中編・8
季節の変わり目を迎える杉の並木は、新緑の勢いが退き褪せた緑の回廊として丘の輪郭を沿う。此処から伺うのなら水晶町は、垣間見えるヒノキの色の裾野にある。山脈という遠くの黒い濃緑は、紅葉を予感させるそれぞれに違いやがて群青となって迫り、背後の林を成し丘の一面にも変わり、三方に流れていくのである。
陽子が美しく背筋を伸ばし、いっとき眺めていたそれは、芝の高さから始まる競り上がり拡がり至ろうとするつかのまの空だった、視線は遥かに投げられている…
「美術館の調査打ち切りは、上からの圧力でした」
静かな調子は流れる。察して、ケンイチと管理人は耳を傾けている。
「まだ、経過報告も正式なものじゃなかったのに、突然、中央官僚局長クラス、雲の上から中止命令が発せられ、調査が差し止められました、訓戒付き。それでもキャリアの雛だから、それなりの救済で早めの尊重?だったのかもしれないです」
「この美術館に対する追及は、中央各省庁にとってタブーだったようです。だって洩れ聞いた話では、今回敏感に反応したのは、外務省、経済産業省、なぜか公安エトセトラ」
「外務省については分かる気がします。父のか細い外交ルートに絡め、知り合いがマスコミにいるので直接オランダ側に当たってみる模索もしたから」
「オランダ側の見解は、メールながら責任ある立場の方からいただきました。公式には有り得ない話だ。但し非公式には、事実を隠し通し充分な対価、経済支援が約束されるのなら…魅力的な話ではある」
「古い絵画は保管・修復という部分で手がかかり、相当の経費が必要でそれが常に頭痛の種だ。だから見返りが期待できる資本家・経済団体が長期間レンタルしてくれれば(いっそ極秘裏に売り払えれば)どんなに助かるか。(どう転んでも我々には本所蔵という錦の旗がある。偽りの贋作であっても一般の観光観料を得ることが出来るであろうから問題はない…)回答の内容は非公式を連発しつつ、そんな本音を明かすものでした。興冷める話だけど、現場は名画のロマンなどなく実務的ね。そしてそんなメールのタイトルは『真実を知らんとする者は、智者が愚者の一方である』という諺でした。何かを匂わせているのかしら?」
「要約すると。通産、公安まで動く理由はわからないけれど、ともかく中央の高級官僚の一握りは、この美術館の取り扱いに随分慎重になっている。そしてオランダの本所蔵側もお茶を濁すのなら。超貴重なフェルメールの【恋文】でさえニセモノと言い切れない、と私は思います」
語り始め役人の講釈を思わせたが、後半は思いの暖かい、ここにいるゲストの陽子だった。
ここまでをどう思う?と、思慮に光る瞳がケンイチと管理人に向けられる。
肩をすくめ、考えあぐねている左右の男達だった。
ケンイチはおぼろなイメージで、色々な連中が何か隠してる状況を描いてみる。暗躍する役人とは、と見当もつかないが隠すという事は、只事でない秘密があるのだ、だとすると?
「【恋文】は本物か?」
陽子はコクリと頷き受け取って、さらに洞察の光を瞳に浮かべてみせた。
「それ位なら、それでも推定を助ける状況証拠に過ぎません。私が強く本物だと確信するのは、オーディオと絵画の不思議な共通点です」
ケンイチも管理人も、えっ?と意外な顔をする。共通点?比べられないと言っていなかったか。
「簡単には比べられません。共通点というのは、重ねますが体験した筈です、五感の連動です」
解らないでしょう、だから説明する、身振り手振りを沿えて「耳で聴いて、目に映る、目の前には何も無い、という情報に、さらに耳が不足情報を補う、映像が鮮明になる…」
今度は、胸を両手で押さえて「絵を見る、心がザワザワする、何かの感覚が補完をする、心がザワザワ…」
思わずケンイチの口から「似テイル」とこぼれる。意図せずこぼれた、パズルのピースのばらばらの文字列…
似ている。プロセスが違うが、最終的には心がざわつくのだ。絵画の場合は、目で見て…他の五感が情報を助け、待てよ、助けてくれる何かの感覚と陽子は言った、それは何だ。
ケンイチの目が問い管理人の瞳が、やはり陽子に視線を注ぐ。
「第六感です。それに似た何かが騒いでるんです」
男達はようやく、ここでしてやったりのガッツポーズを見せるこの西野陽子が、これを告げるがためにピクニックを画策し、苦労しただろう程の料理を用意しこんなシーンを演出したのだ、と知った。