第7話 お父さん、逃げても無駄です
癖が強いお父様が登場!
日曜日のすがすがしく穏やかな朝。
僕と澪さんは朝ご飯を済ませ、午後の書店行きまでのんびり過ごしていた。
――大切な時間。
その静けさを、けたたましいインターホン連打が打ち破る。
この押し方をする人物はひとりしかいない。
澪さんの父――柳川俊彦さんだ。
「澪ちゃーん!パパですよー!あーけーてー!」
「お父さん!開けますから大声やめて!」
平穏は、わずかにして終了した。
俊彦さんは玄関先でバームクーヘンの箱を掲げ、笑顔満開。
「いやー、滋賀に取材行っててさ。有名なやつなんだよ、早く食べたくなって。」
どう見ても悪びれる様子はない。
「嬉しいけど、せめて連絡くらいして。」
「……直人くんもすまなかったね。ほら、『幻想水魔伝』最新刊。サイン入り!」
――神降臨。
僕は柳川俊彦先生の大ファンだ。新刊発売日に買いに行くつもりだったのに、まさかの献本。
これは保存用にして、もう一冊買うべきか。
せっかく頂いたので3人でバームクーヘンとお茶を入れて談笑する。
「うん!このバームクーヘン美味しい!関西の方がお父さんの書く歴史小説の舞台が多いんだな。」
「そう!幻想水魔伝の拠点は滋賀の琵琶湖を設定にしているからな。水のある所から文明も発展するから始まりの地としてはうってつけの場所なんだ。やはりその周辺も文化が発展しているからついインスピレーションが沸いて…気が付けば琵琶湖にいたんだよね。」
す、すごい!生で好きな小説の創作秘話を聞けている。とても贅沢な気分。
「ちなみにお父さん。お母さんや編集の笠井さんにはちゃんと今日ここに行くことは伝えたか?」
あ、僕今ファンモードになってて盲点になってた。
今頃心配で連絡とか来てるんじゃないかな。
その心配は的中したのか、澪さんのスマートフォンが鳴る。
「澪ごめんね。やっぱお父さんそっちに来てるかしら?今まで笠井さんがいたんだけど、そっちに向かってるてお父さんに伝えてあげてね。」
お父さんが青ざめて慌てふためいた。
「か、笠井来るの!?お願い、どこか隠れられるとこある?クローゼットとかベッドの下とか…」
そこで本日2度目のチャイムの音が響く。
「お父様の編集の笠井です。お休み中に申し訳ございません。そちらのアホ作家すぐに連れていきますので。」
お父さんの敏腕な担当編集者の笠井さん。
涼しげな顔で清潔感のあるイケメンである。
しかし、涼しげな顔に対して目が鋭い。怒っている。
「全く連絡つながらないからまたどうせ放浪だとは思ってましたが、あんたの脳に”編集者に行先を連絡”でも組み込んだらどうですか?新婚の家にもお邪魔して迷惑でしょ。締め切りもあるんですし帰りますよ。」
いつのまに用意していたのだろうか、縄で巻かれていた。
お父さんの歴代の編集者はこのお父さんの放浪癖に悩まされて続かなくなり、笠井さんにしかもう対応できないとなっているらしい。
笠井さん、ご苦労お察しします。
「ちょっと息抜き行くくらいはいいじゃんかよー。こんな縄で巻くような暴君のいる出版社では書いてやんねーから。」
この有名小説家のファンが一番見てはいけないものを見ている気がする。あっかんべーしてる老人…。
「そうですか、それは残念です。…では、今回の滋賀までの交通費と、そちらのバームクーヘンの代金を経費としてうちで持とうと思いましたが、うちの作品でなくなるのでしたらこちらは必要ないですね。長いお付き合いをしていただきありがとうございます。」
「ご、ごめんね~!笠井様書く書く~!あ、なんか急にやる気もりもりになっちゃった!がんばろう!」
「始めからそうしてください。では、行きますよ。」
お父さんの編集は笠井さんでないと無理だな。柳川俊彦のトリセツを組み込んだサイボーグだ。
「あ、大切なことを忘れておりました。」
と、笠井さんは澪さんの方に体を向ける。
「澪さん、おめでとうございます。澪さんの『優しい世界のももたろうと鬼さん』の原作企画が通り、作画の絵本作家も決まりました。無事出版化に進められます。」
澪と直人は驚きで一瞬言葉を失うがすぐに笑顔になった。
「笠井さん!ありがとうございます!思い入れのある大切な話なので本当に嬉しいです!」
お父さんも涙ぐむ。「良かったねえ、澪ちゃん。お父さんも嬉しいよ。」
「では、また追って連絡いたします。お二人とも、お邪魔いたしました。」
「澪ちゃん、直人くん!また遊びに来るねー!」
嵐のような訪問が過ぎ去り、部屋には静けさが戻った。
駅へ向かう道。笠井の横顔は、感情を押し殺したように淡々としていた。
「ちなみに」
笠井がふいに口を開く。
「あなたが提出したエッセイ企画は降りました。」
「……ああ、それでいいよ。」
俊彦は笑って肩をすくめる。
「あれは……」
そこで、ふっと足を止めた。視線は遠く、どこか懐かしいものを見ているようだった。
――十数年前。小さな書斎の机に、俊彦は突っ伏していた。
締め切り間際の原稿用紙は白紙のまま、頭の中も空っぽだ。
「……だめだ。俺はもう、何も書けない。」
呟いた声は自分でも驚くほど弱々しかった。
小説書くことしか脳のない私が書けないなんて。
そのとき、部屋の扉がコンコンと叩かれる。
「お父さん!」と澪――まだ小学校二年生の頃だ――が駆け込んできた。
「澪、お話考えたの!聞いてくれる?」
小さな手が原稿用紙の上にぱっと置かれる。
「え、今はちょっと…」
「ももたろうのお話ですが…」
澪は、息を弾ませながら語り出した。
あれ、急に始まったみたい。
「鬼さんはね、本当は怖がらせたくなかっただけなの。ももたろうはそれを信じたんだよ。」
「……信じた?」
「うん。何もしてないって信じたの。それで村のみんなにも伝えたの。」
語りながら澪の瞳に涙がたまっていく。
「そしたらね、鬼さんが言ったんだ。”ありがとう、ももたろうさん”って。」
ぽろりと涙が頬を伝う。
「鬼さん、こらしめられなくてよかった……!」
泣きじゃくりながら俊彦に抱きつく。
その体温と声が、冷え切った胸の奥にじんわりと広がっていく。
俊彦は深く息をつき、抱き返した。
「……澪。いい話だな。」
気がつけば、頭の中に言葉があふれ出していた。
机に戻り、ペンを握る。
――こうして生まれたのが、のちに大ヒットとなる『幻想水魔伝』だった。
「澪は、とても優しいんだ。」
俊彦はしみじみと呟く。
「私を元気づけるために考えた作品だったみたいでさ、私にとっても大切な話なんだ。
だからこそ、この作品が広まるのが嬉しい。」
笠井は腕を組み、わずかに目を細める。
「——いい話ですね。そういう核を持った物語は、何年経っても残ります。」
俊彦が驚いたように顔を上げると、笠井は淡々と続けた。
「私はね、世に出す価値のない原稿を何百と落としてきました。でも、本当に輝く物語は、たとえ作者が逃げても、絶対に離さない。……だから縄も離しません。」
「そこもセットか!」
俊彦は思わず突っ込む。
笠井は、口元だけほんのわずかに笑った。
「私は“ただの鬼”じゃありません。いい小説を生かすためなら、作者を捕獲してでも書かせる編集です。」
俊彦は苦笑しながらも、どこか納得したようにうなずく。
「……じゃあ、もう逃げないから、この縄とってくれない?」
「油断できません。お手てつなぎますか?」
「それはもっとやだ!」
俊彦の抗議が響き渡った。
その頃、直人と澪は
「あの話、私が小2の頃にお父さんに聞かせてたんだ。その後、お父さん閃いたってすごい勢いで書いていたな。」
え!?澪さんが小2の頃ってことは…幻想水魔伝の1巻の発行年月日を急いで確認する。
ち、近い!この澪さんの話から生まれたのが…あの『幻想水魔伝』!?
「僕…この親子を箱推しする…尊い…」
「大げさだよ」と笑いながらも、澪は直人の手を握った。