1-2.
「行けるかい、イチ?」
我が主の顔から朗らかな笑みが消え、冷え冷えとした命が下る。一も二もなく、私は静かにまぶたを下ろし、全神経を脱走者へと集中させる。
快晴の空の下、わずかな空間の歪みをとらえる。この世のものではなくなったその魂が刻んだ軌跡は、人間の目には見えずとも、我が眼にははっきりと映し出される。
私は目を開け、我が主に告げる。
「二十代、サラリーマンと思われるスーツ姿の青年。西へ向かっているようだ」
「名古屋方面か。なるべく近くで捕まるといいけど」
「案ずるな、我が主よ。私に捕まえられぬ者など……」
勝ち誇ったように言いかけた私の口に、我が主は立てた右の人差し指をぐいと押し当ててきた。驚きに目を大きくした私に彼は言う。
「学校でその口調はダメ」
そうであった。これもまた立派な主からの命である。返す言葉もない。
私は私自身に言い聞かせる。今の私は我が主と同じ高校生。いたいけな十七歳の男子に化けているのだ。仕事の時間になるとつい忘れてしまいがちだが、私が冥界の番人たる我が主に仕える犬であることを知る者はいない。もちろん、我が主が冥界の番人であることも。
「行こう、イチ」
彼は口ではそう言いながら、胃のあたりが痛むような仕草で腹をさすった。
「今回はおなかが痛いことにするよ」
そうはっきり言葉にしてしまうといろいろと台無しなのだが、こればかりは仕方がない。教科担任を騙し、二人揃って授業を抜け出そうというのだから多少の打ち合わせは必要だ。
「先生」
私は顔を伏せて背を丸める我が主の肩を抱き、体育教師に彼を保健室へ連れていく旨を報告すると、わざとらしくゆっくりと歩きながら二人で保健室へと向かう。
保健室はグラウンドからもっとも近い本館という名を与えられた校舎の一階にある。南側のガラス扉をたたくと室内で事務仕事をしていた養護の女性教諭がとんできたが、我々を見るなりまたかといった顔をして扉を開けてくれた。
「いらっしゃい」
「たびたび申し訳ない」
私が言うと、私に肩を抱かれていた我が主が顔を上げ、「お邪魔しまぁす」と少しも腹の痛そうな様子が感じられない声で言い、砂ぼこりをかぶった黒いスニーカーを脱いで敷居を跨いだ。
幸いにして、保健室の利用者はいなかった。仮病とはいえ、保健室を利用する以上養護教諭の調書作成に協力しなければならず、それを終えてからベッドを一台借りた。カーテンを引き、区切られた狭い空間で私は我が主と二人きりになる。
「じゃ、今から十分間ね」
私は保健室の壁にかかる時計を見やる。午前十一時二十分。タイムリミットは、十一時半。
「承知した」
私はこたえ、頭から足の指先まで全神経を集中させた。
「五分で仕留めよう」
私のからだが、消えゆく煙のようにふわりと揺らぐ。一瞬のゆがみが過ぎ去ると、私の外見は人の形から三つの頭を持つ黒い犬へと変わる。
保健室の古ぼけた蛍光灯の下にあっても、私の黒々とした毛並みは今日もつややかで美しい。手前味噌だが、その辺の犬っころとは比較にならない美貌である。ラブラドールレトリバーよりもさらに一回り大きな私のからだは余計な肉の削ぎ落とされたたくましさであり、三つに分離する頭ではそれぞれ赤、青、緑をした凜々しい瞳が外界の光を映して輝く。
人は私をケルベロスと呼ぶ。現世と冥界を隔てる扉の前に置かれ、我が主の許可なく冥界を脱しようとする死者の魂を正しい世界へと引き戻す役目を仰せつかる犬――番犬である。
「いい子だね、イチ」
この姿に戻ってなお、我が主は私のことを『イチ』と呼び、三つの頭のうちの真ん中、いわば本体と言えるそれを嬉しそうに撫でた。こそばゆいが、悪い気はしない。
「それじゃあ、僕も」
我が主は体操服の汚れを少しだけ払ってから、束ねている長い髪をほどき、巻きつけていた黒いヘアゴムを手のひらに載せた。それはたちまち黒い珠の連なる直径三十センチほどの数珠へと姿を変え、我が主はそれを自らの右手に巻くとベッドの上に寝転がった。
仰向けに横たわる我が主は、数珠を巻いた右手を胸にトンと押し当てる。胸の中からなにかをつかんで引っ張り上げるかのように右手を天に向かってゆっくりと伸ばすと、数珠が巻かれていただけだったはずの我が主の右手が白い靄に包まれた。
我が主の目が閉じられる。からだからはみるみるうちに血の気が引き、やがて持ち上げられた右手が力なくベッドの上に投げ出された。一方、数珠にまとわりつくように這っていた白い靄は次第に人の形へと変化していく。
「お待たせ」
それはついに、我が主の姿形をそっくり映した半透明の像を結んだ。白衣に緋袴、髪は後ろで一つに束ねる、俗に言う巫女装束をまとっている。
我が主は双木家の者に代々伝承される『幽体離脱の技』を習得しており、その御霊を身体から分離させることで冥界の者と通ずる力を得る。ただし、御霊が身体を離れていられる時間は十分間と決められている。
そして本来、この力を伝承できるのは双木家に生まれた女に限られ、双木家が代々管理している冥界の扉の番もまた女にしか務まらないはずなのだが、かくかくしかじか、今はそのお役目を男児である我が主が務めている。そのあたりの事情は話せば長くなるので、またいずれ。今は冥界を抜け出した馬鹿者の確保を優先したい。
「さぁ、出かけよう」
我が主は袴の裾を軽く持ち上げながら私の背中に跨がり、三つに枝分かれした私の首のうち真ん中の一つにしがみついた。
「振り落とさないでね」
「承知」
我が主の命に従い、私は彼を背に乗せて走り出す。
目的はただ一点のみ。
冥界からの脱走者を捕獲することだ。