アーノルドの失態
アーノルド・グラントは、冷たい空気に包まれた学院の廊下を一人で歩いていた。いつもなら仲間たちの中心にいて、称賛の言葉に囲まれていた彼だが、最近はその光景が過去のものになりつつあることを痛感していた。
廊下の隅から漏れ聞こえる声が彼の足を止める。
「アーノルドもただの人間だったってことか。」
「前はあんなに威張ってたのにね。今は誰も彼を恐れてない。」
声の主たちはアーノルドに気づいていないようだったが、彼の胸に突き刺さる言葉を投げかけてくる。これまで彼を称賛していた人々が、今では彼を笑いものにしている。それが、イングリット・ハーロウに敗北したことで生まれた現実だった。
「イングリットがトップに立つなんて……意外だけど納得だよね。」
その名前を聞いた瞬間、アーノルドの胸に焼けつくような悔しさがこみ上げる。イングリットの名は、彼にとって屈辱そのものだった。
部屋に戻ったアーノルドは、机に置かれた魔法理論書を睨みつけるようにして開いた。ノートにはすでに無数の文字が書き込まれているが、それを見ても焦りが収まることはなかった。
「俺の努力が足りないだけだ……。」
そう呟いて、彼は杖を手に取り、魔法陣の練習を始めた。だが、魔力の循環が乱れて、魔法陣はすぐに崩壊してしまう。
「くそっ!」
アーノルドは叫んで杖を投げ捨てた。いつもなら完璧にできる魔法すら、最近はまともに使いこなせない。焦燥と苛立ちが彼の心を支配していた。
翌日、魔法理論の授業中、教師が討論のテーマを発表する。
「今回のテーマは『魔術師が戦場で最も優先すべき行動』だ。」
教師の言葉に、教室内がざわつく。アーノルドは、ここで挽回する機会を得たとばかりに手を挙げた。
「火力だ。戦場では速やかに敵を制圧することが最も重要だ。」
彼の発言に、一部の生徒が頷くが、教師は少し考え込んだ表情を見せた。
その沈黙を破ったのは、イングリットだった。彼女は黒縁眼鏡を軽く押し上げ、穏やかな声で話し始める。
「火力は確かに重要です。しかし、魔術師は防御や支援の役割を果たすことも求められます。状況に応じて柔軟に対応することが、最も優れた行動だと考えます。」
彼女の言葉に、教室内は再びざわついた。的確で理論的な発言に、多くの生徒が感心している。
「素晴らしい意見だ、イングリット。」
教師が微笑みながらそう言うと、アーノルドは机を握りしめた。
「柔軟な対応なんて綺麗事だ!」
つい声が出てしまったアーノルドに、教室の視線が集まる。彼は続ける。
「実戦では、そんな悠長なことを言っている暇はない!」
しかし、イングリットは微笑を浮かべたまま静かに返した。
「そうですね。けれど、理論がなければ実戦での応用は難しいのではないでしょうか。」
その場の空気が一変した。誰もが彼女の冷静さに圧倒され、アーノルドの発言は力を失った。教師もイングリットの意見をさらに称賛し、議論は終了した。
その夜、アーノルドは一人で練習場に立っていた。杖を振る彼の姿は、焦りと苛立ちに満ちている。
「俺は負けるわけにはいかない……!」
彼は何度も魔法を試みるが、失敗を繰り返すだけだった。
その時、背後から声がした。
「グラントさん、少し冷静になってみてはどうですか?」
振り返ると、そこにはイングリットが立っていた。彼女は落ち着いた声で続ける。
「魔力が乱れている時に無理をすると、逆効果です。」
「君に俺の何が分かる!」
アーノルドは声を荒らげたが、イングリットは動じることなく答える。
「私はただ、あなたが追い詰められているように見えるだけです。」
その言葉に、アーノルドは返す言葉を失った。彼女の冷静さと優しさが、彼の心に重くのしかかる。
アーノルドはその夜、自室でじっと天井を見つめていた。
(俺は……本当に負けたのか?)
彼はイングリットへの敵意を捨てきれないまま、初めて彼女の力を正面から認め始めた。それは、彼が成長を始めるための小さな一歩だった。