2.
私はカーテンをすり抜け、入ってきた保健室のガラス扉もすり抜ける。この姿になった私たちは、現世に働く物理的な力を受けるか否か、自らの意思で選択することができる。
私は我が主を背中に乗せ、真昼の東京を疾走する。校舎の壁面を垂直に駆け上がり、建物から建物へと飛び移りながら進んでいく。この姿になった私たちのことは人間の目には映らず、また声も聞こえない。意思疎通を図れるのは私たち二人と、冥界からの脱走者たる死者の魂のみである。
私の鼻を歪ませる不快な臭気は西へ西へと動いている。視界にとらえるまで今しばらくかかりそうだが、死者の魂が発するそのにおいだけを頼りに、私は全速力で脱走者の影を追った。
が、
「待って、イチ」
背中で我が主が情けない声を上げた。
「もうちょっとゆっくり走って。酔う」
なにを腑抜けたことを、とは決して言えない立場の私だ。足を止め、我が主を振り返る。
「では、ご自身で走られるか」
「バカなこと言わないで。僕みたいな運動音痴がきみと並んで走れると思う?」
思わない上に、それが叶わないこともわかっている。だいたい、私とともに脱走者を追おうとするのは彼くらいなもので、かつて私が仕えた主は皆、私に脱走者の捕獲を命じるだけでご自身はご自身の生活を続けられていた。そもそも、私が人の姿に化けて日常的に主と行動をともにすることもまた前例のない事態であるし、とかく現在の主である双木涼平と私の関係は異例づくしで、情けないかな、いまだに彼の生み出す独特のペースに振り回されっぱなしの私である。
私はため息をかみ殺し、我が主に言う。
「ならば、しばし耐えられよ」
「だよね。わかってる」
「時間がない。行くぞ」
ひしと私の首に抱きつく我が主を背に乗せた私は再び空と大地の間にひしめく人工的な凹凸を蹴り、西へと進む。我が主に与えられた時間は残りわずか八分弱。肉体から離脱した魂が十分以内に戻らなかった場合、我が主の魂は冥界へといざなわれ、肉体は朽ちる。今で言うならば、彼は高校の保健室のベッドで横たわったまま最期を迎えることになる。
臭気をたどり、五分ほど走り続ける。そうしてようやく、脱走者の背中が遠くに見えた。
「いた」
相模原あたりまで来ただろうか。高層ビルの屹立する地域を抜け、次第に緑が増えてきたのどかな街並みの中を、濃紺のスーツに身を包んだ男が民家から民家へと不格好に飛び移りながら駆けていく。目指す先はまだ見えてないようで、男の足取りには迷いがない。
だが、私は私の役目を果たす。
私に与えられた使命は、冥界から脱した者をとらえ、その魂を食らうこと。
「まだ食べないで、イチ」
私の心を読んだように、我が主はスピードを上げた私に言う。
「あの人の話を聞いてあげたい。どういう理由で冥界を抜け出してきたのか。彼がこの世に残した未練がなんなのか」
わかっている。かつて私が仕えた歴代の番人たちの中で、彼のように脱走者に情けをかけた者はなかったが、主の方針に従う他に私に与えられる肢はない。
ならば、私の為すべきは一つ。脱走者を生け捕りにし、我が主の前に差し出すこと。
我が主がしがみついている赤い瞳の頭に意識を向け、私は大きく開けた口から炎を吐いた。
空間を切り裂くように突き進む赤い炎は、一つ隣の民家の屋根を行く脱走者の青年を取り囲むように渦を巻く。炎の中に閉じ込められた青年は「うわっ」と驚きの声を上げ、その場で足を止めることを余儀なくされた。
実のところ、冥界から脱した彼は我々と同様に霊体であるから、意思一つで炎の渦など簡単に抜け出せる。だが実際は現世での記憶が染みついているため炎を見るなり恐怖を覚え、動けなくなる。相手を足止めするにはこれくらいの手を打つだけでいい。楽なものだ。
炎の渦が消え、青年がこちらを振り返る。巫女装束の我が主(男)と三つ頭の大きな黒い犬(私)の存在に彼は大いに驚いた様子で、足が竦んでしまっている。
「涼平」
「よし」
私の合図で、我が主は私の背中から下りる。青い屋根の棟に片足をかけて立った彼は、白衣の隙間から一枚の白い短冊状の札を取り出す。今はまだ真っ新なこの札の中に、我が主の力をもって冥界からの脱走者の魂を封じることができるのだ。
「えいっ」
人差し指と中指の間に挟まる白いそれを、彼は手裏剣を投げるような動作で脱走者に向けて放つ。札は我が主の腕の動きに従うまま脱走者の立つほうへと向かい、風を切って進む。
が、
「……あれ?」
札は脱走者の頭の左を通り過ぎ、すぅっと空の彼方へ消えていく。ドッジボールで、狙い定めたはずの相手を当て損ねたような光景に、我が主は本気の顔で首を捻り、私は今度こそため息をこらえきれなかった。
「おっかしいなぁ。ちゃんとまっすぐ投げたのに」
どうしてこうなる。これまで我が主が一発で札を当てられたことは一度たりともなく、今日でまた連敗記録を一つ伸ばした。不名誉極まりないことだが、口には出さない。
「……なんなんだよ」
脱走者はそう口走り、我々に背を向けて逃げ出した。私は我が主を置き去りにし、脱走者を追い抜くと、その正面に回り込んで相手の足を止めさせた。
脱走者は顔色を変え、私を見る。
「ケルベロス……これが、本物の」
「偽物がいるという話は聞かないがな」
律儀に答えるのもバカらしいと思いつつ、私は彼との距離をまた一歩詰めながら、私に与えられた役目を語る。
「私は冥界の扉を守りし番犬。我が主の許可なく冥界から脱した者は、容赦なく食い殺す」
冥界とは、死者の魂が現世で作った穢れを落とし、新たな魂へと生まれ変わる時を待つ場所だ。おとなしくしていればただひたすらに心地よい時間を過ごすことができる、言うなれば楽園、桃源郷である。
だが時に、現世に対し強い未練を残す者が冥界からの脱走を試みることがある。現世に戻ったところでなにができるわけでもないが、行動せずにはいられない熱い衝動のようなものが抑えきれないのだろう。
今回の脱走者がなにをもって現世に舞い戻ろうと思ったのかはわからない。しかし、現世にルールがあるように、冥界には冥界のルールがある。
冥界において、脱走は御法度。一度でも冥界を抜け出した者は、激しい痛みを伴いながら私に貪り食われ、心の休まる穏やかな時間も、生まれ変わりの機会も失う。それが私たち冥界に暮らす者の守るべき掟である。
「待ってくれ!」
脱走者であるスーツ姿の青年が、私に対し必死な様子で訴える。
「俺の話を聞いてほしい! こんな死に方、納得できないんだ!」
「案ずるな」
私は脱走者の青年に、我が主の意思を伝える。
「今すぐおまえを食うことはしない。おまえにはしばしの時を与える。我が主のお優しい御心に感謝することだ」
「しばしの時……?」
「そういうこと」
私にはその姿が見えていたが、青年の背後に我が主が迫っていた。驚いて我が主を振り返った青年の額に、我が主は先ほど投げて貼れなかった白い札を、ぴと、と優しく貼りつけた。
我が主の指先が離れ、一瞬の風に吹かれて揺れた札は瞬時にまばゆい光を放ち始め、青年のからだがみるみるうちに札の中へと吸い込まれていく。やがてそこには札だけが残り、我が主の手のひらの上に収まったそれには脱走者である青年の名――宅間康允と墨の文字で刻まれた。
「話はあとでゆっくり聞きますから、しばらくおとなしくしていてくださいね、宅間さん」
『なんだ! どうなっているんだ! 出せ、出してくれ!』
札がキャンキャン吠えている。我が主はその声にこたえることなく白衣の胸にそれを納めた。
「ご苦労様、イチ。帰ろう、学校に」
我が主は私の頭を撫でてくれる。しかし私はいつものことだが、妙にそわそわしてしまう。
私の視線が胸もとに吸い寄せられていることに気づいた我が主は、クスクスと声を立てて笑った。
「腹ペコなのかい?」
「言うまでもない。私にとっては、脱走者の魂を食らう時こそ至高」
基本的に、私は空腹を覚えない。だが、冥界を脱した死者の魂を貪り食う時間を心底幸福だと感じる。これこそ我が本能、私が冥界の番犬に生まれたことの証とでも言えようか。死者にとっては脱走などしないに越したことはないが、私としては少々複雑な思いもある。脱走者がいなければ、私の心は満たされない。
そうしたわけで私は今、我が胸に宿る欲望と大いに闘っているところである。我が主が札に閉じ込めた脱走者をすぐにでも食らってしまいたい気持ちを、我が主からの命に背くなという番犬としての誇りがどうにか押しとどめている状態だ。
「なるべく急いでくれ、涼平」
失礼に当たらないギリギリの線を狙い、私は我が主に懇願する。
「欲に負ければ、私は番犬ではいられなくなる」
我が主は、恐ろしいほどの真顔で私に言う。
「時々きみは、いかにも人間らしいことを言うよね」
「私は人ではない」
「でも、欲望は人間の行動原理だよ」
そのとおりである。黙るしかない。
欲に目が眩みかけている私に、我が主はなぜだか愛おしそうに微笑みかける。右手がゆっくりと持ち上げられ、私に制止を求めるように手のひらを私の方へと向け、言った。
「待て」
――時に我が主は、私をペットのように扱う。
否定はできない。今の私は、餌を前にして飼い主に躾けられている犬そのものなのだから。