後編:【エルフの国】--わたくし、滅びをも美しく護り抜きますの。
翌朝。
ルフェリアの空は、いつにも増して重く沈んでおりました。
翠の葉は黒ずみ、鳥は歌をやめ、川の水は灰のように濁っている。
まるで森そのものが、ゆっくりと死にゆくようでございました。
「……お嬢様、やはり夜の出来事は夢ではなかったようですね」
クラウスの言葉に、セシリアは静かに頷く。
「ええ。封印石が砕かれたあの場所、あれは間違いなく〈神核〉の一部。
森を保つ“意思”そのものが、外から侵蝕されておりますの」
彼女の視線の先では、エルフの巫女たちが祈りの儀を捧げておりました。
だが、どれほどの祈りも、もはや森の腐敗を止めることは叶わぬ様子。
「セレイア殿、封印石を砕いた者について――何か心当たりはございませんか?」
「……正直に申せば、ある。だが口にはできぬ名だ」
「それでも、教えてくださいませ。王都もまた、この森の異変を放置できませんの」
沈黙が流れたのち、セレイアは唇を震わせながら告げた。
「“エルディア”――それが奴の名だ。かつて我らの王が最も信頼した祭司。
だが五十年前、神に選ばれぬ嫉妬から、〈異界〉に身を投じた裏切り者だ」
「……その名、覚えておきますわ」
セシリアは目を閉じ、わずかに祈るように呟いた。
「きっと、森の神が泣いておりますのね。
己の子に裏切られ、己の加護が呪いへと変わってしまったのですから」
空を裂くように雷鳴が轟いた。
その瞬間、森全体が呻くような音を立てたのです。
「……来ましたわね」
地の底から這い上がるように、黒き根が地表を突き破り、聖樹を締め上げていく。
その中心に、かつての祭司〈エルディア〉が現れました。
髪は白く枯れ、瞳は奈落のように濁っております。
だがその口元には、皮肉にも優雅な微笑が浮かんでいた。
「久しいな、セレイア……そして、人の国の白薔薇よ。
“神”など、ただの檻に過ぎぬ。森も生命も、自由に還るべきだ」
セレイアは弓を構える。
だがその手は震えておりました。かつて敬愛した者に、矢を向けるという現実が。
「貴様が、森を……!」
「我は解き放っただけだ。真の生命は、腐敗の中でこそ美しく咲くのだよ」
セシリアは一歩前に出た。
白い衣が風に揺れ、髪に宿る香りが、闇の中で光のように漂う。
「……美を名乗るには、あまりに醜悪ですわね」
杖を構え、祈りの言葉を口にする。
「聖樹の光よ、今一度、その根に宿りたまえ――」
地を這う黒根が燃え、聖なる光が森を照らした。
しかし同時に、エルディアが両手を広げ、闇をまとった神核の欠片を掲げる。
「お前に、この森の意思が理解できるものか! “神”を縛る人間が!」
瞬間、森が咆哮した。
天を覆うほどの黒い花が開き、腐敗の香が世界を包む。
その中でセシリアは、毅然と笑った。
「わたくし、人の枠に収まるつもりはございませんのよ」
杖の光が爆ぜる。
「――“聖浄”」
森が白く染まり、光と闇がぶつかり合う。
爆風に木々が軋み、光の花弁が空へと散った。
やがて、静寂。
跡には焦げた大地と、ひとり膝をついたエルディアの姿。
彼の瞳はもう、正気を取り戻してはいなかった。
「……なぜ、私を殺さぬ」
「あなたもまた、この森に囚われた者だからですわ」
セシリアはそっと彼の頭を抱き、静かに祈りを捧げる。
「どうか、次に生まれ落ちるときは――光の側でありますように」
彼の身体が崩れ、灰となって風に消えた。
森は再び静けさを取り戻す。だが、その沈黙には深い疲弊が残っていた。
セレイアが膝をつき、涙を落とす。
「……我らの森は、もう終わりなのか」
「いいえ、始まりですわ。
神が眠り、森が再生を選ぶなら、わたくしたちはその誕生を見届けるだけですの」
森の上空に、一羽の白い鳥が飛び立った。
新たな芽が、焦げた大地に小さく息吹を上げる。
それは、希望のようで、祈りのようで。
セシリアは振り返らずに歩き出した。
「クラウス、次の地へ向かいましょう」
「はい、お嬢様。……フェンリルの王が、お待ちしております」
風が吹く。
森の香が遠ざかり、セシリアの背中に光が差し込む。
それは、白薔薇が再び咲く前触れでございました。




