第0話 これはただの妄想
高校に入学してから数ヶ月が経った。だが、未だに女性からの告白を断るのは気が引ける。あたかも自分が悪いことをしているみたいに感じる。
みんな俺のどこにそんなにも惹かれるのだろうか。確かに身長は高校一年にしては高く、中学ではサッカー部に所属していたこともあり運動もそこそこ出来る。学力も今のところ校内一桁をキープしている。それでも上には上が何人もいる。容姿の問題か? でも、顔だって自分では一般的だと思っている。俺よりかっこいいやつなんてこの学校でもたくさんいる。
「ごめん。俺、今はそういうのしないことにしてるんだ」
俺がそう言うと、何も言わずに俯いたまま頭を一度下げて去って行く女子。その姿を見て胸が痛くなる。こればっかりは何度経験しても全然慣れない。心の中でもう一度謝っておく。ごめん・・・
でも仕方がない。さっきの言葉通り、今そういうのは望んでいない。何故なら、俺には目標があるから。なんてことないが、明確な目標。
――この進学校で真面目に勉強して、なるべく高い偏差値の大学に行き、大手の企業に就職してお金を貯める。
だから恋愛なんかにかまけている暇はない。恋愛は就職してからでも充分に出来る。女手一つで育ててきてくれた母さんに恩返しするためにも俺は頑張らないといけない。大学受験まであと二年と半年以上。今の気持ちを払拭するためにも早速帰ってべんきょ――
「やぁ君。これで何回目だ?」
突然後ろから声がしたので振り向く。するとそこには校内でも有名な生徒会長がいた。美しく整った顔に、男の恋心に効果抜群のプロポーション。腰まで伸びるしなやかな黒髪はいつの間にか赤く染まった夕日に照らされ、それはもう神々しいとまで感じさせる。その上、父親は日本の経済を牛耳っているとさえ言っていい大手企業のトップ。所謂上流貴族だ。彼女自身も才能あふれた人材であり、人柄も良く二年生にして生徒会長に抜擢された自称自称現実この学校の宝。
「生徒会長様が俺に何の用ですか? まさか盗み見ですか? 趣味悪いですよ」
「ははは。違うよ。私がしていたのはあくまで盗み聞きだ」
「同じですよ」
「まぁまぁいいじゃないか。それで? 返事は聞かせてもらえるかな?」
「はぁ・・・それなら何回も断ってるじゃないですか」
「残念ながら私の耳には拒否の言葉は通らないんだ。所謂地獄耳だね」
「意味が違うの分ってて言ってますよね。まぁ少なくとも俺にとっては地獄のような耳ですけど・・・」
会長はその返答に満足だとでもいうように口角を上げている。正直不気味だ。
ほんと何なんだろうか、この人は。初めて喋ったときは多少緊張したものの今となっては面倒くさいだけだ。学校のマドンナ? 俺からすればメドゥーサだ。目なんか合わせちゃいけない。
「じゃあ僕は失礼しますね。帰って勉強したいので」
「私の返事にイエスと答えてくれればそんなものする必要がないのに。こう見えて私はこの学校のマドンナ様だよ?」
「メドゥーサですよ」
「ははは。確かにな。私に目を付けられると厄介だろ?」
「自覚してるんなら止めてくださいよ」
「いっそのこと君を石にするのもありだな」
「怖いこと言わないでくださいよ・・・」
――返事。
もしこの返事というものが先程のような一般的な恋愛感情における告白というものに対してならば、もしかすると俺は最終的に頷いてしまっていたのかもしれない。それほどまでにこの女性は魅力的だ。だが、今までの会長の言動からわかる通り、この返事というものはそんなやわなもんじゃない。
それに、俺にとってはさらにたちが悪いものでもある。
「それでどうだい? 私のモノになる準備は出来たかい?」
「・・・改めて聞きますけど、それってどういう意味なんですか?」
「言葉の通りだよ。私のモノになれ、少年。そうすれば私が君を一生養ってやろう」
「・・・・・・」
「ふふふ。そんなにむすっとするな、少年。
君も知っての通り私の父はだいぶと偉い地位にいてな。そのせいで毎日忙しくもあるんだ。母は早々に亡くなってしまったから父もやることがないんだろう。私は一人でも優秀だしな。それ故に父はかなりの資産を溜め込んでるんだ。多分死ぬまで溜め続ける気だ。相続権も一人娘の私に全部預けるらしい。かくして私は将来安泰となってしまった。しかし父が溜めている資産は私が死ぬまで豪遊しても消えない程だ。
だから君一人の一生を養うくらいは簡単なのさ。夢のニート生活だな。いっそ一人とは言わず君の家族全員を養おう。全員引き連れてうちに来るといい」
会長は言い終わると俺に一歩近づく。
「どうだい?」
「っ・・・どうしてそうなるんですか」
「ふふふ。その質問は野暮じゃないか? 少年」
そうだな。野暮だった。
「自分と似たような境遇だけど、自分とは違って必死だから助けてあげようとでも思ってるんですか?」
「それはかなり嫌なものだね」
「会長にとっては醜く映るかもしれませんが俺は俺なりに頑張って生きてるんです。だから・・・邪魔しないでください」
俺は言い終わると足を踏み出し、さっさと帰ろうと会長の横を通り過ぎようとする。
「まぁ待て」
会長は俺の正面に体を入れる。
「どいてください」
「どかないよ」
面倒くさい。いつもならそろそろ諦めて逃がしてくれる頃なのに。何故だか今日はやけに面倒くさい。
「なんなんですか」
「君は・・・本当にそれでいいのかい? それが本当に幸せだと思うかい?」
会長は俺を見上げるように見る。俺はさっと視線を逸らす。なんだか会長の様子がいつもと違う気がする。
「ひ、人によって幸せなんて違いますよ。俺にとっては今のこの生き方こそが幸せへの唯一の道なんです」
「生き方って・・・少年が何を言ってるんだい?」
「っ・・・さっきからその「少年」ってなんなんですか? 会長と年一つしか変わらないんですよ?」
「少年は少年さ。君はわかってない」
会長はそう言ってくるりと反転する。ふわっと揺れる黒髪からは、もう夕方だというのに今咲いたばかりのバラの香りがした。
「わ、分ってないって・・・何が?」
「君のそれは全て理想だ」
「理想?」
「そう。理想」
「理想で何か悪いんですか」
「理想は現実にならないよ」
そう言って、もう一度くるりと反転した会長の声のトーンはいつもより少し低く感じた。
「それじゃあ俺のやってることは全て無駄だと?」
「無駄じゃあないよ。・・・そう。人生に無駄なんてない」
「? 言ってることが矛盾してるのでは?」
「矛盾などないさ。人間、成功も失敗も全てが糧になってしまうんだ。例えそれが後悔であっても、時が経てば経験として生きてしまう。一つも無駄になんてならない」
「・・・・・・」
「まぁ、つまり過程なんてどうでもいいんだ。大事なのは成功した結果のみってことさ」
会長はいたずらっぽく笑う。だが俺にとっては少し怖かった。こう・・・なんだか心の嫌な部分を突いてくるようで。
「君の親孝行したいって気持ちも理解できないわけじゃあない。私だって父には感謝しているし、いつかの恩返しも既に決めている」
「何が・・・言いたいんですか」
「受験に失敗したらどうする?」
「それは――」
「就職に失敗したら? 就職先で上手くいかなかったら?」
会長は続けざまに言う。俺は何とか言葉を振り絞る。
「そ、そんなことにならないためにも、今――」
「いくら頑張ってもリスクが消えることはない。
・・・それなのにこの世界の住人はそれから目を逸らしながら生活している。それが当たり前になり、普通になっていく」
「・・・・・・」
「普通に生きるのなんて難しいんだよ」
「・・・・・・」
「特に・・・ね?」
わかってる。俺が、俺たちが一番・・・いや、わかる人にはとうの昔にわかっている。・・・普通に生きることの難しさを。
「それに、なんていったってしんどい。君も感じただろう? 他人とは、普通とは違うだけで周りからは特別な目で見られる。まぁ子どもは無意識だからまだ許せるが、大人は違う」
会長の、似たような境遇の君にならわかるでしょ? という思い。俺には心の奥深くに突き刺さった。いくら父親が資産家といえど、どうやら感じる気持ちは同じらしい。
「だから一緒に逃げようじゃないか。私たちはもっと楽に生きても良いはずだ。幸い、私たちにはその選択肢がある。100%成功の結果。100%の幸福が目の前にあるんだ」
会長は言い終わると手を差し伸べてくる。
確かに。会長の手を取るだけで今抱えている問題は全て消えることになる。そうなればどれほど楽なのだろうか。
いつも夢に見ていた、クラスの同級生達のように笑って過ごす普通の学校生活。それが今、あとちょっと手を伸ばせば届く位置にある。
「それは・・・素晴らしいことですね」
「だろう? もちろん私たちより不幸な人達はたくさんいる。だが、チャンスは掴めるときに掴むべきだ。それに、お金は使わないと回らないからね~」
わかっている。理解はしている。でも、それでも何故だか今の現状を終わりにしたくない自分がいる。絶対に彼女の手を取ってはいけないと言う自分がいる。
「ふふふ。わかるよ。・・・君が今抱いているそれは、ただのプライドだ」
「・・・・・・」
「プライドは大事だ。だが、時として心を壊す。それにその対象は必ずしも自分自身とは限らない」
プライド・・・もちろん自覚はある。男として女性に養ってもらうということ。自分は何もせずにただ周りに生かせてもらうということ。全部自分でひっくり返したい。自分の力だけで成し遂げてみたい。自分一人では生きることが出来ないのは知っている。それでも曲げたくない。これが俺のプライド。
他人に見破られても、自覚しても、消し去りたいとさえ思ってもなお無くなることはない厄介な感情。
きっと会長は今、俺のこの感情を洗い流そうと考えている。そんなの面倒くさいだけなのに。何故そこまでする必要があるのだろうか。会長は・・・どうして・・・
「どうして・・・」
「ん?」
「どうして・・・どうして俺なんですか? どうして俺を選ぶんですか?」
「あちゃーははは。・・・やっぱり気になるかい? これでも上手く逸らしたつもりだったんだけどね・・・」
「会長。聞かせてください。会長の口から聞きたいです」
俺はじっと会長を見つめる。久々にちゃんと見た会長の目。それは雨上がりの水面のように綺麗に透き通っていて、それでも揺れることなくしっかりと俺の目を捉えていた。
「そうか・・・そうだな。ふふふ・・・それはね・・・少年。私は・・・・・・君が・・・・・・君が・・・・s――」
キーンコーンカーンコーン キーンコーンカーンコーン キーンコーンカーンコーン キーンコーンカーンコーン
チャイム? もうそんな時間だったのか? 確かに辺りは告白を断ったときより暗くなっている。
「おっと、どうやらいつもより大分長く話してしまったようだ」
そう言って会長は歩き出してしまう。
「えっ! ちょっと! どこ行くんですか!?」
「今日はここまでだよ、少年。また明日。良い返事しか待ってないぞ。はっはっはっ」
会長はこちらには振り返らずに手だけ振って歩いて行く。
「ちょっと!」
呼び止めても会長は足を止めなかった。
この場にはただ静寂が流れるのみ。さっきまで俺の中で色々な感情が渦巻いていたのに、そんなものは既に消え去っていた。
「・・・なんなんだよ。まったく」
帰ろう。今日はやけに疲れた。
その後、俺はいつもより暗くなった校舎を一目だけ見て、学校を後にした。
まぁ、今日くらいは勉強・・・しなくてもいいか。
この時、俺は目標を立てた日から初めて立ち止まった。
そしてそれからの日々は、一日勉強をサボった天罰が下ったのか色んな意味で大変な出来事が続いた。
途端に女子からの告白が増えたり、校内の目立つ場所で会長に絡まれたり、そこに現れた新聞部に写真を撮られスキャンダルだと騒がれたり、夏休み前の変な時期に海外からこれまたお金持ちの美少女転校生がやってきたり、そして何故かその転校生に気に入られて男子から睨まれたり、転校生といるところに会長がやってきてさらに面倒な事になったり、初めてバイトをしたら周りが他校の女子生徒ばかりだったり、親の単身赴任で急に幼なじみの女子が家に居候することになったり、その幼なじみによる俺の学校生活の話で妹の反抗期が激しくなったり、と。これだけの出来事があってもまだ一年、いや夏休みすら終わっていない。
おかげさまで、最近では全く勉強が手に付かなくなってきた。着々と成績も下がってきている。
会長が言ったとおり、普通に生きるのは難しいみたいだ。・・・まぁ、わかってはいたことだが。
正直、ここが人生で一番の山場だ。でも、俺は負けない! 俺は絶対、目標を達成して見せる! 絶対、絶対ニートになんてならない!!
「さぁ、帰ってとことん勉強だ!」
そう意気込んで土曜授業終わりの午後の時間を有効活用出来るように、誰にも絡まれないように走って学校を出てきたままのスピードを何とか保ちつつ家路を急ぐ。
季節はもうすぐ冬になるというのに、どこからか吹き付ける風は暖かい。空は青く、片手で数えられる程度の小さな雲がゆっくりと流れている。
「・・・・・・」
(なーんてことにでもなったらな)
そう。
ここで話は現実に戻る。
まだ6月だというのに、時季外れの太陽光が照りつける。
雲一つ無い晴天に向かい、俺は思う。
――ああ、なぜ現実はこんなにもクソなのだろうか。