前編:【エルフの国】--森が沈黙を破る時、神の影が目覚めますの。
王都から北へと三日の行程。
霧と森が幾重にも重なり合うその先に、エルフの都は存在しておりましたの。
陽光は葉の一枚すら貫けず、森全体がまるで祈りの殿堂のように静まり返っております。
耳を澄ませば、風の音も、鳥の声も、まるでひとつの旋律を奏でているかのようでございました。
「……お嬢様、どうやら使節団が我々の到着を察知したようです」
「ええ、クラウス。気配がございますわね。まるで、わたくしたちの足音までも測っているような」
木々の影より現れたのは、銀に輝く髪を持つエルフの戦士たち。
その瞳は冷ややかに、けれどどこか憂いを帯びておりました。
「人の国の者が、この森に足を踏み入れるのは久方ぶりだ」
先頭に立つ者――エルフの守護長が、澄んだ声で申します。
「王都の“白薔薇”殿とお見受けする。何ゆえ、我らの地を訪れた?」
セシリアは一歩前に進み、優雅にスカートの裾を摘み上げました。
「わたくし、王都の安寧を担う者として、この地に起きている異変の真相を確かめに参りましたの。
最近、エルフの森から“黒き花粉”が流れ出し、人間の村に病をもたらしていると報告がございますのよ」
セレイアの眉がわずかに動きました。
「……その件は、我らも承知している。だが、あれは“森の神”の怒り。人の介入は許されぬ」
森の神――それはこの地の伝承にのみ語られる存在。
“翠光を抱くもの”、“永遠に死なぬ生命の源”。
しかしその加護は、いまや呪いへと変じつつあるという。
クラウスが一歩進み、静かに問いました。
「もしや、神を封じる結界が弱まっているのではございませんか?」
エルフたちの間にざわめきが走りました。
セレイアは瞳を閉じ、しばし沈黙ののち、重々しく頷く。
「……人の執事にしては、聡いな。実際、その通りだ。
森の中心、“根源の祭壇”を守っていた封印石が、誰かによって砕かれた」
「誰か、とは?」
「……“異界の種族”。姿を見た者はほとんどおらぬが、漆黒の翼を持つ者だと」
セシリアは目を細めました。
その名を、彼女は既に聞いたことがございましたの。
――〈奈落種族〉。
古の神々と敵対し、封印されたはずの禁忌の存在。
「その者が、森を蝕み始めたのですね」
「そうだ。だが我らエルフは、人の助けを借りぬ。我らの神を、我らの手で鎮める」
その矜持の高さは、誇りに満ちていました。
けれど、セシリアの眼にはそれが――滅びの予兆にも映ったのです。
夜。
森に月が差す頃、セシリアはひとりで“根源の祭壇”へと向かいました。
白い衣が風に揺れ、手にした聖杖が微かな光を帯びる。
――そして、そこに広がる光景は。
枯れた樹海。
かつての神域が、今は黒い蔦に覆われ、腐敗していた。
「……この地を、わたくしは放っておけませんの」
その瞬間、黒い霧が渦を巻き、闇の中から姿を現す影。
それは“奈落しゅぞく”――アビス・デーモンの尖兵。
「人の娘よ。光を掲げる者が、闇を覗く覚悟はあるか」
セシリアは一歩も退かず、微笑を浮かべて言いました。
「ええ、覚悟なら――とうに済ませておりますの。
白薔薇は、闇の中でこそ咲くものですわ」
闇と光が交錯する。
彼女の杖から放たれた光輪が、夜空を白く裂き、森を覆う黒霧を一瞬で吹き飛ばしました。
だがその中心で、デーモンの影は嗤う。
「神は、もう眠ってはおらぬぞ……人の女王よ」
その声を最後に、影は消え、再び静寂が訪れる。
セシリアは静かに杖を下ろし、空を仰ぎました。
「……やはり、ただの腐敗ではありませんわね。
これは、“上位種族全体”に及ぶ兆し……」
クラウスが現れ、マントを広げて彼女を包む。
「お嬢様……お身体が冷えてしまいます。今宵はお戻りを」
「ありがとう、クラウス。でも、この森の闇が再び息を吹き返したのなら……」
――きっと、次に目覚めるのは“神”そのもの。
セシリアの瞳は、遠い夜空を見据えておりました。
エルフの国の静寂の底で、確かに何かが、動き出していたのです。




