王都編15話 分水嶺Ⅰ
その日、私はロキの腕の中で目を覚ました。
窓から朝日が差し込んでくる。
天蓋に阻まれて、直接光が目に飛び込んでくることは無い。
だとしても私の頭を覚醒させるには十分すぎる光量であった。
昨夜、結局ロキと私は関係を持った。
不安定な精神状態を覆ってしまいたくて、私からロキにお願いしたのだ。
不思議なことに、肉体的な気持ち良さはあまりなかった。
だというのに、今までで一番幸せな気分を感じていた。
朝を迎えた今も、その余韻に浸っている。
私は胸に手を当てた。
とくん、とくんと静かに心臓が脈を打つ。
そのたびに暖かな気持ちが胸をいっぱいに満たしていくようだった。
「──あ」
窓枠の所、ガラスを挟んだ外側に、額に傷のある黒い鳥がいた。
鳥は、こちらをじっと見つめている。
あれは、私だろうか。
「おはよう、クロウ」
私は彼に呼びかける。
彼は、興味なさげに朝日の中へと飛び立っていった。
爽やかな、朝だ。
服を着て、皆の所に戻ろう。
そうしたら、真っ先にアロエに飛びついてやるのだ。
私の大切な、大切な存在を、もう離したくないから。
「もう、戻るのか」
ベッドの中から、ロキが呼びかけてきた。
「うん、戻るよ。昨日はありがとう、ロキ」
「私は、何もしていないさ」
そうやって微笑むロキは、なんだかいつもより格好よく見えた。
「ねえ、ロキ」
私は部屋を出る間際、彼の方へ向き直った。
「愛してる」
彼は少し驚いた顔をしていたけど、目を伏せがちに微笑んだ。
ちょっと、嬉しそうだ。
扉が閉まる直前に、部屋の中から微かに聞こえた。
「私もだ」、と。
***
客用の部屋に戻ると、既にマイシィとリリカは起きていた。
アロエはベッドで眠っている。
遠目からでもわかるくらい、泣き腫らした跡がくっきりと残っていた。
アロエとリリカは、帰ってきた私の方を睨んだ。
きっと、アロエに何があったのか聞いたのだろう。
友人たちから初めて向けられる、非難の目だ。
「カンナちゃん、話があるんだけど」
「……ああ」
私はこれから、腰を据えて彼女たちと話をしなければならない。
始まったばかりだというのに、長い一日になりそうだ。
「どうして帰ってこなかったの」
マイシィの冷たい口調での問いかけ。
「ロキの所に行っていたんだ」
「そうじゃない、アロエちゃんが泣きながら帰ってきたんだよ。どうして戻ってきて慰めてあげなかったの」
「私がどうこうできる問題じゃないからだよ」
アロエが泣いてしまったのは、私と一緒にいられなくなるからだろうか、それとも、私が本当のことを話していなかったからだろうか。
どちらにしても、あの時点で私が彼女を慰めにかかったところで、彼女の心の傷は癒えないだろう。
それに、昨日の夜は、私の精神状態も酷かった。
ロキに抱きしめられなかったら、きっと平常心は保てていないに違いない。
「カンナちゃん、酷くない? どうしてそうやって平気で恋人を見捨てられるの」
「見捨てる? 私が、アロエを?」
見捨てたつもりはないんだけどな。
これから先も、見捨てるつもりは毛頭ない。
見捨てるつもりが“なくなった”のほうが正しいかな。
昨日まで、アロエの事は泡沫の夢のような存在だと思っていた。
だから平然と使い捨てることもできただろう。
でも、昨晩アロエが泣きながら出ていった後の喪失感といったらなかった。
私は本気で彼女に依存していたのだと、思い知らされたんだ。
「そんなことするわけないじゃないか。そんなことできるわけがないよ。だって、私はアロエの事を──」
右の頬に、痛みが走った。
左の頬にも痛みが走った。
再度右の頬に何かが触れたけれど、それは、リリカが必死になって止めたから、爪の先が私の皮膚を薄く引っ掻くに留まった。
「まい……しぃ……」
三度振り下ろさんとしたマイシィの腕を、リリカが掴んで引き留めている。
「ふざけないで。ふざけるなよ、カンナ・ノイド! お前、どこまで人を馬鹿にしたら気が済むんだ」
「マイシィちゃん! やめ……て!」
愕然とした。
私は、ここまで怒ったマイシィを見たことが無かったからだ。
長い付き合いだ。ケンカしたことも一度や二度じゃないさ。
それでも、ここまで鬼のような形相で、額から角でも生えてくるんじゃないかという勢いで、私を罵るマイシィは記憶にない。
こんな彼女の姿は見たことが無かった。
見たく、なかった。
「お前は人が誰かを“好き”になるって気持ちを、どれだけ弄んでいるんだよ。それで、なんだ、アロエの事は好きって言うのか、ふざけるな!」
私は、何も言い返すことが出来ない。
マイシィの言葉は、今の私だけじゃなく、前世の俺、奏夜にも突き刺さるような台詞だったから。
ああ、そうだよ。
俺は、昔から女の好意を利用して、操って、弄んできた。
すべては自分のためだ。
時に自分の欲求を満たすため、時に金を貢がせるため、時に住環境を手に入れるため、時に人に危害を加える道具として。
カンナ・ノイドとして生まれて来てからは、少し和らいだとはいえ本質は変わらない。
現に、昨日までアロエの事は寂しさを紛らわすのに都合のいい存在としか思っていなかったのだ。
私がアロエの気持ちを弄んだという事実は覆しようが無い。
今、どれだけ心変わりしても、過去をひっくり返すことはできない。
「人が人を好きになるって言うのは、そんなに軽いことなのかよ。答えろよ、カンナ!」
「わたし……は……」
なんて言い返すのが正解だろう。
こんなに怒ったマイシィを、どうやって言いくるめたらいいのだろう。
はっ、言いくるめるって考え方自体がおかしいんだろうな。
私は自嘲気味に笑うしかなかった。
「何で笑ってんだよ」
「ああ、違うんだマイシィ。私は、私自身が情けなくて笑ったんだよ」
反省の態度が笑いに変換されるなんて、つくづく私の心は壊れてんだな。
私の態度は、案の定マイシィの逆鱗に触れた。
「そうやって、いつまで経っても他人事みたいに……! カンナちゃんは、いつだってそうだ。どこまでいっても傍観者のつもりでいる。いい加減気づけよ、自分が当事者なんだって! お前の心はどこにあるんだよ!」
私の心……。
どこに、あるんだろう。
考えたこともないや。
脳か? 生まれてすぐに死んだ私の、改造されたこの脳味噌か。
魂か? 前世からの異常性を、この体に植樹したような魂という存在に心があるのか。
心臓? だからこそ、私の胸は、今こんなに痛むのかな。
私はマイシィの問いかけには何も答えられずに、無言で彼女の方へと歩み寄る。
彼女はというとリリカの腕を振り解いて、私に相対する。
二人は向かい合った。
マイシィの表情が一層険しくなる。
私たちの背丈はほとんど変わりがないから、お互いの視線は真っ直ぐに相手の瞳の奥まで貫き通している。
深層心理まで探り合っているような気分だ。
なあ、マイシィ。私の中に何が見える。
瞳の奥の、脳に繋がる接続プラグから、どうか私の心の中を覗いてくれよ。
私の心は、どうなっているんだ。
私自身が、全く分からないんだ。
俺はサイコパスだった。
……だった。過去形だ。
きっと、カンナ・ノイドの脳は、サイコパスのような先天性の異常は抱えていないのだろう。
そこに、こんな歪んだ魂が入り込んでしまったから、こんなに不安定なんだろうな。
かつて、俺は誰かの事を後天的異常者だと蔑んだが、ふたを開けてみれば、私もまた後天的に異常な存在となってしまった紛い物に過ぎないんだ。
「今の私は、この気持ちが本物だって、確信しているよ。マイシィ」
「……はぁ?」
私の心の中は今、辛いんだ。悲しいんだ。
それなのに嬉しくって、幸せで、寂しくて、苦しくて、切なくて、そして……愛おしいんだ。
そんな理解不能な心の揺らぎを、前世の俺は経験したことが無い。
でも、この感情に名前があること、そしてそれは昔から俺が弄び続けた人の心であることを、昨日ようやく理解したんだ。
だからこそ言える。
私は、間違っていない!
「私がクズで、そのせいでアロエを傷つけたのは事実だ。だけど、私がロキもアロエも愛していることだって本当だ。私は本気で、二人と幸せに生きていたいだけなんだよ」
「そんな身勝手な」
「身勝手でいい。私は二人共を幸せにするって決めたんだ。……なあ、アロエ。起きてるんだろ」
私の声掛けにマイシィはハッと振り返る。
やや遅れて、アロエはその上体を起こした。




