中編・6
晩秋にしては、日差しが暖かい。
男達には芝生の上に、ゆったりと大きめのピクニックシートを拡げさせ、陽子は次々に手料理を並べていく―これは、文字通りピクニックだった。
丁度昼時なので、男達は素直に歓声をあげたのだ。が。
次々に並べられる手料理の多さに、ケンイチのテンションが次第に落ちていく。ちょっと多くないか、何だ、この大量の手作り弁当は?
食材はミニ・クーパー満載に詰め込まれていた、車の中身はどうなっていると問いたくなる程に。重箱、大皿、バスケット、多彩な品々を次々に披露して胸を張る陽子だが、総量は軽く20人前以上に及ぶ。
ケンイチは呆れてしまう。食堂の女主人や、この西野陽子といい、天真爛漫で限度がない。マテよ?もし話がピクニックにならなかったら、西野陽子はこれをどうするつもりだったのか。言い出せずに泣く泣く持ち帰ってたのか。準備は…大変だったろうな、チキショー。
こうなったらヤケクソだとケンイチは、陽子が料理を並べ、披露する端から次々に手を伸ばしていた。
管理人は途中から「少し多いですね」位で単純に喜んで、事態の深刻さに気付いていない。量に関しては彼の範疇だろう、奴には平気だろうが。
何事かと3号爺が歩み寄って来る。ケンイチが、大変な事になった応援してくれ、と声を掛ける。
「こんにちは」と3号爺を歓迎して「お一ついかがですか?」の、笑顔の陽子。
3号爺は愛想良くワハハと返しながら、ケンイチに耳打ちをした。
(コノ娘。とても同一人物とは思えんな)
(どうした?)
(ワシは前回、どけ、じじぃと言われたんぢゃ)
(だよね?大笑い♪)
陽子はニッコリと、どす黒くとぐろを巻くオーラを醸す。おじいちゃん、何イッテルノ?
管理人がガラガラと笑い、食べ物が喉を詰まったと死にかかり、花が咲いたように皆が笑う。
3号爺は、若い連中の邪魔はせんと笑ってにぎり飯を一つほおばると、片手にローストチキン、片手に伊達巻で、またいつもの場所に戻って行った。気付いた陽子が、水筒をを届けようと小走りで3号爺を追っている。逃げる3号爺、アラ、なぜ逃げるの?で、陽子の笑顔が硬くなり、走りが真剣になっている。
ケンイチと管理人は、同じように肩をすくめた。この展開は完全に、仕方がない。
歓談の空気が落ち着いて。
陽子が言うには、あのオーディオ・システムは特別らしい。
彼女の父親は(重症の)オーディオマニアだそうで、外交の仕事に携わり、今は海外に赴任している(さすが国税キャリアの父親は外交官かと、ケンイチが羨望の眼差しで言うと、2等書記官、知られていないけど決して地位は高くない、と寂しげに笑う陽子。だから彼女はキャリアを目指したのだという)
親を指して【音キチ】と呼ぶ。それなら父親のマニアぶりはかなりのものだろう。
陽子は幼い時に病弱だった母を終に失って。それからは父親の傍らにいたので、おのずと父親の高尚な講釈を聞かされて育つハメになり、いつしかそんな世界に興味を抱くようになったのだ、という。
「だから私も【音キチ】なの。遺伝じゃなく後天的な犠牲?」と笑って。
スピーカーシステムは、父親が愛してやまない逸品と同じ物だ、と陽子は言った。
「ここであれを見た時、目を疑ったわ。まさかと思った。スピーカーは楽器なの。楽器になり得るっていうのが父の、いいえ、今や私の持論よ」
ケンイチは目をパチクリさせる。何でもそうだが、マニアが語る屈折した世界だ、よく解らん。
「かえでの木や相反するマホガニー。材質を考え抜いて作るとそうなるの。バイオリンや、弦楽器にとんでもなく高価なものがあるけれど、同じ理屈だわ。アンプ類は父のシステムとは違うけれど、私なら、ここにあるものを選んでいるかもしれない。幻の〇×社製、無帰環アンプ」
「高価いのか?ソレって」
想像が出来ないケンイチには、そんな質問しか出来ない。
理解できないでしょう?風の陽子は「それなりに高価だわ、私のミニ・クーパーが買える位」
「はぁ、世の中には、バカがいるもんだ。いや、その」
今度はケンイチがサンドイッチが喉に詰まったという真似をした、今のは失言デシタ。
「でも、たかがオーディオだぞ?」
「マニアですからネ?もっと高価なシステムはたくさんあるし」
先程から、陽子はお茶ばかりすすっている。彼女は時々サンドイッチの端をかじるくらいで、卑怯だゾ(ケンイチの心)
管理人はというと、仕事をしている、大物の処理に回っている。視界の先で気になり、男達にプレッシャーを与え続けていたパスタの山とドでかい七面鳥が消えた。ところでそんな管理人は、人の話を聞いているのだろうか?
「オーディオは金額じゃなく、バランスが大切です」独り言のように、陽子は続ける。
「父もよく言っているわ。いくら大金をつぎ込んでも空振りする場合がほとんどで。一つ狂っているとそれをごまかす事は出来ないって。ただし、条件とバランスさえ整えば奇跡が起こる」
奇跡という言葉に、ケンイチの内心が反応する(よく聞くようになったナ、またその言葉だ)
「体験したじゃない?五感が連動する、奇跡」
陽子は、いたずらっぽい瞳だった。
「システムは、全てを描き出すわ。意図しないものまで描き始める。ここにあるオーディオはまさしくそうなの。壁のガラスの反響が、プラスアルファになっている。どんなハイエンドもきっと叶わないから奇跡。それは瞳の色や、衣服まで再現して、心までも描いていく?」
私が言うのだから本当よ、こう見えても専門誌にコメントを依頼される位、私達親子は筋金入りのマニアなんだから、と苦笑を添えるが。
ケンイチは考え込んでいた。
確かに幻影を見た。実体はないから見えたものは幻影だ、映像か。それは一度垣間見るとリアルの度を増していく。だが音楽CDに映像データって無いんだろう?「音」が映像を描く五感の連動?どういう仕組みなんだ…
管理人、どうしてかな?あれ、呆けてる。会話の内容に混乱したのか、食べ方に徹し疲れたのか。どちらにせよ管理人、アンタは此処の管理者で当事者だろう?いわばオーディオはそっちが準備した機械なんだゾ、説明出来ないのか?と。
ケンイチが視線を投げてよこしているのに、管理人はただ困った風だった(だろうな、オーディオにはこの男が一番驚いていたし)
返事をするかわりに彼は、次に控える巻き寿司、いなり寿司の大皿をあごで示した、クイクイッ。
(食べなさい、ケンイチさん)
(?)
(今、当面の問題は、オーディオではなくこの弁当です。逃げるな、卑怯者)
(ちくしょう、そっちの困った風かい)
ケンイチは慌ててガツガツ始め、それを見てとった陽子は喋りすぎたかしら?と照れ気味になり。
食べに食べまくる男達を、しばらく面白そうに眺めている陽子だった。彼女は寿司の大皿を平らげて、喰った喰ったのケンイチにお茶を勧め、それをきっかけに「ところで」と次に継ぐ。
彼女はポケットからメモを引っ張り出し、それをひらひらさせてニッコリ微笑んだ。
「フェルメールについて、調べてきました~♪」
―話題はいよいよフェルメール【恋文】へ。