後編・3
「ハイ、ケンイチさんの焼きそば」
わーい、焼きそばだ!と嬉しくもあり、通常の3倍の量に途端に悲しくもなり、ケンイチは西野陽子から大皿を受け取る。
ケンイチが丘に出てみると、美術館のすぐ横には天幕型のテントが2張り立てられ、食堂の女主人と女性達が屋台風の急ごしらえのセットで、バカバカしいまでの、大量の焼きそばを調理していた。
軽トラックに野菜の山、調味料に、うず高く積まれたそば玉は500人越え分か?
「お祭りか?」
賑やかなテントの周辺だ、もちろんケンイチもその中にいる一人だった。
管理人は?おお、テントの横で食ってる喰ってる、いや、喰わされてる?珍しく泣かされてるゾ。
パイプ椅子に座る管理人の周りには、普段は会社のOLさんだろう風のの若い女性が集まり、モテモテ中かと思いきや、女性達はいたずらっぽい笑みを浮かべ、ワクワクドキドキの瞳で彼を見守っている。
管理人は、大皿の焼きそばをペロリと平らげる、すると女性達が矢継ぎ早に次の焼きそばを継ぎ足すという、いわばワンコ焼きそば状態に拘束され、食べ強いられている?
さしもの管理人もあがいていた。どんなバカならそんな目に遭う、恐ろしい。
「いっそ、出店でも出すといいんだけどね!?」とは、食堂の女主人だ。
派手に油を焼く音をさせて、周りにそう告げる女主人の料理の手際は、見事というより曲芸士のようだ。こん棒を自在に両手の宙に舞わせる巧みさで、畳半畳ほどもある鉄板の上のどっさりと量のある焼きそばが、ザックリ軽快に炒め揚げられている。
丘の向こうから、笑顔でこちらに帰ってくるグループがいる。さて、と中座した作業にまた戻る者達もいる。
騒々しい中、ケンイチの横にはいつの間にか西野陽子がいた。
先程までは、人込みの中で忙しく給仕していた陽子だったが、自分のポジションは此処だといわんばかりに、極当たり前にケンイチの横で、小皿に中盛の焼きそばをつついて「おいしいネ♪」
ケンイチと陽子は、人が集まるテントに背を向けなるべく目立たないようにして、焼きそばにありついていた。立食だった。
お喋りはもごもごと、焼きそばをほおばりながらだ。
「もぐもぐ、ヨーコさん、似合ってるな?ジャージ姿も」
「もぐ、借りたんです」
照れて、服装を眺め見せて「あ、ジャージ姿も?それってどういう意味ですか!」
「だから、ソレワ」
お互いに、赤いドレスについて言っているのだ。西野陽子は恥ずかしかったと、ケンイチはなかなか良かったと。
「意外に似合ってた、つーか孫にも衣装というか」
「あ、それってどういう意味ですか!」
と、このように口論でない照れ隠しのつつき合い。
「もご、だから、ドレスも良かったゾって言ってんだよ」
「よく見てないくせに」
(にゃあー)
「見るも何も。見たかったが、さっさと着替えたのは、ヨーコさんじゃねーか」
「そういう状況じゃないでしょう、え?…見たかった?」
(にゃおー)
何だか会話にネコの声の合の手が入ってくる?気付くと、2人の周りをチビッコ達の集団が取り巻いていた。
今やケンイチは街の人気者だが、特に子供達には絶大な人気がある。チビッコのリーダーらしい―確か風太といって、ケンイチがいつだったか、道すがらにキャッチボールに付き合ってやった小6の男の子が「ケンイチ、みんなを紹介するよ?コッチから、ケンちゃん、雄二、ヒロシ、よっちゃん…」と、勝手に友達紹介を始め、その中にのんちゃんという小さな女の子がいて、彼女が子猫を抱えていた。
「ネコ?」
「アメ吉だよ?アメリカン・ショートヘアーみたいな、三毛ネコだよ、男のコです」
のんちゃんはたどたどしく、台本のセリフの棒読みのようにネコの名を紹介をした、とそこでハッと驚き、子供のクセに大人っぽく後ずさる。
ケンイチさん、ヨーコネエさん。魂を抜かれた中毒患者みたいにアメ吉を見つめているよ?
子供達は更にみんなでギョッとする。こちらを伺い、人ごみの隙間から鋭い眼光を放つ管理人に(口いっぱいから焼きそばを垂らしたままで、幸せそうな恋する瞳で、アメ吉に熱い視線を送る怪人に)気付いたのだ…この物語の主人公3人、ネコ派だ!
アメ吉を中心に、ワイワイガヤガヤとケンイチの周辺が沸いた。何事かと周りが見受けるその光景の印象は、丘の中に咲いた花のような風だった。
焼きそばの振る舞いが終わるとそろそろ、丘の清掃作業も片付き始めていた。
刈り取られた芝は、広大な敷地だけに半端な量ではない。丘のあちこちに刈り草の山が出来て、それを一輪車で運んだり、軽トラックで運んだり。作業の向きが一様にその流れになる。
ケンイチもしたたかに汗をかき、付近に集められた芝草をスコップで軽トラックの荷台に移していると丘の向こう側が騒がしくなる。視界の先の空に突然、泥の噴水…何だ、何だ?
すぐ先で、一輪車をヘロヘロと押していた西野陽子と子供達も何事かと、動きを止める。
丘の端の方で、泥にまみれた男達が慌てふためいていた。管理人はスプリンクラーの修理が残っていると言っていたが、それが壊れたのか?その辺りで、空に向かって泥水が噴き出している…
距離は遠く、また丘から吹き降ろす風向きは逆でこちらに流れていくる気配はない。作業をしていた男達は全身泥を浴びて真っ黒になり、3号爺、管理人、その中に以前食堂で紹介された中村という弁護士もいた。
見ていると彼らはヤケクソになって、子供のように水の掛け合いを始めて。だから初め心配気に見ていたギャラリーからすぐに安堵の声が漏れて。大事ではない様子だ。
吹き上がる泥水は徐々に水しぶきに、完全な透明になる。水は破片となり小さな粒子となって大気に溶けて、彼方の景色を覆うスクリーンとなる。光彩の絨毯が辺り一面で波のように流れ、空のあちこちが七色に輝き始める。
「嘘みたい、綺麗だわ」
西野陽子の言葉を耳にして、ケンイチもそれを見ていた、ただ、正確には。
視界の隅にケンイチが見ていたのは、軽い歓声で手の平を宙にかざし景色を仰ぎ、少し踊るような仕草をする陽子の姿だった。無垢な少女のようで、ふいに美しさを感じて、ケンイチは目を奪われてしまっていたのだ。
遂に管理人と3号爺が、水しぶきの中で体を洗い始めてしまう。すると、ソコでウケた陽子が「可笑しいね!」とケンイチにも煽るので、慌てて笑顔を作り、状況を上手く誤魔化すケンイチだったが。
ケンイチは見とれた事に、気付かれはしないかとヒヤヒヤしたが、彼は女性をよく分かっていない。陽子は背中に拡がる感覚で、既に一切に気付いていた。
(今、ケンイチさんは私に見とれてくれた)
ただ、陽子は嬉しさばかりを感じた訳ではなく、他にも感じるものがあった。
(でも、なぜ、彼は寂しそうなんだろう?)
ケンイチは迂闊だったのだ。彼は何時も西野陽子に笑って見せるが、時折ふと寂しげに笑っていたのである。
ちょっとした騒ぎ、小さな事件を描こう。
「美術館・大清掃の日」が終わりを告げ、住民達が散会を始めた頃だ。
1Fロビーではなかなか帰らない常連達と、管理人、ケンイチ、西野陽子が歓談をしていた。
泥だらけになった男達はシャワーを浴び、すっかり身づまいを整えてから「えらい目にあった」と笑い合っている。
陽子は、女主人の取り巻きの婦人達に、何だかからかわれていた、もう赤いドレス姿に戻ったからか?
食堂の女主人の軽トラックは、丘の中をあわただしくで行き来していて彼女の姿はそこになく、既に引き上げた様子だ。
やれやれといったケンイチは、入口付近のガラスの壁に体をもたれさせていていた。
そこで鉢合わせになったのは、風太率いるチビッコ達だ。コイツらまだいたのか?子供達、とりわけのんちゃんは、不安そうにキョロキョロとして落ち着かない様子である。
「ケンイチ?アメ吉が…居無いの。ここにいないかなぁ」
「?」
ケンイチが膝を折り、のんちゃんを覗き込み、何だって?ロビーを見回し伺う仕草になり、その空気が伝わると、皆が一様にお喋りを止めて「どうしたんだ?」となった。
「アメ吉が、子猫がいなくなったらしいゾ…」
ロビーが軽いざわめきに包まれる。
婦人の一人が館内で見かけたと呟いたので、探してみようとケンイチが立ち上がると…その耳にかすかに届くネコの鳴き声だ。いっせいに耳を澄ますその場の人間だ、その鳴き声を追うと。
程なくアメ吉は発見された、子猫は2Fロビーで佇む(たたず)んでいた。
アメ吉は、脚立のてっぺんに座り(ケンイチが最後に使っていた脚立だ)【恋文】を眺めており。
ぱっと喜色を浮かべる子供達だが、年長の風太がしっと人差し指を口に当てて、仲間の動きを制する…
アメ吉は、随分静かだった。穏やかな感じで、時々頭を痒そうにムシャムシャやって、またひとしきりと【恋文】を眺めている、小さく子猫らしく唸っている。
子供達は顔を見合わせて、変な事を言った。
「ネコが、絵を観ているよ?」
ネコが、絵を鑑賞するだって?ケンイチはいぶかしく思い、よくよく眺めてみる。すると、まんざらそう見えなくもない、神妙な空気を感じる。
名画を観る子猫かい?とニヤリとするケンイチのタイミングで、のんちゃんが我慢出来ず「おーい、アメ吉♪」
アメ吉は階下の飼い主に気が付いた様子だ、少しうずうずして、一同がまずいと思った瞬間。アメ吉は、ぱっと跳ねて【恋文】にしがみつき、立てパネルを蹴り3角跳びで跳躍した。アメ吉の手摺を越えて跳ぶ試みは、ついでにパネルボードから【恋文】を引っぺがし一緒になって、だ。一同が色を失った.
ネコが落ちてくる!【恋文】も(時価数百億円も)落ちてくる!
変な声をあげるケンイチ。反応出来たのは、ケンイチ、管理人、西野陽子だった。
3人が慌てふためき、落下点に走るが、床はワックスがよく効いて思うようにいかない。
(くそ!タイミングが…)
飛び込み走りこみ、衝突する3人はなぜかぐちゃぐちゃに絡み合った、果たして。
子猫を胸にキャッチしたのは、西野陽子だ。【恋文】はケンイチが何とか片手一本、アクロバットでキャッチしていた、無事だ。
ギャラリーから歓声が上がると同時に、ケンイチが寝転んだまま安堵の調子で苦言を吐いた。
「…なんでオマエ達、アメ吉なんだよ?」
ペタリと床に座り込んだ西野陽子は、ネコまっしぐらだった。アメ吉を抱きしめて呆然と答える。
「だって、咄嗟に…ネコに走っちゃった」
陽子の下敷きになったまま、管理人は冷や汗でぐっしょりになり、いまさら【恋文】の無事を喜んでいる。
だが、この大男も走り込んだのも絵画でなくネコの落下点だった。彼も思わず(絵画を守る管理側のクセに)ネコを助けようとしたのだ。
ケンイチの、大きなため息になる。
同じだったからだ。ケンイチも、最期の空中で陽子が無事にアメ吉を救出したと見てから、慌てて死に物狂いで手を伸ばしたに過ぎない、【恋文】が無傷なのは、たまたま運が良かっただけだった。
結局。
「バカバカしいゾみんな、そして、オレ」
人が思わず取る行動に、説明の必要はない。そこから伺い知れるものは、例えば価値や価格という虚飾の向こうにある筈の、物事を包む幾重もの錯覚の中にある、無垢の透明な芯なのだ。
アメ吉はにゃあと鳴く。何かを笑っていたのかい、キミは?