3-2.
自殺ではなく、真相は他殺。なるほど、自らの死に納得がいかないと主張するこの青年の心情は察するに余りある。
『〝鏡〟を見たのか』
私の問いかけに、宅間は『あぁ』と肯定の返事を寄越した。
『扉の横にあったあれだろ。見たよ。信じられなかった。自殺なんてした覚えはないのに、警察は俺の死を自殺だと決めつけてた』
怒りと言うより、恨みの感情のほうが強そうだ。自らの死そのものに納得がいかず、なおかつ現世での対応にも不満がある。これまでにも幾度となくこうした事例を見てきた私に言わせれば、彼は〝鏡〟を覗くべくして覗き、冥界の扉をくぐるべくしてくぐった。そう理解する以外にないだろう。
冥界の扉の横には、現世の様子を覗き見ることができる大きな鏡が備えられている。なんという作品だったか、人の世には魔女が「鏡よ、鏡」と問いかけ、魔法の鏡に自分を世界一の美女だと答えさせる物語があったかと思う。ちょうどそれと似たような形をした黒縁の鏡を想像してもらいたい。冥界にはそれがある。
もちろんその鏡が「あなたが一番美しい」と魔女を映して答えることはなく、冥界の鏡が映し出すのは、覗いた者が見たいと望む現世の様子である。生き別れた妻子は息災にしているか。やり残した仕事は誰が引き継いでくれたのか。あるいは今回のように、自らの死に疑問を持つ者が現世の状況を把握しようとするケースも見受けられる。そうした場合はたいてい悪い結果しか得られず、扉を開いてしまうことになり、私の出番がやってくる。
冥界からの脱走は、どのような理由があろうと決して許されてはならない。私の役目は、扉を開き、現世に舞い戻った者を食い殺すこと。
私は手にしていた白い札を、すやすやと眠る我が主の枕もとにそっと置く。今の宅間の話を聞いた彼がなにを言い出すかと考えただけで頭の痛い話ではあるが、ひとまず現時点で私にできることをやっておく。
『具体的に、おまえは現世に戻ってなにをしたかった? おまえを死に追いやった遊川という人物を警察に逮捕させるつもりだったのか』
『当然だろ。殺人を犯したのに罰を受けないなんて、そんなの、どうやって納得しろって言うんだよ』
私は白い札に冷ややかな一瞥をくれてやる。
この宅間という青年はしばしば「納得」という言葉を使うが、こうして冥界を脱し、現世に舞い戻ったところで心から納得のいく回答が得られるとは限らない。むしろその逆で、知らないほうが幸せだった真実を掴んだ前例もあるくらいだ。
いずれにせよ、現世で起きた事象を過去に戻ってひっくり返すことはできない。また、未来を大きく変えることもほとんどの場合は叶わない。であれば、おとなしく冥界で生まれ変わりの時を待つのが最善の選択だと私などは思うわけだが、欲や感情に日々揺さぶられながら生きる人間という生き物は、どうやらそうやってうまく割り切ることのできないものを往々にしてかかえてしまうようである。
ため息をつきたいところをどうにかこらえ、私は白い札に問いかける。
『だが、警察の捜査で自殺という結論が出ているのだろう。どうやって現状を覆す?』
『どうにかするさ。まずは俺の存在に気づいてもらって……ほら、あれだ。ポルターガイストだっけ』
なるほど。確かに霊体となった魂は現世における物理的な作用を受けるか否か、自らの意思で選択することができる。言い換えれば、彼がなにか物を掴んで警察官に向かって投げつけることは可能であり、そうした霊的な現象をポルターガイストと称したりする。
なぜ彼ら霊体がこうした少々過激な行動に出るかというと、霊体が選択できない物理現象として、声を発すること、自らの姿を現世の者に見せることが挙げられるからである。つまるところ、呼びかけに応じてもらえない代わりに物を投げ、自らの存在をアピールするというわけだ。
とはいえ、もちろんこうしたことは冥界のルールに当てはめれば御法度である。だからこそ私がいる、と言えばわかってもらえるだろうか。
要するに、冥界に召された魂は現世に生きる者に対し影響を与えてはならないのだ。だから私は冥界からの脱走者を捕獲し、その魂を食らう。霊魂が現世で暴れることのないように。現世の秩序を乱すことのないように。
『頼むよ、ケルベロス』
私が呆れて物も言えなくなったと思ったのか、宅間は私の情に訴えることにしたらしい。
『最悪、遊川は逮捕されなくてもいい。だけど、俺が自殺したって周りに思われることには耐えられないんだ。俺の死が殺人だったってことだけでも証明したい。だから、頼む。ここから出してくれ』
私は人間ではないが、人の気持ちが百パーセント理解できないわけではない。彼の無念のほどは十分に察せられる。
かといって、彼の想いに答えてやる義理はない。それどころか、私の使命は一刻も早く彼を食らい尽くすことである。
私はいよいよため息をつき、宅間に言う。
『冥界の扉に書かれていたはずだ。番人の許可なく扉を開いた者は、私に食われることになると』
『わかってる。覚悟ならできてるよ。ほんの少しの時間だけでいいんだ。俺の死が殺人だと気づいてもらえるだけでいい。それだけの時間をくれないか』
『私は番人ではなく番犬だ。そのような権限は持ち合わせていない』
『そんな』
『だが』
私は目を落としていた白い札から、我が主の健やかな寝顔へと視線を移す。
『おまえの処遇を決めるのは、そこに眠る我が主……彼が今の冥界の番人だ。現時点で我が主は、私におまえを食うなという命令を出している』
『それって……?』
自分でも気づかぬうちに、私は微笑を浮かべて言った。
『我が主には、おまえの心に寄り添うつもりがあるということだ。お優しい心をお持ちの我が主によくよく感謝するといい』
宅間の手前、我が主を「優しい」と表現したが、つまるところ我が主は超がつくほどのお人好しなのである。困っている人を放っておけず、その人のために我が身を削る。それが今の私の主――双木涼平というお方なのだ。
我が主の目もとに一瞬の力みが走り、まぶたがゆっくりと細く開かれる。私の顔が目の前にあると知るや、彼は寝起きだと一目でわかるぼやけた表情で私に笑いかけてきた。
「おはよ」
まるで自宅で朝を迎えたかのような挨拶に気が抜けそうになる。お人好しの性格といい、美菜帆とはさまざまな点において血縁者とは思えないほどの違いを感じる。
「よく眠れたか」
「うん。スッキリ」
体調が悪そうには見えない。我が主は腹のあたりまで掛かっている布団をはね除けて起き上がり、足をベッドの外へと下ろす。そこでようやく枕もとに白い札が置かれていることに気がついたようだ。
札を手に取り、私に言う。
「なにか話したの、宅間さんと」
「少しな」
「宅間さんはなんて?」
私はやや答えにつまる。我が主の瞳が強い好奇心で彩られていくのがわかり、彼が今回も他人の人生に――すでに終わった人生であるが――首を突っ込もうとしていることは明白だった。
だが、答えないわけにはいかない。私は彼に仕える忠実な犬。主の望みに答える義務がある。
後ろ向きな気持ちが顔に出ないよう気を配りながら私は言った。
「自殺などした覚えはないのに、警察が自らの死を自殺と断定したことが気に入らないらしい」
「へぇ」
我が主はいよいよおもしろそうに口角を上げた。
「それは脱走したくもなるね」
この一言で、今日の放課後は宅間の巻き込まれた事件の調査にかかりきりになることが確定した。
我が主はどうやら、宅間の死が殺人であったことを世に知らしめるつもりらしい。