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水晶の街  作者: iuと猫
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後編・2

さてどうしたもんだかなと、ケンイチが行動を考えている間も無く、1Fロビーのモップ掛けが始まった。バケツに掃除モップのご婦人数人が「はい、ケンイチさん邪魔です」


白い床面が、ピカピカに磨き上げられていく。ワックス掛けの準備もされて、水拭きの終った端から始めるらしい。


 管理人が、ケンイチを手招きする「ケンイチさんは、絵画の清掃を手伝って下さい」


管理人の求めに階段を上ろうとしたケンイチは、水バケツと掃除道具を抱えた西野陽子が、管理人室の廊下から現れた事に気が付いた。


彼女は賑やかな婦人達に囲まれ、ちやほやされていた。


 管理人室は、洗面台からいくつか水ホースが取られ、畳場は参加している住人達の手荷物で一杯で(そこに管理人のプライバシーなど無い)そこで清掃用の軽装にすっかり着替え(婦人達が用意してくれた、パステルブルーのスクール・ジャージのズボンに、白いジョギングシューズ、ドラえもんパーカーをまとって)フロアに現れたヨーコさんは、カラカラ笑っていた。


ケンイチが肩をすくめてみせると、彼女もケンイチに気付いて、赤面で嬉しそうに笑みを返す。


横で「よ!」と手を上げるのは、食堂の女主人だ。彼女は早速、ヨーコさんを手なずけたらしい。


 ワイワイガヤガヤのそんな婦人のグループが、玄関から外回りの壁面の雑巾掛けを開始する様子を見て、2Fフロアから首を覗かせて管理人も笑っている。


ケンイチと管理人は上と下でうなずき合い、良かったナと同時に呟いていた。


(ヨーコさんは、キャリアの役人なのに、いいのだろうか?)


 住人に違和感なく溶け込み、女子中学生のシルエットで雑巾掛けをしている西野陽子は、出世を約束されて地方に出向した国税局キャリアの端くれの、今日はドレスでやって来た、受難の婦女子だ。




 絵画の劣化を防止するために、この額縁は色々と工夫されています、と管理人が言ったセリフを思い出しながら、ケンイチは軽くひと息入れた。慎重に絵画ー額縁をパネルに戻す。


始め、額縁を無造作に雑巾掛けする管理人に「オイオイ、そんな乱暴な」


とがめだてするケンイチに「大丈夫です、絵画保管という点で、この美術館は世界最高レベルです」と、管理人。


 額縁の工夫には、主に2つある。


表面ガラスと呼吸をする額縁だ。表面ガラスは、極めて細いガラス繊維で織り込まれた薄い膜を何層か重ねたガラス板で、反射が低く押さえられ、透明度が高く、軽量かつ頑丈、空気分子だけ透過するという…ともかくハイテクガラスらしい。


「ちょっとした防弾ガラスと同じ性能らしいですが、主な目的は光学的な劣化の防止です」


「光学的な劣化の防止ねぇ、ほほぅ?素晴らしい」


ケンイチは解らないのに感心。


額縁は、木目が塗装されたチタン製で、湿度や、額縁内部の雰囲気成分を調整する装置を内蔵し、なんと勝手に呼吸するのだそうだ。


「少々の火災なら、1000℃の雰囲気下でも、内部は25℃の快適空間…だとか」


自慢をする管理人の語調が弱まるのは、説明書にそう書いてありまして、なので詳しい事は解らない。考え込む2人…ともかく2Fフロアの絵画の清掃作業を始めよう。


と、作業はてきぱき進んだ。


額縁は確かに軽量で、さすがに大型の絵画は、全体がそこそこに重く、そこは数人がかりだったが―パネルから取り外し、取り付ける作業は簡単だ。


ガラス面ををごしごしと磨き、全体を軽く雑巾で拭き上げる。2人コンビだったり、手分けになったり。


 小1時間もすると、2Fに展示される絵画の清掃はあらかた片付いていた。


管理人は先刻、フロア作業のめどがついたと見てとり「私は屋外へ」と、姿を消している。


ケンイチは中くらいの脚立の天板に座り、コイツは俺が最後に、と残していた【恋文】を膝に抱え、ハアーッと息をあてて雑巾掛けをしながら、ガラスの壁越しに拡がる屋外の様子に目をやった。


 秋の青空の午後であった。広い芝生の丘中に散る、水晶の街の住人達の姿が見下ろせる…


芝刈りをしている男達、芝の根がらみを手入れする婦人、刈られた芝を集める者。子供達は手伝ったりそこら中を走り回ったり、交歓の声が聞こえてきそうだ。


 美術館を中心にして、作業をこなしていく人々の輪、それは徐々に確実に広がる。賑やかな中にも粛々(しゅくしゅく)と手を休めない、厳粛な空気感がある。


勝手に始められた行事だと、管理人が言ったが。


ケンイチは、ただのボランティアとくくれない住人達のひたむきな姿に、根底に連帯と共通した真面目さを感じ、何となく無私な巡礼者達が聖地に集うというイメージを、光景に重ねていた。


―メッカやエルサレム、ベナレス。聖地と呼ばれる彼の場所では。


彼の地に集まる巡礼の人々がモスクや城壁、その聖域に額を着け五体を投げ伏して、悲哀を嘆きその心を洗い祈る。


もちろん、ケンイチが見渡すこの丘に嘆きなどはない。未明のあお白い空の下で、祈りの声が空気を震わせる事もないし、迫る夕闇にかき消えていく悲嘆の姿など、ありはしない。


ケンイチが感じるのは、重々しいおもむきと同じように在る筈の、聖地の牧歌的な雰囲気だろうか。ようやくめぐり着いた約束の地には、一方で同時に、巡礼者達が彼の地で彼岸に立ち見つけた希望と、その足元の泥水にさえ美しさを見いだす喜びが在り、満ちるのだ。それは賑やかでおごそかで、清々としながら時には喧騒けんそうであろう。


ケンイチはつかの間の時、異世界めいた丘の風情ふぜいに心を奪われていたのである。


「おーい、ケンイチさん」


 ふいに階下からの呼び声に我に帰る。気が付くと、西野陽子が玄関口で飛び跳ね、おいでおいでとやっていて。


ケンイチは【恋文】手早くを拭き上げて、額縁をパネルに固定し脚立から降り去ったのだが、この時彼は、固定金具の一部を掛けそこねていた。


これが後々、ちょっとした騒ぎのたねとなる…

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