お嬢は勉強会をする
「あー…………ぜんっぜんわからないッ!!」
机に突っ伏す麗奈。たった今終わったばかりの数学の教科書に栗色の髪が広がった。
「あはは、麗奈ちゃん数学苦手だよね」
「だぁって。公式とか数字じゃないアルファベットとか、図形とか! 意味わかんないんだもん!」
「数学って1回躓いちゃうとこんがらがっていくだけだから」
「うち、受験のためだけに詰め込んだからなぁ……」
全力で机の上で脱力する麗奈とそれを励ます芽依ちゃんを見ながら、私は苦笑を漏らす。
私は中学生の時に暇すぎて勉強ばっかりしてたからなぁ。友だちがいなかったから、やることと言ったら勉強くらいだった。まぁ習い事はいくつかやっていたけど、それで放課後全てが潰れることもなかったし。今も自宅での復習は欠かさず行っている。
「うわぁ……このままだと来週の中間テスト、やばいかもぉ……」
「わたしは英語が苦手だからちょっぴり不安かな……」
ふたりがお通夜モードに突入してる。
……これは、あれかな? 私の憧れのあれができるんじゃないかな?
だってこういう時には友だち同士で集まって、やるしかないじゃない。あれを。
「…………勉強会、する?」
◇ ◇ ◇ ◇
「で、勉強会することになったんだ?」
「そ」
「ふぅん。どこでやるの? うち?」
「そんなわけないでしょ。あんたもいるのに友だち呼べないわよ」
「え〜、別にあたしはいいよ? 来てもらっても」
「私が嫌なの。……あんたと一緒に暮らしてるって言ってないし」
場所の選定でウチが候補に上がらなかったわけじゃない。だけど私が全力で拒否した。いつかは友だちを自宅に招きたいと思っていたけど、今じゃない。というか那知がいる限りは呼べないだろうな。
「…………そっ、か。で、どこでやるの?」
一瞬だけ、那知の表情が揺らいだような気がしたけど多分気のせいだろう。ちょうど目を伏せてたからちゃんと見えてなかったし。欠伸してただけかもしれない。
「図書室。放課後に3人でやろうって話になったから。その後、ご飯食べて帰るから今日は夜ご飯いらない」
「ん、わかった。お嬢、よかったねぇ」
ふにゃっと笑ってから那知が立ち上がった。
後片付けをしている那知の背中を見つめる。今、何を思っているんだろう。
「――お嬢、そろそろ電車の時間じゃないの?」
気付けば目の前に那知の顔があった。少し眠たげに半分閉じられた瞼の下にキラキラと光る瞳が私のことをじっと見つめている。その瞳に見つめられると心の奥底まで見られているような気持ちになる。背中がくすぐったい。
「…………近い」
「へぷっ」
だからその瞳ごと顔を押しのけながらさっさと家を出た。
放課後の図書室はテスト前ということもあって普段よりも人が多かった。
麗奈と芽依ちゃんと私の3人で空いている席を探し、4人掛けのテーブルを陣取った。同じように何人かのグループが頭を突き合わせながらお互いのわからないところを教え合っている。それを見て思わず感動してしまった。
これよ。これ。こういうの、ずっとやりたかったのよね。
「じゃあ、まずは数学からやりましょうか」
「うぅ……よろしくお願いします、和華先生」
苦手意識が強すぎて勉強を始める前からげっそりしている麗奈に数学を教える。
普段から自分一人で勉強することはあっても人に何かを教える経験は極端に少なかったけど、こうやって噛み砕きながら説明するのは楽しかった。
ずっと昔、まだ小学校低学年だった時に那知と夏休みの宿題をしたのを思い出した。那知は勉強というか、じっとしてるのが苦手だったからなぁ。興味のあることにはすごく集中するのにただ問題を解くようなものはてんでダメだった。ドリルなんて1ページも解かずに投げ出すし、漢字の練習も最後まで出来ていたのは数えるほど。モノで釣りながらなんとか終わらせるのが夏の風物詩だった。
「――和華、ここってさぁ」
「あ、うん、その考え方で合ってるよ」
危ない。那知のことを考えてて、今は麗奈に教えていることを忘れそうになってた。
慌てて意識を今に戻し、麗奈と芽依ちゃんに教えながらも私自身もテスト勉強を進める。
問題集とにらめっこすること2時間。
あっという間に下校時間となり、私たちはそのままファミレスへと向かう。
なんかこういうの、いい。めちゃくちゃいい。
みんなでテスト勉強して、その後はファミレスで友だちとポテトをシェアしたり、ドリンクバーのジュースを飲みながらなんでもないような話をしたり。
こういうことをずっとしたかったのよ……!
「ばいばーい」
「また明日ね」
麗奈と芽依ちゃんと別れ、楽しい時間を反芻しながら夜道を歩く。こうやって高揚した気分で歩くのはクラス会の時以来。これからはこういうことがどんどん増えていくんだと思うと足取りも軽くなる。これからは体育祭や文化祭、あと修学旅行。イベントだって盛り沢山だ。夏休みや冬休みにお出かけするのもいいわね。
「ねぇ、おねえさーん」
夏休みだったら海? プール? 山もいいわね。グランピングとかやってみたい。
喜助兄ちゃんに頼めばバーベキューの道具も送ってもらえるかな。昔は家でみんなでやったりしてたから蔵にあるはずだし。
「ねぇってばー。そこのおねーさーん」
それからみんなで夏休みの宿題やったりとか。終わったら花火、あ、お泊りなんていいわね。
友だちと夜遅くまで話をして、雑魚寝するのなんて楽しそう。中学の修学旅行は私以外みんな他の部屋に遊びに行っちゃったりしてて、結局ひとりでさみしく寝たんだっけ……やば、思い出したら胸にクる…………。
「おい! 聞けよ!!」
「さっきからうっさいわね。何?」
足を止めて振り返れば、酔っぱらってるのか顔を赤くした男性2人がいた。見た目的には大学生くらい? この前、ボーリング場で絡んできた奴と同じくらいに見える。
「やば、めっちゃかわいいじゃん」
「だろ? よく見かけてて声かけたいって思ってたんだよねぇ」
私のことをまじまじと見つめる男2人。上から下までじっくりと見ている視線が気持ち悪い。
「…………何ですか」
「ね、俺らとちょっとお茶しない? 奢るからさっ」
「そそ、あと連絡先の交換とかどう?」
ぐいっと近づいてきた。お酒の匂いがする。思わず眉間に皺を寄せて後ろに下がる。下がった分だけまた近づいてきた。
「嫌です」
「えー、いいじゃんか。行こうよ」
「やめてください」
「ほらほら、あっちにいいお店あるんからさっ」
男の腕が伸びてきて私の腕を掴もうとしてくる。それを避け、さらに一歩下がるけどまた追ってくる。
背筋にぞわっと鳥肌が立った。嫌悪感しかない。
「やめてくださ――」
「お兄さんたち」
振り上げそうになった腕ごと体を後ろから誰かに抱きとめられた。耳元で聞こえた声にさっきまでの鳥肌とは違う、ゾクッとした感覚が体の中を駆け巡った。
ふわっと香ったあの匂いに心臓が駆け足を始めた。なのに安心している自分もいる。
「この子、あたしのなんで手出さないでくれる?」
「……は?」
「じゃ、そういうことで。帰ろう、和華」
突然の乱入にぽかんとする男たちと私のことを置いてけぼりにしたまま、那知に手を引かれてその場を後にした。
無言で住宅街を歩く。がっしりと掴まれた手は繋いだままだ。前を歩く彼女の金色が街灯に照らされながら揺れる。
あっという間にマンションまで帰ってきてエレベーターに乗り、玄関の中に入ったところで那知がこちらを向いた。
「おかえり、お嬢」
いつも通り、ふにゃりとした笑顔。そしていつも通り、『お嬢』と呼ぶ那知。
………………さっきは、『和華』って呼んだくせに。
なんかむかむかする。
普段から『お嬢』じゃなくて『和華』って呼べばいいのに。そしたら学校でも一緒にいられるのに――
「………………おひょう、なんれほっへたひっはるの?」
「うっさい」
無駄にむにむにもちもちしたほっぺたを思いっきりぐねんぐねんにこねくり回してから私は部屋に入った。
なぜか心臓はいつもより速い鼓動を刻んでいたし、顔は熱かった。




