『ルーベン』それが-
午後の陽がやわらかく射しこみ、アルバーン邸の中庭では白薔薇が風に揺れておりました。
静かな香りの中で、わたくしは窓辺に腰をかけ、紅茶を口にしておりましたの。
すると、扉の向こうから、控えめにノックの音が響きました。
「……クラウス、いらっしゃいな」
開いた扉の向こうには、黒い上着をきちんと着こなした青年――いえ、まだ少年と呼ぶべきでしょうね――が立っておりました。
彼の名はクラウス。あの裏路地で拾い上げてから、もう半年ほどが経ちます。
「お呼びとのことでしたので、伺いました」
姿勢を正し、どこかぎこちない礼をするその所作に、
わたくしはつい、微笑んでしまいましたの。
「ええ、そうですわ。少しお話ししたいことがあってよ」
わたくしが隣の席を示すと、彼は一瞬ためらいましたが、やがて静かに腰を下ろしました。
窓の外では、春の陽光が白薔薇を透かし、光の輪を描いております。
「ねえ、クラウス。あなた、ご自分の“名”というものをどう思っておりますの?」
「名……ですか?」
「ええ。あなたは“クラウス”と名乗っておりますけれど、それはまだ“名”だけですわ。
家名――あなたが、どこに属し、何を信じるかを示す“印”は、まだお持ちでないでしょう?」
彼は少し俯き、小さく息を吐きました。
「……俺には、そういうものはありません。属する場所も……信じるものも」
わたくしはそっとカップを置きました。
その言葉の奥にある哀しみを、見逃すことなどできませんでしたの。
「まあ……なんて寂しいことをおっしゃいますの」
わたくしは机の引き出しを開け、一枚の羊皮紙を取り出しました。
その宛名の欄には、すでにわたくしが書き記した文字がございます。
“クラウス・ルーベン”
わたくしはそれを彼の前に差し出しました。
「“ルーベン”――それが、あなたに贈りたいお名前ですの」
彼は目を瞬かせ、ゆっくりとその名を口にしました。
「……ルーベン……?」
「ええ。この言葉は、古い言語で“誓い”を意味いたしますのよ。
あなたは誰も信じられぬほどに傷ついて生きてきた。
けれど、今は――ほんの少しだけでも、わたくしを信じてくださっている。
だから、その“信頼の証”として、この名を贈りたいのですわ」
クラウスは沈黙しました。
その指先が、わずかに震えているのが見えます。
「……でも、それは……俺には、少し、もったいないような気がします」
「まあ。あなた、そんな謙遜をするなんて」
わたくしは笑いました。
「これは“褒美”でも、“称号”でもございませんの。
ただ、わたくしが――あなたを、信じたいと思った証ですわ」
「……セシリア様は、本当に……変わった方ですね」
「ふふ。よく言われますわ」
彼はわずかに笑い、視線を落としました。
その笑みはまだぎこちないけれど、とても優しいものでした。
「……“クラウス・ルーベン”」
彼は小さくつぶやき、その音を確かめるように繰り返しました。
「……良い響きですね」
「まあ、ようやく気に入ってくださったのね」
わたくしは嬉しくなって立ち上がり、机の花瓶から一輪の白薔薇を手に取りました。
「では、この薔薇を受け取りなさいませ。――これは、誓いの印ですわ」
「誓い、ですか?」
「ええ。あなたがこの先、どんな運命に巻き込まれようとも。
“信じること”を、どうか忘れないでくださいませ。
たとえこの身が滅びようとも――わたくしは、あなたという“誓い”を信じておりますから」
クラウスは、胸の前でその薔薇を受け取りました。
少しだけ手を震わせながらも、その瞳には確かな光が宿っておりました。
「……ありがとうございます。セシリア様。
この名と、この薔薇は、一生……忘れません」
「ええ、きっと。――ごきげんよう、クラウス・ルーベン」
白薔薇の花弁が、春の風に乗ってひらひらと舞い上がります。
その光の中で、彼の黒髪がやわらかく揺れました。
その日、ひとりの孤児が“信じる者”となり、
わたくしの傍らに、初めて“誓いの名”が生まれたのでございます。




