序章6話 はじめてのキル
太陽光線が容赦なく地面を焼き、陽炎ゆらめく夏の日。
遠くの路面がキラキラと反射して大きな水溜まりのようになっている。
水溜まりは近づけば近づくほどに遠くへ移動していくように見えた。逃げ水、だったか。風のない暑い日に見ることのできる、一種の蜃気楼。
俺と美園は仲良く路線バスに乗っていた。
とは言うものの、おデート中というわけではない。美園は包丁を子供に突き付けて、大声で何やら叫んでいる。絶賛バスジャック中なのだ。
俺が美園を使って起こした凶悪事件、それは人質を取っての立てこもりだ。場所は渡久新交通の運行する高速路線バス。
普通、何かに立てこもる時というのは警察に何かを要求しての行動であることが多いが、今回は違う。お手軽な閉鎖空間を考えたときに、真っ先に浮かんだのが路線バスだったというだけだ。
少し前にさかのぼって事件のあらましをお伝えしよう。
俺は事前に運行ルートや乗客の予約状況などをチェックし、もっとも条件の良い日取りを探り当てた。夏休み中、遊園地へ直通する当バスは家族連れやカップルも多く、良い反応が見られると考えた。
美園はかなり嫌がっていたが、自分の命がかかっているため逆らうことはできない。彼女には殺しの初体験をプレゼントする予定なのに、こうも弱気では困る。
ちなみに俺は特等席から美園の犯行を眺めることになっていた。これには監視の目的もあるが、ショーを最前列で楽しみたいというのが一番の理由だ。
しかし何が起きるかわからないため、爆弾のスイッチはいつでも押せるようにしておく。
バスは午前七時四十五分にターミナル駅を出発した。途中、いくつかの停留所を経由して、高速自動車道に進路をとった。何事もなければ、途中休憩などは無く目的地の遊園地には午前十一時過ぎには到着する。
一般客の皆様方に置かれましては誠に残念なことではございますが、当便にはその何事かが待ち受けているわけでございます。
料金所を通り過ぎてからしばらくして、美園は動いた。隠し持っていた包丁を見せびらかすようにかざし、バスの前方に座っていた小学生の男の子を人質に取って、極めて無感情に言った。
「このバスは私が乗っ取らせてもらいました」
俺はこの時とても感動していた。
吃音が出ていない。つまり、緊張していないのだ、彼女は。ここまで仕込むのにかけた苦労を思い出すと涙が出てくるよ。
美園は続いて運転手に対して要求を突きつける。
「バスを東京方面に向けてください。中央道からは離れるように」
この要求に大した意味なんてない。他の乗客に「これから何が起きるのだろう」と思わせるために言わせた台詞だ。
もしカーチェイスになったときには曲がりくねった中央道よりも新東名の方が走りやすいかな、なんて考えも僅かにあったりする。
「いいですか。すーーー……こしでも動いたらこ、殺します」
おっと。吃音が出たということは少し美園の感情が震えたようだ。
だが彼女の一言に、バス内の空気が凍り付く。明確に命の危険を示唆されたわけだからな。方々ですすり泣くような、声を押し殺した嗚咽が聞こえるが、叫びだす者も動こうとする者もいなかった。みんなよく堪えている。
「窓側にいるみなさん。カーテンをとじてください。あ、あと携帯電話を預かりますので、私が来たら渡してください」
美園が指示をする。高速道路上とはいえ誰がバス内を覗き見るかわからないので、外からバスの中が見えないようにという判断だろう。
これは俺の計画にはなかった、美園の独断行為だ。カーテンを閉めさせるというのは良いアイデアかもしれない。
だが携帯電話を預かるのはやりすぎだ。──殺しのきっかけが無くなってしまうではないか。
「あの、何が目的なんですか」
運転席から美園への質問。突然の問いかけに美園は戸惑ったようだ。
「も……目的は……」
その時、バス後方の男子高校生が、何やら隣の席の女子高生に耳打ちしているのが見えた。そしてごそごそと怪しげな動きをしている。
彼の考えはわかる。バスジャック犯が運転手の方、つまり前方に目を向けている。しかもこの後スマートフォンは犯人に没収されてしまう。
だから、助けを呼ぶにはこのタイミングしかないのだ。
しかし───
「後ろのお客さん、動かない方がいいですよ。じっとしていてください。」
運転手が少年に声をかけた。ルームミラーから、後ろの方の乗客の動きを見ていたのだ。
「犯人さんも、落ち着いてください。どうか誰も殺さないでください……!」
その瞬間、美園は人質にしていた少年を放し、包丁をギラつかせながらバス後方へと近づいていった。
高校生の少年は犯人の接近で慌てたのか、スマホを床に落としてしまった。
それを見た美園は少年が何をしようとしていたのか理解しただろう。
「犯人さん、お願いですから、乗客には手を出さないでください! 殺さないでください!」
叫んだのは少年ではなく、またしても運転手だった。
少年は目の前に突きつけられた包丁に恐怖し、口をぱくぱくさせるのみ。絶対絶命とはこのことだ。数秒後のこの世界に彼の魂はもうないのだ。
美園は心を殺していた。考えれば、壊れてしまうからだ。
彼女は命令を受け入れ、条件反射的に包丁を突き出した。
その時だった。
「だめええええええええええぇぇぇ!!!!」
男子高校生を狙ったはずの包丁は、しかし、隣席の少女へと吸い込まれた。身を挺して彼を守ったのだ。
「ォグ……ッ」
少女のくぐもった叫び声が車内にこだました。痛みによる絶叫、肺から直接抜ける空気の音、それらが折り重なった甘美なハーモニー。
「コトネぇぇぇえええええええええッ!!」
少年の叫びがハーモニーに加わる。
自分のせいで死んだのだ。余計なことをしたから死んだのだ。自分を庇って死んだのだ。
これが叫ばずにいられようか。
俺は特等席でほくそ笑んだ。
美園は想像以上に上手くやった。恐ろしいほど順調。あとは一連の事件がどう評価されるかだけだ。
これが笑わずにいられようか。
しかしあと一花咲かせなければなるまい。死者一名ではインパクトに欠ける。どうせなら未来永劫誰の記憶にも残るような大犯罪に仕立て上げたい、と思うのがクリエイター心理という奴だ。
美園は一人刺したことで現実に引き戻されてしまったのか、男子高校生を放ったらかしのまま呆けていた。
そこで俺は美園に催促のメッセージを送ることにした。すーっと息を吸い込んで、大きく息を吐く。うん、深呼吸はばっちり。男子高校生の声に負けないくらいの大きな声で、ちゃんと美園に届きますように。
「もう、やめてください! 殺さないで下さい!」
美園の体がビクンと跳ねる。俺の言葉の意図は、ちゃんと伝わっているはずだ。
「もう、これ以上は……これ以上はやめてください。お願いします……!」
俺はそうやって声をかけ続けた。端から見れば、俺は自らの危険を顧みず、殺人犯に必死で呼びかけ続ける正義の体現者だ。
ところが彼女にとってはそうではない。
そうではないのだ。
やがて空気が一変してくる。次第に、小さな声ではあるが、「助けてあげて」「見逃してあげて」「殺さないであげて」と乗客たちからも美園に声がかけられ始めた。
──美園。
君は今、四方八方から浴びせられる「コロセ」の大合唱に苦しんでいるはずだ。
俺は美園にこう伝えていた。
俺に“殺さないで”と言われたら、“必ず殺せ”という意味で解釈するように、と。
動物を相手に練習していた時から、命を奪う間際には俺が“殺さないで”と声をかけた。自ら名前を付け、世話をしたお友達たちを、“殺さないで”の一言で殺さなくてはならない状況が延々と続いた。
調理のための魚を〆る時、部屋に現れた昆虫を始末するときでさえも……命のやり取りをにするときは“やめて”“助けて”“許して”は全部意味を逆にして捉えられるようになるまで訓練した。
その一連の動作が慣習づくまで心に刻み込み、洗脳した。
故に。
彼女の脳内では今まさに【この場にいる全員から殺せと命令されているような状況】が描き出されているはずだ。
この場を支配しているのはバスジャックの実行犯たる荒木 美園ではない。彼女は人質であるはずの乗客たちから完全に支配されている。
そうして、荒木 美園は人を殺した。
バスの後ろ半分を血の海に変えて。何度も何度も高校生二人を刺した。
乗客たちはあまりの凄惨な現場に戦慄し、閉口した。
さて、そろそろ仕上げだ。
今度は俺が、美園を殺す番だ。俺も君と同じ場所に行くよ、美園。
「ね、ねえ……運転手さん」
「―――?」
ふと横を見た。
美園が最初に人質にしていた、あの小学生の男の子がこちらを見ている。
お前は、一時的に解放されたのではないのか? 美園が手を離したとき、母親の元へ帰ったのではないのか?
いや、違う。足元がすくんで動けなかったのだ。少年のズボンの根本は内からあふれ出た液体で色を濃くしていた。
「なんで、笑っているの?」
と、少年は言った。