プロローグ
「痛っ…」
黒石香澄は絵筆を取り落として、額に掌を押し付けた。
座っていた丸い木の椅子が、ぎしりときしむ。
前にかがめた体は、小柄で細身。毛先を揃えたボブショートの髪が、ぱらりと顔にかかった。髪の奥に覗く、整った小さな口元は、苦痛に歪んでいた。
マンションの一室を改装した小さなアトリエに彼女はいた。南向きの窓は採光が良い。部屋の中央に立てたイーゼルには、大きなカンバスが載り、テーブルを囲んで談笑する家族の姿が油彩で描かれている。
西向きの壁にも窓があり、二方向から陽が射すおかげで、部屋の雰囲気は明るかった。東向きの壁際には、小さな机が一つ据えられていた。
小さな体を折り曲げて、彼女はしばらく頭の奥で疼き出した痛みに耐えていた。しばらくその姿勢で固まった後、不意に側のテーブルに手を伸ばした。その作業用の小さなテーブルの上には、パレット、溶き油の入った皿、乱雑に絵筆の差し込まれた筆立て、絵の具のチューブなどが載っていた。テーブルの天板の下には物入れがあり、そこには、粗目の画用紙が束になって積まれていた。
彼女の手は、その束の一番上にある紙を引っ掴むように取ると、テーブルの脚に立てかけてあったクリップボードに挟んで膝の上に置いた。そして、鉛筆を手に取り、殴り書きのような勢いでデッサンを始めた。慣れた手つきで描かれる曲線の連なりが、瞬く間にある胸像を形作った。
それは、朗らかに笑う、少年の絵だった。麦藁帽をかぶり、健康そうに日焼けしている。
それを見つめる内に、香澄の頭の奥で痛みが弱まりだした。彼女の表情は少し和らぎ、大儀そうに立ち上がると、その絵を持って壁際の小さな机に向かった。奇妙なことに、それは小学生の使う様な子供向けの学習机だった。チェック柄の布が背もたれに張られた小さな椅子が、机の前に置いてある。彼女はその椅子を引いて、座った。香澄は大人にしては小柄ではあったが、子供用の椅子に座るとさすがに窮屈そうだった。
香澄は、少年の絵に色を塗り始めた。水彩絵の具は、あらかじめ必要な色が机の傍らに並べられていた。他には、随分使い込んだ様子の、古いプラスティック製の水彩用パレット、それに水差し。どれも、小学生の親が、入学祝いに買い与えるお絵かきセットのようだった。
パレットの上で固まりかけた絵の具の塊に、水を湿らせた筆先を撫でつけると、絵の具が溶けて筆先に付く。その筆先を画布に走らせる。少年の絵に命が吹き込まれていく。帽子は黄金色に、肌は日焼けした健康的な色合いに染められた。少年の眼もとに、帽子のひさしが濃い影を落としていた。きらりと光る彼の眼が、影の奥から澄子に笑いかけていた。
「いつもありがと」
彼女は無意識のうちに、絵に向かって語りかけていた。
頭痛はすっかり止んでいた。
彼女はしばらくその絵を両手で持って見つめていた。そして、ため息をついて机の上に投げ出すと、部屋の中央に戻り、カンバスの前の丸椅子に座った。仕上げねばならない油彩画があるのだ。
彼女が後にした学習机には、沢山の画用紙が、乱雑に折り重なっていた。それらの紙には、角度やポーズは異なっていても、どれも同じ少年が描かれているのだった。