かさずに「おはようございます」
彼は視線を真っ直ぐ正面に向けたままだが、ケンイチが現れた事に、すぐに気付いた風だった。
「3日間、昏睡状態でした。怪我の具合はいかがですか?」
ケンイチはその言葉に、腕を撫でる仕草だけで答えた。無言で、管理人の姿を眺めるばかりだ。
「良いお医者様です。15針縫われていますが、あの先生にかかればすぐによくなります」と、独り口にする大男だった。
キュン、と音がした。鋭い管理人の正拳突きだ。ケンイチには、捉えられないスピードだった。
「お医者様ですが、水晶の街で開業医をされています、此処まで来ていただきました。暫くは安静にしているように、との事です。傷は残りますが心配しなくて良いそうです」
ケンイチは尚も忍黙っていた。それで気が行ったか、管理人がちらりとケンイチを見る。
ケンイチは、やっとコッチを見たなという顔をした。
「水晶の街の、お医者様だって?」
「水晶の街は」
管理人は尚も動作をした。柔らかい動きから一転して速い動きで、全身が使われたが今度は音さえせず、ケンイチには何をしたのかも分らなかった。
「この丘の下にある街です。美術館を挟んで。つまり山を挟んで、市外と反対側の地区になります。静かな処です」
ケンイチは話を聞いていた。だが、不満げに何か言おうとする。
「お待ち下さい」
管理人は一度大きく息を吸って、ゆっくりと吐息した。目を閉じ、開く。そしてケンイチに、にっこりと笑顔を向ける。
それがケンイチにとって初めての、いわゆる管理人スマイルだった。糸目になり目尻を垂らし、無防備でお人好しな、彼の屈託のない笑顔である。
「終わりです、お話を伺いましょう。けれどもその前に」
彼は、汗をタオルで拭いながら「お名前を聞いていませんでした、貴方は?」
ひと呼吸あった。
「オレはケンイチ、赤毛のケンイチだ。そう呼ばれてる」
いつしか、不敵な笑みを浮かべるケンイチだった。
「オレは、あんたが言う、その反対側の市街から来たヤクザだ。チンピラです」と、早くも挑みかかる気配を醸す。
管理人は笑顔のまま、嘆息した。状況を思案し始めたようだ。
ここは一気にたたみかけよう、とケンイチは思っていた。内心悪いと感じながら、しかしこれが自分のスタイルだと言い訳をして。
「チンピラだが、空手なんぞ屁とも思わねータイプのチンピラだよ。体格の差も関係ねえ」
ずいと、一歩を踏み出し。
「色々有り難いんだが、此処は美術館だろう、ちょっと変じゃねえのか?ケガの手当てとか、あのホテルみたいな部屋」で、にやりと笑って。
「それに、あんたは妙に親切だし」
次のタイミングで「気にいらねえ」というセリフと共に、ケンイチの自称アナコンダ・パンチが。不意の呼吸から放たれ、予測のつき難い変則軌道で相手の横顔を襲う奇襲攻撃が、管理人に炸裂する筈だった。
だが、ケンイチが振るおうとした拳の起点の位置に、既に管理人の制止の手の平があった。その奇妙なバランスの為に、ケンイチは何か動けなくなる。
「貴方。怪我をしていますよ?」
管理人は顔色ひとつ変えていない。むしろ更に笑顔が優しくなっている。
目をむくケンイチだった。利き腕は元気一杯だ、ハンデになるものか、と尚も動こうとして、管理人の手の平が少し位置を変えただけで、動けなくなる。くっとか、あっとか、ケンイチは洩らす。
管理人はいたわる様な笑い方をした。
「ケンカがお強いようですね。けれども、鍛錬を怠らない武道家には通用しないものです。お名前はケンイチさんですね?私は管理人・矢野龍介と云います。親しく管理人で結構です、ケンイチさん」
ちくしょう、ベラベラ喋りやがって、とやけくそになるケンイチは。これでどうだと力まかせに動こうとしたのに、フイッと歩み始める管理人ではないか。何もしていないし、されてもいないままひっくり返る。わぁ、とか言って。
どこ吹く風で、挨拶まで終わらせた大男だった。彼は、美術館に戻ろうと歩んで行く。
管理人との距離が拡がった。大きく安堵の息をついたのはケンイチの方だった。
彼は今まで、一度もケンカに負けた事がない(だからヤクザになった。ただしチンピラだが)武術、武道などやった事もないが、その手の連中とやりあっても負けたためしがない。
玄人から言わせると(どんな玄人だ)、天性のセンスと反射神経はプロを超えるとまで称された程で、天狗になっていた。その鼻が、今ポキリと折られたのだ。
行動に関していえば(今の態度を含め)ケンイチに悪気はない。実は今も勝てそうにないと判っていた。本当は左腕だってまだまだ痛いのなんの、だ。怪我がなかったとしても、体格差はありすぎた。負けた事はなかったが、2メートルの巨人とやりあった事もないのだ。
ただいつもこうだった。強い人間には理由なく挑んでいきたい性分で、他人には随分迷惑な、それが彼の行動原理だった。
ケンイチはまず、敗戦にガックリ肩を落とした。次いで慌てて管理人を追いかける。なんでかなオレは、と自分に悪態をつきながら。だから案外、人物の素性は真面目なのである。
「待て。待ってくれ、管理人。悪かった、謝るよ。冗談でした、ゴメンなさい」
管理人の横顔に追いついてみると、大男はケンイチに見向きもせず歩んでいるのだが、面白そうに笑ってもいる。
ホッとするケンイチだった。
「実は、ちょっと訳ありなんだ。だからさ。ちょっとでいい。その。かくまってもらえねーか?」
自分のセリフが子供のお願いみたいだな、なんだか照れるぜ、と変に気が散ってしまって、管理人がピタと立ち止まる拍子に、またコケそうになったのもケンイチだ。
「かくまうも何も」と、思案深げの管理人だった。
「貴方は大怪我をしていた。ですから私は貴方の治療をする為に、此処に滞在していただきました」
うん、そうだよと、ケンイチは瞳だけで頷く。
「私は、ずっとお世話をしました。3日3晩、貴方は寝ていたのに」
うん、そうなんだろうね。
「と、いうことは」と言って管理人は少し考える風だ。ケンイチが、パチパチと目を瞬かせるので、大男は仕方ない風に笑った。
「もう、ゲストですね。それでいいですか、ケンイチさん」
ケンイチは何も考えずにうんうん、と頷く、それが又管理人の笑みを誘うのだった。
「ゲストならば」
管理人が、コホンと咳払いした。
「まず、かくまいましょう。事情はどうあれ、その義務が私、管理人にはあるのです」
いいぞ、とガッツポーズになるケンイチに構わず、彼は続けた。
「ゲスト特典は素晴らしいですよ。お好きなようにして下さい。かくれんぼもいいでしょう、遊んでいかれても結構です。どうぞご自由に滞在下さい、となります」
「は?」と、ケンイチ、ここで少し目が点になった。管理人はコロコロと笑って。
「滞在の期間は問いません。行動も制限などありません。どのように此処で過ごすかは、ゲストが決めて下さい。浴室、シャワー、ゲストの部屋の設備は自由にお使い下さい。簡単な着替えは用意できますが、身の周りの物はまた後程、街で買物をして準備して下さい。その費用は全額此方が負担しますので、都度申し出て下さい。ただし食事の用意は出来ませんので、食事は3度々水晶の街で外食となります。食事のお付き合いは出来ますし、初めはそれがいいでしょう」
それは、管理人のゲストの待遇に関する説明だったが(ケンイチは話の途中からキョトンとし始め、聞き終えてもキョトン、としていた。滞在の期間が自由?申し出れば全額負担しますって?あれ?オレは何かが解らなくなってきたゾ)その口調は、半ばからどこか畏まった調子に変わっていた。最後は、同じように形式的な咳払い付きで結ばれる。
「コホン、それでは改めまして。ようこそ水晶の塔・美術館へ。ケンイチさん、歓迎いたします」と。
そして管理人は、芝の手入れの準備をしますと言って、美術館の中に消えていったのである。
とぼけた表情で突っ立つケンイチだった。
丘に繰り出したのは、管理人をやっつけて自由になる為だった。ところが、何かやっつけられた。挙句自由になった、それも大幅にだ。その大幅にという理解のせいで、途方に暮れて「えーと。で結局、どうなってるんだ?オレ」
彼は暫く身じろぎもせず其処にいたので、芝生の中に電柱が立っているようだった。見ている者がいたなら、笑える光景だった。
2011年11月、加筆、改行スペース削除しました。