後編:【フェンリルの国】--忠義の名の下に、優しさを知るのですわ。
凍てつく風の中に、低く唸るような咆哮が響いた。
氷狼の群れが、月光を浴びて一斉に駆ける。
その足跡は蒼白の光を放ち、凍土に神聖な紋を描いてゆく。
セシリアは杖を掲げ、白薔薇の花弁を模した魔紋を展開した。
光が弾け、氷狼たちは一瞬にして氷片となって散る。
しかし――その氷は、消えることなく宙に留まり、まるで“祈り”のように揺れていた。
「お嬢様、なにか……異様な反応を示しています」
クラウスの声が震えていた。
セシリアはゆっくりと瞳を細める。
「ええ。これは、ただの魔ではございませんわ……神の印ですの」
その瞬間、玉座の背後――氷壁が音を立てて割れ、光を宿した巨大な紋章が現れた。
円環の中心に刻まれた狼の意匠。
その輪郭には、古代語が淡く輝いている。
「――契約を、忘れるな」
どこからともなく声が響いた。
フェンリル王が、ゆっくりと顔を上げる。
金の瞳が、神々しい光を宿していた。
「我らフェンリル族は、古の時代より〈狩猟神ウール〉に仕えてきた。
我らの血は誓約そのもの。
裏切りは、神の怒りを呼ぶ……そう刻まれておる」
「なるほど。では、その“鎖”とは――神への誓いそのもの、ですのね?」
「そうだ。忠義の鎖とは、神と王の契り。
それを破れば、王もまた神の呪いに囚われる」
王の声には、凍るような静寂があった。
だがその奥に、微かな苦悶が滲む。
「……ならば、あなたは今、神の呪いをその身に宿しておられるのですわね」
「我は……己の民を守るために、その鎖を選んだ。
神に逆らえば、我らの魂は獣に堕ちる。
だが――神の誓いは、人の裏切りによって穢れた」
玉座の氷がひび割れる。
そこから滲み出した光が、血のように赤く染まっていく。
「王よ、その契約……あなたお一人が背負う必要はございませんわ」
「黙れ……! 神は、誰にも赦しを与えぬ!」
その叫びと同時に、紋章が輝きを増した。
氷狼たちの霊が集い、空を覆うほどの巨大な狼の姿を成す。
その眼光は神々しくも、あまりに哀しい。
セシリアは一歩、前に出た。
風が彼女の銀髪を舞わせ、紅の瞳が氷の月を映す。
「わたくし、白薔薇の君は――神の審判に、礼をもって抗わせていただきますわ」
杖の先が氷床を叩くと、白光が走った。
薔薇の紋が氷の上に咲き、風がそれに呼応して旋回する。
光と氷、祈りと怒り――二つの意志が交錯する。
轟音の中、セシリアの声が澄み渡る。
「忠義とは、神に仕えるものではなく――愛する者を護るためにこそあるもの。
あなたはそれを、決して見誤ってはなりませんの!」
神狼が吠え、氷塊が降り注ぐ。
セシリアは紅の魔力を解き放ち、氷片を光に変える。
花弁が舞い、白い嵐の中に紅のきらめきが散った。
やがて、玉座の王の鎖が再び鳴動する。
「……我は、誰のために誓ったのか。
神のためか。民のためか。
――いや、ただ、愛する国を護りたかっただけだ」
その言葉とともに、氷が砕け散った。
金の光が溢れ、神狼の姿が霧のように薄れていく。
「フェンリル王よ、あなたの忠義は今も美しい。
ですが、どうかその美しさを、誰かを縛るために使わないでくださいまし」
「……白薔薇の君。貴殿の言葉、凍りついたこの心にも届いたようだ」
王が跪き、氷の破片が宙を舞う。
それはまるで春の花びらのように柔らかく、淡い光を帯びて消えていった。
「神々との契約は……どうなりましょう?」
クラウスの問いに、セシリアは静かに微笑んだ。
「ええ。神もまた、哀れなもの。
信仰に縋りながら、己の孤独を氷に閉じ込めているだけですの」
空を見上げれば、薄雲の向こうに光が差す。
長い夜の果てに、わずかに黄金の暁がのぞいていた。
フェンリル王はその光を見つめ、ゆっくりと立ち上がる。
「……春の匂いだ。
何百年ぶりだろうな」
「ええ、ようやく氷も融けますわ。
人も、神も、忠義も――温もりを忘れてはなりませんのよ」
クラウスが静かにポットを差し出す。
「お嬢様、紅茶を」
「ありがとう、クラウス。王にも一杯、いかがかしら?」
王は微笑み、頷いた。
その頬に、氷の雫が伝う。
涙か、それとも融けた霜か。誰にも分からなかった。
そして、セシリアは杖を収めると、白い息を吐きながら呟いた。
「忠義の鎖――その名に似合うのは、冷たさではなく、優しさでございますわ」
その声が、凍てついた大地に響く。
やがて、氷の国〈ヴァルドラグ〉の空に、初めて春風が吹いた。
白薔薇が雪解けの上に咲く。
それは――神々すら忘れた“赦し”の花でございました。




