前編:【フェンリルの国】--わたくしの手で、氷を融かしてみせますの。
風が凍てついておりました。
エルフの国より北へ三日ほど、〈氷冠山脈〉を越えた先に広がるのは、永久氷土に閉ざされたフェンリルの国――〈ヴァルドラグ〉。
白銀の地平線には、夜と昼の境がなく、ただ星々が凍りついたまま瞬いております。
「お嬢様、寒さがひどうございます。外套を」
「ありがとう、クラウス。でも……この冷たさ、悪くありませんわ。
どこか、人の心に似ておりますの。美しく凍りつき、融けることを恐れているのですもの」
セシリアは口元に微笑を浮かべ、凍結した大地を踏みしめました。
その足元には、古い獣の爪痕が深く刻まれております。
――王都に届いた報せは、たったひとつ。
「フェンリル王が沈黙し、群れが暴走を始めた」というものでございました。
国境の砦にたどり着くと、氷を纏った獣人たちが警戒の目を向けてきます。
その中の一人、白銀の毛並みを持つ青年が前に出た。
「貴殿、人の国の者か?」
「ええ。白薔薇の君――それが、裏の世界でのわたくしの名でございますわ」
青年の目が一瞬だけ揺れた。
「……貴様が、あの」
「ええ、血で染まった花は、冷たい地でも咲きますのよ」
彼の案内で王城へ向かう途中、セシリアは気づいた。
雪の下に埋まるように、無数の氷像が並んでいることに。
それらはすべて、フェンリル族の者。
苦悶の表情を浮かべたまま、氷に封じられている。
まるで――生きたまま“止められた”ように。
「……これは、何ですの?」
「我らの王〈フェンリル・グラズヴァルド〉が施した“鎖”だ。
忠義を誓った者を永遠に留め、裏切りを防ぐという儀だが……」
青年は言葉を濁す。
「その鎖が、王をも縛っているのですわね?」
「……!」
氷の城門をくぐると、そこには巨大な玉座。
その上で、灰色の毛並みを持つ狼王が鎖に繋がれたまま、凍りついていた。
瞳だけが、かすかに金の光を帯びて動いている。
それは、生者とも死者とも言えぬ存在。
「フェンリル王よ。王都より参りました、セシリア・フォン・アルバーン。
あなたの国を蝕むものを、調べにまいりましたの」
しばらく沈黙が続いたのち、かすれた声が響いた。
「……我を、誰が呼んだ」
「王自らの“誓い”ですわ。あなたの忠義が、国を凍らせている」
「忠義を捨てた民に、何が残る……?」
玉座の鎖が軋む音を立て、氷が砕けた。
王が一歩、前へ。
その足取りは重く、だが威厳に満ちている。
「王を裏切ったのは、我ではない。人だ。
契約を破り、我らの地を奪い、狩りの誇りを穢した。
だからこそ、我は“誓い”を凍らせたのだ」
「……あなたの怒り、理解いたしますわ。けれど――」
セシリアは杖を掲げた。
「怒りを守るために、愛する者を氷に閉じ込めるのは、美しくありませんのよ」
その言葉に、王の瞳が微かに揺れる。
「美しさ……だと?」
「ええ。忠義は、心の温度をもってこそ輝くものですわ。
冷たさで縛れば、やがて自分をも凍らせてしまいますの」
クラウスがそっと呟いた。
「お嬢様……お気をつけを」
「大丈夫ですわ、クラウス。彼の鎖は怒りではなく、哀しみから生まれたものですもの」
セシリアが歩み寄ると、王は牙を剥いた。
だが次の瞬間、彼女の手がそっと王の頬に触れた。
その温もりに、氷がかすかに鳴動する。
「……こんなにも、温かいのか」
「そうですわ。あなたの忠義は、まだ死んではおりませんの」
氷の鎖がきしむ。
しかし、完全には解けない。
「……我が怒りの根は深い。もはや止められぬ。
人の血をもって、誓いを終わらせねばならぬ」
その瞬間、氷壁が砕け、無数の氷狼が出現した。
王の心を映すような、荒れ狂う氷の獣たち。
セシリアはため息をつき、月光を浴びた杖を構えた。
「美しき忠義に、穢れは似合いませんわね。
では――礼儀をもって、鎮魂いたしましょう」
氷と光が交錯する。
凍てついた世界の中、銀髪が舞い、紅の瞳が静かに輝く。
それは、まるで“冬の女王”そのものでした。
戦いの刹那、クラウスが紅茶のポットを差し出す。
「お嬢様、少しお手を温めて」
「ありがとう、クラウス。ええ、終わったら――紅茶を淹れましょう。
氷の国にも、きっと春は訪れますもの」
凍てついた夜空の下、白薔薇がひとつ咲く。
それは、血でも炎でもなく――ただ、美しい光でした。




