3-1.
高校の保健室へ戻ったのは、我が主の魂が身体を抜け出してから九分三十秒後のことだった。
我が主は私に「じゃ、あとよろしく」と言い残し、半透明のからだでベッドに横たわる本体の胸もとへと飛び込んでいく。魂が抜け、仮死状態となっていた我が主の身体はたちまち生気を取り戻し、健やかな寝息を立て始めた。ここまで見届けるとようやく私は安堵する。十分間というタイムリミットは、長いようで案外短い。
胸をなで下ろし、私も男子高校生の姿に化け直す。我が主はこののち、魂がからだを抜け出していた時間と同じだけ眠る。これは彼に特有の現象であり、私がかつて仕えた番人にこうして幽体離脱後に眠って身体を回復させた者はなかった。
やはり、どこか不都合があるのだろう。本来ならば番人のお役目は男児である我が主には務まらないことなのだ。
途中抜けした三時間目が終了するまであと五分ある。眠る我が主が授業に戻れることはないが、私は戻らねばなるまい。
我が主の足もとにたたまれている掛け布団を腹のあたりまで掛けてやる。閉まるカーテンの隙間を抜け出すようにベッドを離れた私を、養護教諭である青柳先生がちらりと見た。
「おかえりなさい」
事情をわかった上でそう言った彼女に、私は足を止め、カーテンの向こうを振り返りながら言う。
「十分ほど眠るでしょう。毎度ながら、ベッドを一つ埋めてしまって申し訳ない」
「おかまいなく。ここはそういう場所だから」
そういう場所。訳あって他の生徒とは足並みを揃えられない者の集う場所、とでも解釈すればいいだろうか。
「先生」
ならば、と私は青柳先生に一つ問う。
「涼平が起きるまで、付き添ってもかまいませんか」
彼女は迷わず「どうぞ」と答えてくれた。体育の担当教諭ではない彼女だが、あと五分、私が授業をサボることを許可してくれたようなものだ。
彼女に丁寧に頭を下げ、私は再びカーテンをくぐり、我が主の眠るベッドの脇に佇んだ。
穏やかな寝息が聞こえてくる。青白くなっていた頬にもすっかり血の気が戻り、目覚めた時には問題なく健康なからだを取り戻していそうだ。
無意識のうちに、右手が我が主の頭に伸びる。長く伸びた前髪をかき上げるようにそっと触れると、我が主の表情がわずかに歪んだ。
その顔を見てドキリとする。彼とは別の人間の面影が重なり、私は右手を引っ込めた。
「ますます美菜帆に似てきたな」
思わずつぶやいてしまうほどに、我が主の美しい寝顔は美菜帆にそっくりだった。血縁こそあれ、彼と美菜帆の関係は甥と叔母だ。それでもこれほど容姿が似てしまうのは、やはり彼が美菜帆の力を強引に継承したせいなのだろうか。
『おい、ケルベロス』
ほの暗い過去にわずかな胸の痛みを覚えたかと思えば、布団の中から我が名を呼ぶ声が聞こえてきた。
私は失礼を承知で、我が主の眠るベッドに手を入れ、我が主の身につけている体操服のズボンのポケットをまさぐる。そこには先ほど我が主が死者の魂を封じ込めた白い札が入れられており、引き抜いたそれには間違いなく『宅間康允』と冥界からの脱走者であるサラリーマン風の青年の名が刻まれていた。
『聞こえてるんだろ?』
白い札が私に向かってしゃべりかけてくる。声に出して返事をすれば周囲に怪しまれてしまうため、こういう時にはいつも心の中だけで声を出した。
『あぁ、聞こえている』
『だったらここから出してくれ。俺には行かなきゃならないところがあるんだ』
急いたような口調から、現世に対する強い未練が感じられた。
通常、冥界に召されれば現世での記憶のほとんどが薄れてしまうものであるが、時折この青年のように、現世に対する強い未練を引きずり冥界での浄化の時をうまく過ごせない者が現れる。そうした者はたいてい現世に戻ることを望み、現世につながる冥界の扉を自分勝手に開いてしまう。
彼らの行く末は一つ。
冥界における罪人となって私に捕まり、食われる。魂の楽園たる冥界に戻れる未来が彼らに訪れることはない。
つまりこの青年も、私に食われる運命は避けられないわけであるが、それはさておき、果たしてこの青年のかかえる未練とはなんなのか。
そこまで考えたところで、先ほど聞いた青年の言葉を思い出す。――こんな死に方、納得できない。
『なにが望みだ、宅間康允』
私は心の声で問いかける。
『どのような死に方をしたと言うのだ、おまえは』
白い札からの返答には一拍あった。絞り出されたような声には怒りの色がにじむ。
『……自殺じゃない』
『なに?』
『俺は自殺なんてしてない。殺されたんだ、遊川に――遊川耕己っていう同僚に』