けれども人は、祈りを止めることはありませんわ
夜の聖堂は、まるで白い棺のように静まり返っておりましたの。
月光が彩色ガラスを透かし、床に散る光はまるで罪人の影。
聖歌隊の残した余韻が、まだ空気の中で震えておりますのよ。
「神の御心とは、いつもご都合のよいものでございますわね。」
わたくしはそう呟きながら、銀の香炉を指先でそっと撫でましたの。
香の煙に混じるわずかな鉄の匂い──ええ、血の香りですわ。
“清めの水”が穢されておりますのね。まったく、どなたかしら。
今宵の標的は、王都大聖堂の高位司祭、マルク・ルゼル。
表向きは敬虔で慈悲深き聖職者として知られておりますけれど、
その献金の多くが、孤児院の子らを“買い戻す”ために使われているとか。
お祈りの言葉の裏で、罪を取引なさるなんて──まぁ、なんて下品ですこと。
「お嬢様、聖堂裏の扉は無人でございます。」
「ご苦労さまですわ、クラウス。祈りの妨げにならぬよう、静かに参りましょうね。」
聖堂の中は、まるで冷たい宝石箱のよう。
ステンドグラスの天使たちは皆、目を伏せておりますの。
神でさえ、この夜の礼儀に口を挟むことはできませんわ。
奥の祭壇には、司祭がひとり。
純白の法衣に金糸の刺繍、指には十字架の指輪。
その手が祈るたび、光がちらつき、わたくしの瞳に刺さりましたの。
「ごきげんよう、マルク司祭。今宵も熱心にお祈りでいらっしゃるのね?」
「……誰だ。ここは俗人の来る場所ではないぞ。」
「まぁ、俗世で救われぬ魂を救いに参りましただけでございますのに。お優しさが足りませんこと。」
司祭の瞳が、蝋燭の光に反射して鈍く光りますの。
その中に宿るのは恐れではなく、傲慢──まるで“神の代弁者”気取りですわね。
「罪を犯したのは誰だと思う?」
「それを裁くのは神だ。」
「まぁ、違いますわ。裁くのは“美”でございますの。」
その瞬間、香炉の煙が淡く色を変えましたの。
聖なる香に混ぜたのは、わたくしの特製“静寂の毒”。
マルク司祭は祈りの言葉を途中で止め、喉を押さえ、膝を折りましたの。
「……神は……お前を許さぬ……」
「まぁ、神がどうお思いになろうと、わたくしのマナーは乱れませんわ。」
静かに立ち上がり、祭壇の上に白百合を一輪置きますの。
その花言葉は──“純潔”。
皮肉でしてよ。けれど、美しくなければ意味がございませんもの。
外に出ますと、夜の風が頬を撫でましたの。
聖堂の鐘が、まるでため息のように鳴っておりますわ。
クラウスがわたくしのためにランタンを掲げ、深く一礼いたしました。
「お嬢様、今宵も見事なお勤めでございます。」
「ふふ、あらご覧なさい。あの方、最期まで“神の裁き”を信じていらしたのよ。殊勝なことですわね。」
「信仰とは、時に盲目でございますから。」
「盲目な方ほど、光を好まれますのよ。眩しすぎて何も見えなくなってしまうのに。」
石畳を踏むたび、ヒールの音が夜の静寂を飾りますの。
月明かりがドレスの裾に触れ、銀糸のように輝きました。
「ねえ、クラウス。世の中には二種類の祈りがございますの。」
「と申しますと?」
「叶わぬことを願う祈りと、叶えてしまった後に後悔する祈りですわ。」
クラウスが微笑を堪えながら答えました。
「お嬢様は、どちらでいらっしゃいますか?」
「わたくし? ふふ……どちらでもございませんわ。祈りなど、紅茶と同じ。冷めぬうちに味わうものですの。」
「なるほど。では今宵の一杯は?」
「そうですわね……聖堂の香に合わせて、少し強めのアッサムをお願いいたしますの。血の香りがまだ喉に残っておりますもの。」
ふたりの笑い声が夜の闇に溶けてゆきました。
白百合が眠る聖堂の奥で、煙の残り香だけが静かに揺れております。
罪と美とが交わる場所で、今宵もまた――わたくしたちは上品に微笑むのですわ。




