序章7話 異次元転生
「何で、笑ってるの?」
と、少年は言った。
その声は張り詰めたバス内の空間において、不自然なほどよく通った。
俺は何故だか、変声期前の男の子がコンサートホールにて披露した美声を想起した。女声とも男声とも違う、とてもよく響く透き通った声。
そうだ。さしずめこれは、路線バス内の殺人現場というコンサートホールに突然舞い降りた天使の歌声だ。
そして天使はいつだって悪魔を滅ぼそうとするのだ。
ハッとした。
ルームミラーを確認する。
何人もの乗客が、美園ではなく運転席の俺の方へ注意を向けていたのだ。
さすがに席を立って様子を確認しようとする者は一人だっていなかったが、そんな事はどうだっていいのだ。運転手が怪しい、そう微塵でも思わせてしまったら負けなのだ。
計画では自分も被害者の一人として保護される予定である。美園には警察に身柄を拘束される瞬間か、あるいは俺の名前を口走りそうになった瞬間に爆死してもらう。今日、彼女には首だけでなく両手首にも爆弾ブレスレットをつけてもらっており、ジャケットには可燃性の液体を仕込んであるから、ちゃんと作動すれば遺体は丸焦げになりDNA鑑定も時間がかかるだろう。
そして俺は犯人に必死で呼びかけ、乗客を守ろうとしたヒーローになる。別にヒーローになんてなりたいわけではないが、そこまですれば警察も俺を捜査線上から一旦外すに違いない。最悪、俺が殺人教唆犯だと気づかれたとしても、そこに至るまでに時間的余裕があれば対処可能と考えた。
全ての計画は順調だった。
美園と再会し、調教し、立派な殺人者にまで育て上げた。美園が事を起こしやすいような環境を整えるために、偽名を使ってわざわざバス会社に就職した。そしてバスの運行ルートや発着時間、客層まで念入りに調べ上げて計画を実行、二人の命を奪った。
なのに。
なのに詰めを誤った。
まさか顔を見ている奴がいるだなんて思わなかった。
それも、こんな小さな子供に狂わされるなんて。
……オーケー、冷静になろう。
まだ本筋から大きくブレたわけじゃない。何とか言いくるめなくては。
「笑ってなどいないよ。怖くてさ、顔が引き攣っちゃってるだけなんだ」
実際、海や川で溺れる人間は笑っているように見えるという。本人達からすれば恐怖でしかないのに、周囲の人間は遊んでいるのだと思い込み、救助が遅れるのだそうだ。
そんな事を目の前の子供が知るわけがないと思うが、笑ってしまったのを誤魔化すのに、咄嗟に思いついたのはこのロジックしか無かった。
「ほら、僕。お母さんのところに戻りなさい。犯人さんに見つかっちゃうよ」
自分としては最高に良く出来た言い訳だった。辻褄は合っているはずだ。
母親が意を決して、腰を浮かせて少年を抱き寄せようと腕を伸ばした。席を立たないのは美園を刺激しないためか。ともかくこれでこのくそ迷惑な子供を運転席から排除できる。
だが母親に腕を掴まれた瞬間、少年の顔つきが変わった。
怯えから敵意へ。
恐怖から勇気へ。この目は、覚悟している奴の目だ。
「でも、運転手さんが何かした後じゃないと、あの女の人は動かないんだ!」
「───は?」
コイツは何を言い出すのだ、とはじめは思った。バスジャックを開始するときから俺は何も指示してはいない。打ち合せ通りに美園は運転手……つまり俺をナイフで脅し、人質を取った。
カーテンを閉めさせる、携帯電話を取り上げる、なんてのは計画にすらなく、美園自ら動いたものだ。
いやだがしかし……殺しの直前は、確かに俺が一声かけていた。“殺さないで”を殺しのトリガーに設定したため、背中を押すという意味で、だ。それから運転手を犯行とは無関係な人間と印象付けるという目的もある。
(たしかに、普通バスジャックの犯人にあそこまで声をかけないよね)
(それに、女の人はあれから動かないし)
乗客たちがひそひそと話し始める。
ルームミラーに目をやった。
美園は二人を殺害した後、その場を動いていなかった。包丁だけは固く握りしめているものの、全体的に覇気を失ったかのようだ。
燃え尽き症候群だろうか? 放心しているのだろうか?
いや、違う。
肩を細かく震わせて、天を仰ぐようにして……泣いているのだ。こんな状況で、こんなタイミングで、美園の心が戻ってきてしまった。何という事でしょう。
美園が動かない事と、俺の指示がない事は実際にはリンクしない。彼女には俺が何もしなくても計画を前に進められるように、恐怖で縛り、心を麻痺させた。だから俺がいくつか口を挟んだのも、本当はお節介に過ぎないのだ。親心に近いのかもしれない。
一方で、乗客には俺たちの事情など知る由もないから、どうしても両者の行動に共通項を見つけ出してしまうのだ。これは非常にまずい。
俺は胸ポケットに忍ばせた首輪の起爆スイッチに手を伸ばそうとして、少々逡巡した。
今美園を殺してしまって良いのだろうか? ここまで来たら、むしろ一緒に逃げ果せた方が良いのではないか? あの状態の美園は足手まといになり得るな、やっぱり殺すべきか。
この子供を殺してしまうのはどうか。
しかし、どうやって? 俺自身の手は汚さずに、ということであれば美園にやらせるか。
いや……その前に美園を始末しないと……くそっ!
思考が全くまとまらない。
俺はこんなにバカだったか?
自分でも気が付かないうちに、殺人現場という極限状態に当てられてしまっていたのだろうか。
「運転手さんも、犯人なんでしょ……?」
少年は俺の方を真っ直ぐに見据え、はっきりとした口調で言った。
なんなんだこいつは。子供のくせして、無駄に洞察力を発揮して、たった一言で状況をひっくり返してきた。コナ●君かよちくしょうめ。
最初はビビり倒していたくせに、今は勇猛に事件を解決しようとしている。勇者にでもなったつもりなのだろうか。
「何か言いなよ、運転手さん」
少年は追い打ちをかけるように、俺に問いかける。俺は何もいうことができなくて、ただ奴を睨み返すことしかできない。
やがて少年は、
目を細めて、笑った。
──サイコパス。
そんな言葉が脳裏をよぎった。
「美園ぉぉ!」
俺は叫んだ。逃げられない、そう悟ったから、もう隠し立てはしなかった。
「こいつらを殺せ! 今すぐ前に来て包丁で首を搔き切れ!」
すると美園は、こちらを振り向いて──不思議そうに前方の運転席を見つめるだけで、全く動かない。
何故だ。まったく、肝心な時に使えない奴だ。
乗客たちが立ち上がり、運転席の方へ歩いてくる。もうだめだ。
「──チッ!」
俺はバスのギアを一段落とし、思いっきりアクセルを踏んだ。席に座っていなかった少年や乗客の大人たちはバスの後方側へとよろめいた。
バスの最後尾では美園がすっ転んでいる。
椅子にしがみついて身体を起こそうとしている美園を見て、俺は即座に起爆スイッチを押した。
刹那、美園の上半身が爆散した。
狭いバスの中を衝撃波が駆け抜ける。金属片が飛び散り、周囲にいた数名を大怪我させることに成功した。だが全員ではない。
上半身をまるごと失った美園の体は、炎を纏って床に崩れ落ちる。炎はバスの座席に燃え移り、石油製品が燃える際の不快なガスの匂いを漂わせ始めた。
俺は起爆スイッチを窓の外へと投げ捨てた。
さようなら、俺の殺人童貞。もっとロマンティックな場面で捨てたかったよ。
俺は車体を左右に振る。乗客のうち一人でも多く殺すために、通路に立ってはいられなくしたのだ。
今の火の勢いではバスを焼き切るのに時間がかかるだろうが、そのうち軽油のタンクに炎が移って爆発的に炎上するはずだ。だがそれを待っているのでは遅い。
事態を終息させる最良の道筋を考えろ。乗客たちを皆殺しにし、自分だけが生き残る。そんな活路を見つけ出さねばならない。もし捕まったら、俺は間違いなく死刑を宣告され、惨めな最期が待っているに違いない。
そんなのは嫌だ。楽しく、楽に生きたいんだよ、俺は。
──最後の手段だ。
下手をすれば自分も死ぬかもしれないが、俺に残された手はこれしかない。角度を調整すれば望みの未来も得られなくはないだろう。
俺はアクセルを全開にして、ハンドルを右に切った。
高速道路の中央分離帯にバスが突っ込んでいく。
やがて金属のポールがフロントガラスを突き破り、俺の頭部を
***
私の名前はカンナ。
カンナ・ノイド。
王都からは東に少し進んだところにある辺境の街に生まれた。特にこれといった特産品も観光地もないようなさびれた町だが、一応私はこの町の貴族の娘ということになっている。
辺境貴族なんて、一応「貴族」を名乗ってはいるものの、その権力はたかが知れていて、せいぜい税金でなんとか質素な食事ができるくらい。なので我がノイド家も税収とは別に事業を行うことで、なんとか家柄を維持しているような状態だった。
私も十歳の誕生月を迎えてから、家業の見学に行くようになり、経営とは何かを学び始めたところだ。
この街のさらに北に行ったところに大きな盆地がある。そこには糸を吐く虫がたくさん飼われていて、その糸をより集めてきれいなシルクの布にしているのだそう。私の家は、そのシルクの生産工場なのだ。
正確に言えば、盆地で採れた生糸は現地で紡いで糸束の状態にし、それをこの街まで運んできて布に仕立てるのだ。盆地から南へ川が流れているので、糸の運搬は非常に楽ちんなんだって。
父はここ最近、盆地の方へ出張に行くことが増えた。なんでも生糸の生産性を上げるための研究を行っているそうだ。地味な工程だが、ここが一番の要なのだと父は言う。虫さんにも頑張ってもらわないとね!
そて、ここ最近の話と言えば、私にはちょっとした悩みがある。それは毎日のように悪夢を見ることだ。
どんな夢かというと、私が人殺しをする夢。
何か大きな箱のような乗り物に乗っていて、私は別の女の人の共犯で、最後は自殺してしまう。
そんな夢。