地味だけど
翌週の魔法理論の授業も、いつも通りに始まった。教師が講義を進める中、難解な質問が出された。黒板には精密な魔法陣が描かれており、教師はそれを指差して言った。
「さて、この魔法陣を用いた際、発動に失敗する可能性があるとすれば、それはどのような状況か。そして、その対処法を述べよ。」
教室内に静寂が広がる。この問いは簡単ではない。魔法陣の複雑な構造やエネルギーの流れを理解し、さらにそれを応用して具体的な対策を提案しなければならないからだ。
真っ先に手を挙げたのはアーノルドだった。彼はいつものように自信に満ちた表情で立ち上がると、黒板を見つめて口を開いた。
「魔法陣の外周に描かれた符号に問題があります。もし外周の一部がエネルギーを吸収しすぎれば、内側の流れが不均衡になり、魔法が暴走する危険があります。その対処法としては、外周にエネルギー抑制符を追加することで、均衡を保つことができます。」
教室内から小さな「なるほど」という声が上がった。アーノルドは得意げに頷き、席に戻ろうとする。だが、教師は彼を制止した。
「グラント君、良い指摘だが、それだけでは問題を完全に解決できない。外周だけではなく、別の要因が絡んでいる場合もある。誰か他に意見はあるか?」
その時、静かに手が挙がった。イングリットだった。
「はい、イングリット。補足があるようだな。」
教師がそう言うと、イングリットはゆっくりと立ち上がり、黒板を見つめた。
「グラントさんの指摘は正しいですが、それに加えて、内側の設計にも問題があると考えられます。」
彼女は黒板の一部を指し示しながら続けた。
「内側の魔力を循環させるための交差点が、負荷をかけすぎています。この状態では、外周の調整だけでは不十分です。代わりに、交差点のエネルギー分散を補助する追加符号を施すべきです。これにより、全体の流れが均衡を保てるようになります。」
教室内がざわめいた。教師は感心したように頷き、黒板に近づくとイングリットが示した部分を指でなぞった。
「その通りだ。よく気づいたな、イングリット。外周の調整だけでは不十分で、内側の流れを最適化する必要がある。この補足があれば、魔法陣の失敗をほぼ完全に防げるだろう。」
その瞬間、イングリットに向けられる周囲の視線が変わったのを、アーノルドは感じ取った。普段は地味な彼女が、教師からの称賛を受け、さらに教室内のざわめきを引き起こしていたのだ。
アーノルドは自分の席に戻りながら、内心で動揺していた。
(偶然だ。ただの偶然だ。あの子が俺より正確な答えを出せたなんて、何かの間違いだろう。)
だが、彼の胸の中には小さな苛立ちが渦巻いていた。教室内のざわめきも、教師の称賛も、すべてが自分の努力を踏みにじるように感じられた。
(俺の指摘だって正しかった。それなのに、どうして教師はあいつの意見を強調するんだ?)
周囲の視線も気に障った。何人かの生徒が小声でイングリットの発言を褒めているのが耳に入る。普段なら自分に向けられるはずの称賛が、今日に限っては別の人物に渡ったのだ。それが耐えられなかった。
一方、イングリットは静かにノートにメモを取っていた。教師の補足を記録する手は、全く動揺していない。彼女は自分に向けられる周囲の視線を感じ取っていたが、気に留める様子はない。
(思った通り。彼は外周だけを見て、本質を見落としたわね。優秀だけど、視野が狭い。これで、彼の欠点が周囲にも少しずつ見えてくる。)
イングリットは満足そうに微笑むと、教師の次の講義に意識を戻した。彼女にとって、今回の出来事はあくまで「小さな一歩」に過ぎない。アーノルドを追い詰める計画は、まだ始まったばかりだった。
授業が終わると、アーノルドは何人かの友人に囲まれながら教室を出ていった。だが、その表情にはどこか陰りがあった。友人たちは気づかないふりをしていたが、彼が苛立っているのは明白だった。
「今日の授業、難しかったよな。」
友人の一人が話題を変えるように言った。
「まあな。でも、あのイングリットって子、なかなか鋭いよな。あんな地味な子が――」
その言葉に、アーノルドはピクリと反応した。
「偶然だよ。」
彼は短く言い放った。
「彼女の補足が的確だったのは、たまたまだ。俺の指摘も間違いじゃなかったし、全体を見れば俺の方が――」
そこまで言って、彼は言葉を飲み込んだ。焦りが言葉に表れるのを自覚していたからだ。
(俺が何を焦る必要がある? 彼女なんて、ただの地味な下級貴族だ。俺がトップである事実は変わらない。)
彼は自分をそう納得させると、友人たちの前を歩き出した。だが、その足取りにはどこかぎこちなさが残っていた。