夜の図書館
学院の図書館は、学院生たちが帰途についた後の静けさに包まれていた。夜の空気が冷たく澄み渡り、ランプのほのかな灯りが本棚の影を映し出す。その中で、アーノルド・グラントは迷うように足を運んでいた。
(俺がこんな場所に来るなんて……。)
彼は普段、図書館にはほとんど縁がなかった。実技重視の彼にとって、魔法理論は退屈であり、鍛錬の時間を削って学ぶほどの価値を感じていなかったからだ。しかし、今の彼には、どうしても確かめたいことがあった。
(あいつ……イングリット・ハーロウ……。)
思い返すのは、つい最近の実技課題での出来事。彼の魔法は防壁を突破できなかったが、彼女の冷静な分析がその失敗を覆し、見事な結果を導き出した。
彼女の持つ戦略眼と魔法理論への深い理解は、アーノルドの誇りを打ち砕いただけでなく、彼に新たな焦燥感を植え付けていた。しかし、同時に彼は気づいていた。それこそが、彼をさらに高めるきっかけになるかもしれないということを。
窓際の席で、本を開くイングリットの姿が目に入った。黒縁眼鏡の奥で冷静に輝く瞳が、ページを追うごとに動いている。彼女の様子は、まるで本の中にある情報をすべて吸収しているかのようだった。
アーノルドは、一瞬足を止めた。彼女に話しかけるべきか、それともそのまま引き返すべきか。しかし、心の中のもう一人の自分が彼を促した。
(このまま引き返したら、俺は何も変わらない。)
決意を固め、彼はゆっくりと彼女の席へ歩み寄った。
「ハーロウ。」
イングリットは顔を上げ、少し驚いたように眉をひそめたが、すぐに穏やかな表情を浮かべた。
「グラントさん、こんな時間に図書館なんて珍しいですね。」
その言葉に、アーノルドは少し言い淀んだが、覚悟を決めて切り出した。
「前は……お前のことを見下していた。だが、それが間違いだったと気づいた。」
イングリットの瞳がわずかに揺れた。その反応を見て、アーノルドはさらに言葉を続けた。
「お前が俺を打ち負かしたことを、悔しいが認める。だが、次は絶対に負けない。」
彼の真剣な表情と言葉に、イングリットは一瞬だけ黙った。そして、小さく微笑みを浮かべる。
「そうですか。それは楽しみですね。」
彼女の答えに、アーノルドの肩の力がふっと抜けた。イングリットが敵意を示すどころか、ただ冷静に受け入れていることが、彼に不思議な安堵感をもたらした。
(俺はもっと強くなる。そして、いつかイングリットを超える。)
図書館を後にしたアーノルドの足取りは軽かった。これまでの焦りや苛立ちは、次第に消えつつあった。目指すべきものがはっきりと見えたことで、心の中に静かな熱が宿ったのだ。
訓練場に戻ったアーノルドは、再び杖を握りしめた。これまでとは違う感覚が彼を包む。力任せに魔法を放つのではなく、魔力の流れを感じ取り、制御しようと意識するようになった。
夜空の下、彼の魔法は次第に力強さと安定感を増していく。それは、イングリットから得た教訓が確実に形となりつつあることを示していた。
一方、図書館に残ったイングリットは、再び開いた本のページに目を戻していた。しかし、先ほどのアーノルドの言葉が心に残り、ページをめくる手が一瞬止まる。
「負けない、ですか……。」
彼女は小さく呟くと、微かに笑みを浮かべた。彼の真剣な瞳とその言葉が、彼女に不思議な期待感を抱かせていた。
(彼がどう成長するのか……少し楽しみですね。)
窓の外には、満天の星空が広がっていた。それはまるで、新たな挑戦の幕開けを予感させるようだった。イングリットは静かにページをめくりながら、遠くに感じる未来を見据えていた。