1-1.
不意に目の前に転がってきた白黒のボールに対し、我が主は「えっ」とわかりやすく動揺した声を上げた。
「あっ、どうしよう。うわぁっ」
どうにかこうにか右足でトラップしたところまではよかったものの、その後どのようにボールを扱おうかとまごついた。気づいた時には相手チームのプレイヤーにボールを奪われ、彼の前からボールも人も遠ざかっていく。
「バカ野郎、誰だよ双木なんかにパス出したヤツ!」
ボールを追いかけて走るチームメイトのうちの一人がそう罵声を上げている。たかが体育の授業ごときでムキになるのは彼がサッカー部員だからで、生来運動音痴である我が主に対しても容赦がない。
私は彼のそうした態度が気に入らなかった。部活ではなく授業なのだから、勝敗にこだわらず純粋にからだを動かすことを楽しみつつ、参加する生徒の誰もがボールに触れ、技術向上の機会を得るべきだ。サッカー部の美技お披露目会なら昼休みにでもやればいい。
だから私はあえて我が主にパスを出した。例のサッカー部員に怒鳴られているのは実質、我が主へパスを回した私であるが、なにより気に入らないのは、例のサッカー部員が我が主のプレーをなかったことに、あるいは最初からプレイヤーとしてカウントしていないような言い方をしたことだ。
「許さん」
我知らずつぶやき、私は猛然と走り出す。我が主に対する侮辱は問答無用で冥界へ送るに足る理由だと個人的には強く思うが、心優しい我が主はそうはお考えにならないだろう。ならばせめて別の方法で彼に思い知らせてやる他ない。
相手チームがこちらのゴールに向かって攻め込んでいる。私はボールを中心にできている人の群れめがけて駆けた。追いつくにはそれなりの距離を走る必要があったが、人間の足と比べてもらっては困る。優に五十メートルはあった距離を私は一瞬のうちに縮めた。
今まさにボールがゴールへ蹴り込まれようとしているところだった。ボールをキープしている相手チームのプレイヤーがドリブルでぐいぐい前進し、その前にはゴールキーパー以外に誰もいない。
私はそこへ割り込んだ。ペナルティーエリア内で今にも蹴り出されようというボールに対し横から足を出し、音もなくカットして奪った。
味方がわっと歓声を上げる。私はその声にこたえることなく、一心不乱に相手陣地へとボールを蹴り進めた。
私に追いつける者はいなかった。味方さえも引き離し、一直線に相手ゴールを目指して走る。
相手のゴールキーパーが身構えた。さすがの私でも未来予知能力は持ち合わせていないが、それでも私がシュートをはずす未来は見えない。確かな自信が胸に刻まれたことを感じ、相手キーパーのからだがわずかに左へ触れるのを見極めてから、私は向かって左上、相手から見て右上の隅を狙ってボールを蹴った。
重力に逆らい、地面から浮かび上がるように斜め上へとまっすぐ飛んだボールがゴールネットを揺らす。体育の教科担任が笛を吹き、ようやく私の背中に追いついたチームメイトたちの笑顔に囲まれた。
「ナイス、猫村!」
「やっぱ速ぇなぁ、足」
「どうだ、これを機にラグビー部に入らないか」
「いや、ラグビーはダメだ。陸上部でリレーの選手に」
口々に好き放題言っているチームメイトたちの声には一切応じず、私は彼らのつくった輪の中にいながら、その外側に佇む二人の男子生徒の顔を順に見た。
一人は嬉しそうに笑い、私に向かって手を振っている。もう一人はあからさまな怒りをその顔ににじませ、私をにらんで舌打ちした。
いい気味だ。私は後者の生徒に向かって口角を上げてやる。我が主を下に見るからだ。無礼者に活躍の機会など与えはしない。
私は暑苦しいチームメイトの輪を抜け出し、我が主のもとへと向かう。我が主、双木涼平も私のほうへと駆けてきた。
夏休みが明けたばかりの九月上旬。厳しい残暑を煽るようにギラつく太陽の下にあっても、我が主はその名のとおり涼を感じさせるさわやかな出で立ちを保っている。
頭の後ろで一つに束ねた、肩甲骨に触れるか否かというあたりまで伸びる黒髪が、彼が足を踏み出すたびに軽く揺れる。笑みの浮かぶ顔は無骨な男らしさとはかけ離れ、薄い唇に低すぎない鼻、切れ長なふたえの目もととどれも均整が取れており、男や女という性の枠組みには当てはめられない美しさに満ちている。一六三センチと男にしては背が低いせいか、髪を下ろした姿でいると女性に間違えられることも多い我が主は、さもありなん、言葉づかいからも男臭さとは無縁なしとやかさを感じさせた。
「さすがだね、イチ」
彼は私を『イチ』と呼び、誰よりも嬉しそうに笑っていた。なんという能天気なお人だろう。例のサッカー部員にバカにされたことをもう忘れてしまったのか。私は言葉を失い、ため息をこらえられなかった。
「あれ、怒ってる?」
今ごろ気づくとは、暢気にもほどがある。主に向かってこんな顔を見せたくはないが、私はややあきれてこう返した。
「敵は取った。余計なことだったのなら謝ろう」
我が主はキョトンとした表情を浮かべたが、私の言葉の真意に思い至ったらしく、やはり嬉しそうに笑って言った。
「ありがと」
まるで小さな子どものような笑みだ。実際彼は子どもであり、私がかつて仕えた主の中では圧倒的に若い。
だからだろうか。
彼に笑いかけられると自然と頬が緩んでしまう。この無邪気な笑みに触れるたび、自らの使命をつい忘れてしまいそうになる。
だが、今回はタイミングがよかった。たるんでいた太いテグスがびぃん、と一気に張られたような緊張感が校庭の空気を切り裂いて駆ける。
私と我が主の視線が同じ北の方角、彼の生家である双木家のほうへと向けられる。肉の焼けるような、あるいは腐敗した獣の亡骸から発せられるような不快な臭気が私の鼻腔を容赦なく突く。
冥界の扉が開いたようだ。それは死者の魂が冥界へと導かれるものではなく、その逆。
死者が冥界から脱走し、この現世に舞い戻った。
我が使命を思い出す。そう――今この瞬間こそ、仕事のときだ。