表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/43

けれども人は、祈りを止めることはありませんわ

夜の聖堂は、まるで白い棺のように静まり返っておりましたの。

 月光が彩色ガラスを透かし、床に散る光はまるで罪人の影。

 聖歌隊の残した余韻が、まだ空気の中で震えておりますのよ。


 「神の御心とは、いつもご都合のよいものでございますわね。」

 わたくしはそう呟きながら、銀の香炉を指先でそっと撫でましたの。

 香の煙に混じるわずかな鉄の匂い──ええ、血の香りですわ。

 “清めの水”が穢されておりますのね。まったく、どなたかしら。


 今宵の標的は、王都大聖堂の高位司祭、マルク・ルゼル。

 表向きは敬虔で慈悲深き聖職者として知られておりますけれど、

 その献金の多くが、孤児院の子らを“買い戻す”ために使われているとか。

 お祈りの言葉の裏で、罪を取引なさるなんて──まぁ、なんて下品ですこと。


 「お嬢様、聖堂裏の扉は無人でございます。」

 「ご苦労さまですわ、クラウス。祈りの妨げにならぬよう、静かに参りましょうね。」


 聖堂の中は、まるで冷たい宝石箱のよう。

 ステンドグラスの天使たちは皆、目を伏せておりますの。

 神でさえ、この夜の礼儀に口を挟むことはできませんわ。


 奥の祭壇には、司祭がひとり。

 純白の法衣に金糸の刺繍、指には十字架の指輪。

 その手が祈るたび、光がちらつき、わたくしの瞳に刺さりましたの。


 「ごきげんよう、マルク司祭。今宵も熱心にお祈りでいらっしゃるのね?」

 「……誰だ。ここは俗人の来る場所ではないぞ。」

 「まぁ、俗世で救われぬ魂を救いに参りましただけでございますのに。お優しさが足りませんこと。」


 司祭の瞳が、蝋燭の光に反射して鈍く光りますの。

 その中に宿るのは恐れではなく、傲慢──まるで“神の代弁者”気取りですわね。


 「罪を犯したのは誰だと思う?」

 「それを裁くのは神だ。」

 「まぁ、違いますわ。裁くのは“美”でございますの。」


 その瞬間、香炉の煙が淡く色を変えましたの。

 聖なる香に混ぜたのは、わたくしの特製“静寂の毒”。

 マルク司祭は祈りの言葉を途中で止め、喉を押さえ、膝を折りましたの。


 「……神は……お前を許さぬ……」

 「まぁ、神がどうお思いになろうと、わたくしのマナーは乱れませんわ。」


 静かに立ち上がり、祭壇の上に白百合を一輪置きますの。

 その花言葉は──“純潔”。

 皮肉でしてよ。けれど、美しくなければ意味がございませんもの。


外に出ますと、夜の風が頬を撫でましたの。

 聖堂の鐘が、まるでため息のように鳴っておりますわ。

 クラウスがわたくしのためにランタンを掲げ、深く一礼いたしました。


 「お嬢様、今宵も見事なお勤めでございます。」

 「ふふ、あらご覧なさい。あの方、最期まで“神の裁き”を信じていらしたのよ。殊勝なことですわね。」

 「信仰とは、時に盲目でございますから。」

 「盲目な方ほど、光を好まれますのよ。眩しすぎて何も見えなくなってしまうのに。」


 石畳を踏むたび、ヒールの音が夜の静寂を飾りますの。

 月明かりがドレスの裾に触れ、銀糸のように輝きました。

 「ねえ、クラウス。世の中には二種類の祈りがございますの。」

 「と申しますと?」

 「叶わぬことを願う祈りと、叶えてしまった後に後悔する祈りですわ。」


 クラウスが微笑を堪えながら答えました。

 「お嬢様は、どちらでいらっしゃいますか?」

 「わたくし? ふふ……どちらでもございませんわ。祈りなど、紅茶と同じ。冷めぬうちに味わうものですの。」


 「なるほど。では今宵の一杯は?」

 「そうですわね……聖堂の香に合わせて、少し強めのアッサムをお願いいたしますの。血の香りがまだ喉に残っておりますもの。」


 ふたりの笑い声が夜の闇に溶けてゆきました。

 白百合が眠る聖堂の奥で、煙の残り香だけが静かに揺れております。

 罪と美とが交わる場所で、今宵もまた――わたくしたちは上品に微笑むのですわ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ