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水晶の街  作者: iuと猫
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前編・1

 耐え難い腕の痛みだった。

 運転するケンイチは、何度目かの自覚のある軽い失神を味わうと、歯軋りをした。ついにブレーキを踏む。

 山道を外れる。徐行もあえぐようにで、半ば突っ込むように、土手際に車を停車させる。

 ちくしょう、とひとつ毒づき、車から降り立ったケンイチだった。

 市街からかなり走って来た筈だった。峠を越えるイメージで県道から入り込み、がむしゃらに車を走らせた。

 辺りは山深く入って久しい。秋口とはいえ未だ強い真昼の日差しで、山林は樹木の臭気に沸いている。遠くから名も判らない鳥の鳴き声が聞こえてくる。

 彼に、何か考えがあった訳ではない。車を捨てる気になったのは、他に術がなく此処で諦めたからだ。

 左腕の傷はひどくなるばかりだった。

 肩から下、上腕を外側からスッパリ切られてしまった。やや長く一部は深いようだ。タオルで押さえ縛る位の止血では、しとしと滴る血は止まりそうにない。

 痛みに顔を歪めるケンイチの脳裏に、その時の光景が蘇る。

 若い組員達(ケンイチは同世代だが)をこてんぱんにやっつけて、金庫にあったありったけの現金をバックに詰め込んだ。組事務所を逃げ出そうとした時、駆けつけた兄貴分と乱闘になった。簡単に叩きのめしたが、その時に傷を負った。兄貴分のガタブル・カローラを拝借した。上手くいったと思った途端、傷にうめいた。最寄の私鉄駅のトイレの中で止血をしたが、その時には既に、額に脂汗だった。

 ケンイチはヤクザの組員だった。組事務所が嫌になって、金を持ち逃げしての無茶な逃避行に及んだのだ。その結果が、この不細工な結末だった。

 其処は、どこだか判らない深い山中の山道の、少し広い離合場所だった。

 進退極まった、さあどうすると、弱り切っていたケンイチが、それに気付いたのは偶然だった。ふと転じた視線の先に、林の空隙があった。そこに構造物、鉄柱のようなものを見つけたのだ。

 よくよく見ると門構えだ。横開きのこじんまりした、銀色の鉄ゲートだ。

 空き地が、山麓側にくぼむように僅かにあり、それはまるで山道から隠れるかのように其処に在った。

 近付いてみると、山道を挟んだ対面に、林を下る道がある。未舗装の細いもので、山の斜面を左に曲がりながら下っている。木立の隙間から、かなり下方に、こじんまりした街並が見える。林道はそこに至るのだろうか。距離は少しありそうだ。

 深い山奥にいるつもりだったが、それ程でもなかったのか。いや、上手く山越えを果たせて違う地域に辿り着いたのかもしれない。

 ケンイチは、ゲート越しに敷地を覗き込んだ、そして目をぱちくりさせた。

 視界の先は不意に拓けた、まさに山林の景色を突然見失ったかのような、広々とした光景だったのだ。

 敷地は大きな丘だった。一面が鮮やかな芝に覆われている。その明るい緑が、暗鬱あんうつなケンイチの目に痛い程だ。

 山道に沿い、幾重もの杉の並木が丘を覆い隠していた。そこに手伝って、この山間に突如美しい丘がある、というのは忽然こつぜんすぎるだろう。果たして山道を車で普通に走っていて、此処を発見出来るだろうか……

 丘の上に建物が在った。鋭角のシルエット、やけに光が反射している。

 ケンイチのイメージでは、ゴルフ場の倶楽部ハウスか、もしくはこのゲートの味気無さは、公共事業や何かの施設か研究所か。はたまた、意外に療養所や、神様がいるかもしれない教会か。

 次々に思い浮かぶのは、寄せる波のように痛みが来てはいちいち思い付くからで仕方がない。後半の施設は希望的観測だ。

 ともかく人がいないだろうか。消毒薬ひとつでも手に入らないだろうか。

「お前、ケガをしてるのか?」

 ふいに声がしたので、ケンイチは声の方に目をやる。

 建物ばかりに気が向いて、気付かなかった。敷地内の手前の杉の木の根元に、老人が座っていたのだ。

 見るとピクニックシートを敷き、弁当箱を拡げている。勿論、水筒とかある。こんなに目立つのに、なぜ気付かなかったのだろう。

 小柄な老人だった。こちらに歩み寄ってくる。人がいたか、とケンイチは軽い安堵になった。

「……此処は何だ?」

 探るようにケンイチは質問した。

「ここは美術館ぢゃ」

 老人が何食わぬ顔で答える。彼は鉄ゲートをヨイショと開く。ゲートは見た目より軽快に、滑らかに右にスライドした。

「病院とか、じゃないのか?」

「やかましいわ。此処は美術館ぢゃ、水晶の塔・美術館と云うんぢゃ」

 セリフに反して、やかましく思っていそうにない老人は、カタカタと笑っている。

 やかましいわ、と言われてはケンイチも舌打ちになる。普段なら、このじじいと始めるところだが、この状況だ。それに悪意がないのは空気から読める。

「おい、じーさん。このあたりに病院はねーのか?」

 苦く、どこか弱いケンイチの反応に、老人はケンイチの窮状を悟ったのだろう。彼は、血がしたたり落ちる程のケンイチの左腕を見て(しまった、変なのに関わった)と嫌そうに、しかし心配ではある、といった顔の腕組みになる。

「お前さんの後ろの林をまっすぐ降りれば、町医者もおるけれど。歩いて30分はかかるぞい」

 この老人。うーん、と唸った割りにあっさりと「ケガの手当て位なら美術館でやってもらえ。うん。それがええ」

 彼は入って来いとゼスチャーする。

 周期的にやってくる痛みと、事情を飲み込めている筈もない老人に、ケンイチは顔をしかめていた。軽い切り傷ではない、乱闘の挙句のケガという事情もあるのだ。 

「此処は、病院じゃないんだよな、大丈夫かよ?」

「病院じゃない。ぢゃが、ケガの具合位は診てもらえる。やかましいから早く行け」

 老人はさあさあと、何時からか楽しそうになっている。明るい老人か、いや、ただの能天気なじじいだ。

 仕方がなくケンイチは美術館に向かう事にした。何だか此処から送り出される感じだった。

 歩み始め、彼は老人に一瞥をくれた。

「じーさん、アンタが管理人じゃないのか?」

「わしか?」

 離れ際のその質問に、老人は嬉しそうに答える。

「わしは3号爺ごうじじいぢゃ」

「3号じじい?」

 老人は、既にゲート閉じ終えていた。杉の木の根元に引き返そうとしている、まだ笑って時々こっちを見ていた。ケンイチは苦笑いで「変なじいさん」と声にしてから、でも憎めないタイプだと、ぼそりと呟く。

 彼は丘の小径こみちを歩んで行った。気付くと会話で紛れていた腕の痛みだった。それに再びさいなまれながら。


 小径はアスファルトで舗装されている。道幅は狭く車ひとつ分だ。手入れされた芝が辺り一面に、藍々とした香りを放っていた。心地良かったが、怪我をしているのだ、それをを楽しむ余裕などあるものか。

 ところが建物に近付くにつれ、迫る威容は文字通り、腕の痛みを忘れさせる程にケンイチを驚かせていた。

 遠目には判らなかったが、建物はコンクリートや木材で造られていない。つまり普通の建物ではなかった(勿論、そこそこの材料は普通の建材だろうが)ともかくそれは、教会のような形をした総ガラス張りの建物だった。

 中央に塔?が建っている。西洋風の円柱ではない、多角形の角柱だ。その先が空に向かって収束しているので、多角錐というのか。

 それは一見、鉱物の巨大な結晶のように見える。老人が、水晶の塔・美術館と言っていた。塔とはこの部分を指すのかだろうか、とケンイチは思う。

 建物は、通常のビルで云うならのまず背の高い1階があり(それが四角の箱でなく、多角なのだ)、その上に一回り小さいこれもまた背の高い階がある。その壁面が多角を保ちながら滑らかに、最上階にあたる塔に結ばれている。各階を支える柱が在る。これは円柱で、幾つかは塔にまで貫かれている。規模は、シルエットが似ている教会でいうなら、中規模クラスのそれか。

 この外観が全てガラス張りなのだ。それはまるで、近代都市を象徴するような幾何学建造物だった。

 日差しの中で、壁面が様々な方向に輝いている。芝の色や高い空のあお、澄んだ空気までもが壁面に映り込み、硬質で無機質な気配を辺りに放っている。

 ケンイチは人里離れた山中にいる筈だった。苔生した廃墟の古城なら在りそうなものだろう。それなのに、目の前には垢抜けたオブジェのように都会的な建物が在る。奇抜というか奇妙というか。そう、それは既に、異様だった。


 緩い登りを300m程歩いただろうか、ケンイチはガラス扉の入り口に辿り着く。

 間近に見ると、使われているガラス材は分厚くどこもかしこも巨大なものだ。頑丈そうな建物の造りで、こりゃずいぶん金がかかっているぞ、と改めて辺りを眺めていると。

「どうぞ」

 突然、ガラス扉が押し開かれる。

 ケンイチはギョッとした。異様な建物だと思っていた矢先に、現れた人物もまた異様だったからだ。

 目の前に、男が立っていた。ケンイチは、身長が180センチあるが、目前の男は縦も横も、さらにふた回り大きい。顔つきは、しっかりした骨格に薄いがしっかりとした眉、細いキリリとした瞳に、固く結んだ口元。短く刈り込んだ頭髪に、きつそうにワイシャツ姿では、どう見てもプロレスラーだろう。

 200センチ・150キロの、要するに想定外のゴリラ男だ。美術館なのに。

「水晶の塔・美術館へようこそ。私は管理人です」

 彼の声は見た目同様、野太い低音だった。けれども、語調は優しげに、穏やかで丁寧だった。

 ケンイチは、招き入れられて「へえ」と声を洩らしていた。

 確かに美術館だった。

 それなりの規模のハウス・ミュージアムといったところか。エントランスというか、ロビーは広々として(散々異様の連発だったが)外から想像したよりも明るく開放的だ。装飾の無い造りは清潔感があり、壁際に立てられた各パネルボードの白さが際立っている。ピカピカに磨かれた床は白系のリノリューム、右手側に見える階段の、クロム色とのコントラストはモダンかもしれない。

 左手の奥まった処に事務机などが在った。事務用品は無骨な男が揃えそうな物ばかりで、どうやら、美しい受付嬢などいないらしい。

 事務机はごく普通の事務机だ。ケンイチはちらりと横にいる大男を見て、コイツにはずいぶん窮屈だろうなと感じる。

 一方大男、管理人も同様にケンイチをちらり見していた。勿論、ケンイチが傷を負っている事に気付いたのだ。

「怪我をしていますね?」

「訳ありでさ」と ケンイチはバツが悪そうに笑う。

「手当て出来ねえかな?とりあえずでいいんだけどさ、止血だけでもいいぞ」

「医者を呼ぶ事も出来ます」

 不意に管理人が腕を掴むのである。ケンイチが激痛に悲鳴を上げた。

「バカ野郎、離せ!」

 語尾は怒声だ。大男をつき飛ばした筈が、後ろによろめいたケンイチだった。

「刃物で斬られましたね?少しひどい」

 管理人は顔色一つ変えなかった。

 彼は笑顔のまま、どうぞと言って通路を差し、歩み始める。悪態をつくケンイチだったがここは従うしかない。 

 正面入口からロビーを真っ直ぐ進むと、管理人室とパネルが懸けられた扉があった。そこを進むと、つきあたりが管理人の控え室になる小部屋だった。

 こじんまりした部屋である。

 上がりかまちで4畳半くらいの畳敷き。古いブラウン管型テレビと、小さな茶ぶ台、簡単な茶器。

 昔見た事がある、学校の用務員室を思わせるノスタルジックなこの小部屋は、近代的な美術館の造りにミスマッチで一面やはり異様だが、むしろ大男に似合っていそうだ、とケンイチが感じているとその端から。

 ここから更に、管理人はロッカー横の扉を開ける。奥へと進んで行く。

 ケンイチが案内されたのは、地階だった。この建物には、地下にも施設があるのだ。

 短い階段を下りると、今度は広い通路に出る。その通路も正面に向かって真っ直ぐ伸びて、左右に扉や通路があるのだが、地階の空気は1Fのロビーと同じ風で、ここがオマケの階でない事が感じ取れる。

 こんな地方の山中に、ずいぶん立派な設備だなと感心するケンイチの、ふと転じた視線の先に、広い大部屋が在った。

 立ち止まって覗きこんでみると、100畳位の畳敷きの広間だ。3方の壁に大鏡が付き、中央にサンドバッグが吊るされている。トレーニングルームというか、道場の風だ。

(この大男、何かやってるな)と、ケンイチが頭を掻いたタイミングで「こちらです」

 管理人に手招きにされ 導かれるまま部屋に入るなり、又軽い驚きの声を洩らしたケンイチだった。

 部屋は、上品なクリーム色で統一された、まるでホテルの一室のようだった。上等のシングルベットが壁際にありシンプルだが大振りのテーブルに品のある戸棚、シックな調度品のしつらえである。

「ココって、何だよ?」

 首を回して部屋を眺めながら、ケンイチは戸惑いを隠せない。ベットに腰をおろす動作も、ぎこちなくだった。

 管理人は、落ち着かない風のケンイチを気にもとめない。彼は戸棚から救急箱を取り出す。シャツを脱ぐようにゼスチャーでケンイチに促し、ガーゼに消毒薬、と準備を始めていた。


 痛いやら、優しくやれやら、静かにして下さいやらで一悶着があって。

 ようやく包帯を巻き終わる頃には、治療をしてもらってすっかり神妙な顔になるケンイチだった。

「悪いな」と、ケンイチは小声で言う。

 管理人は、気にしないでと素振りをして「ここはゲストの部屋ですから、安心して下さい」と言い、いくつかの錠剤とコップに用意した冷水をテーブルに差し置いた。

「熱もあるようです。これは鎮痛剤と下熱剤です。医者はすぐに手配しましょう」

 彼はそう言うと、無言でケンイチを見つめる。

 ケンイチは頭を掻くばかりだ。初対面では仕方のない、双方会話の緒がつかめないという間だった。

 管理人が、思い出したような顔をする。

「私も、失礼して」と言って、彼はズボンのポケットからピル・ケースを取り出す。ケンイチに軽く背を向け、ジャラリとひと盛り。錠剤を手の平に振り出すと、それをひと呑みにした。

 薬か、でも多くないかはそれは、というケンイチの視線に、彼は勿論気付いており「ただの頭痛薬です」と答え、戸棚からコップを取り出す。水を口に含みながら瞳を笑わせて、頭痛の種は貴方ですよ、と言わんばかりだ。 

 ケンイチは肩をすくめて、テーブルの錠剤を口に放り込んだ。

 水をひと口で飲み干して「ゲストの部屋なんだな、此処って」と、軽くおどける。管理人は口元の端を曲げるだけの、少しかたい笑みだった。

「では、横になって。もう休んで下さい」

 自分のコップを握り、それで出て行こうとする管理人に、ケンイチは声を投げる「先程さっき」と。

「違う広間に、道場を見たゾ。あんた何かやってんのか、柔道、空手か?」

 大男は、にやりと笑った。

「空手をやります。少しいける口です」

 あ、そうなんだ、アハハ、と愛想笑いになるケンイチに「少し眠って下さい」と管理人は重ねた。彼は部屋の照明を落とし、静かに退室したのだった。

(あの体格ガタイでいける口とは、恐れ入った)

 どうでもいいかと、と大きく息をつき、ゴロリと横になるケンイチだった。

 天井を見上げて考えてみる。今日は朝からくたくたになる一日だった。

 ヤクザの事務所から持ち出した大金が、市街外れの私鉄駅のロッカーに眠っている。負傷しなければ、そのまま鉄道路線で行方をくらませる事も出来たのだが、日頃から気に食わなかった兄貴分の柔らかい腹に、とっておきの蹴りをお見舞いしてやったのだ。まあ、そこはあいこだろう。

 まどろみがあっという間にやって来た。

 

 呼ぶ声がしていた。子供の頃の夢を見たような気がした。

 夕暮れの川原で、幼い自分が友達とチャンバラをやっている。友達も川面も街並みも皆、茜色あかねいろに染まっていた。

 母親が傍に立っていた。少し老いを感じる現在いまの姿で、子供達を笑っている。ケンイチも周りも皆幼いのに、どうして母の姿は若くないのだろう。

 人の会話が耳に入ってくる。腕の怪我について話をしているようで、薄く目を開くとぼんやりとした視界の中で、医者が腕の手当てをしてくれている。自分は病院に運ばれたのだろうか、此処はどこだろう?

 ケンイチは、浅い眠りの中でいくつかの事をおぼろげに感じながら、又深く眠った。





2011年11月に、文章に加筆、改行スペースを削除しました。

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