序章4話 美園の過ち
奏夜といるのは楽しかった。
彼はいつも私のことを気遣ってくれた。発話障碍のことも全く気にせず、私の話を最後までちゃんと聞いてくれた。
私の吃音の原因は身体的な機能によるものではなく、心理的な部分が強かったらしく、彼と会話を繰り返すことで徐々に自信がついたことから、やがて吃音はほとんど気にならないレベルまで落ち着いた。
今まで私を虐めてきた学校の不良連中も、奏夜がバックにいると知ってからは一切の手出しをしてこなくなった。
彼はどういうわけか、不良グループから避けられている。
何故なのかと彼自身に聞いてみたのだが、はっきりとした答えはもらえなかった。
奏夜は喧嘩が強いから、とかそんな理由ではないらしいことは解った。
今思えばになるのだが、きっと奏夜は彼らの何人かの弱みを握っていたんじゃないかと思う。
喧嘩の強さだけが本当の強さじゃない。
根回しの上手さ、政治的駆け引きの上手さも強さの一つのバロメータになることを知った。
さて、私と奏夜の付き合いは高校時代になっても続いていた。
私は奏夜と同じ学校に行きたくて――学年は彼の方が一つ上なのだが――必死に勉強した。
野久高校に合格した時は本当にうれしかった。
私は私の人生に春の訪れを感じていた。
ところが、いざ高校に進学すると、奏夜の周囲の女性関係に頭を悩ませることになった。
彼は非常にモテた。
そのモテ方は異常と言ってもいいかもしれない。
確かに目鼻立ちが整っていて背も高いとはいえ、皆が振り返るほどのイケメンというわけではない。
だのに、彼にはファンクラブと呼べる組織が非公式に存在するほどであった。
当然、彼女たちの中で奏夜を巡る争いが頻発していた。
やれ奏夜にプレゼントを渡しただの、話しかけただの、果てには目を合わせたなど一挙一動が彼女たちの怒りのトリガーになるのだ。
そんな中、私は奏夜から告白された。
私も彼のことが大好きだったから、とてもうれしかった。
反面、非常に困った。
彼の想いを受け入れたい。
しかしそんなことをすれば取り巻き女子たちが何をしてくるか分かったものではない。
では断るのか。
そんなことをすれば、奏夜の気持ちを裏切ったと言って、結局彼女たちに攻撃されてしまうだろう。
「安心して、俺が美園を守るから」
私は彼の言葉を信じ、彼の恋人になった。
結果から言おう。
私は右目の視力を失った。
私は取り巻き女子達の中でも過激派と呼ばれるグループに襲撃されたのだ。
塾帰りに立ち寄ったコンビニを出たところで、彼女たちを含む集団に拉致された。
どこかもわからないところで監禁された。
ずっと目隠しをされていたので本当にどこかわからなかったのだが、後日警察から取り巻き女子の内の金持ち令嬢が県外に持っている別荘だったと聞かされた。
私は殴る蹴るの暴行を三日にわたって受け続けた。
当然のように犯された。
初めては奏夜に捧げていたから純潔を散らされたわけではなかったが、それでも心に受けたダメージは根深いところにしこりを残した。
発音障碍が復活したりだとか、男性の目線が怖かったりだとかだ。
三日後。
どこからかサイレンの音が聞こえてきたところで私の記憶は途切れている。
奏夜の声が聞こえた気がしたが、その場にはいなかったという。幻聴か。
私は心を閉ざした。
右目は瞳孔が開きっぱなしで使い物にならなくなり、眼帯での生活が始まった。
犯行にかかわった人間は例外なく全員が捕まり、暴行にまでは加わらなかった女子も退学を免れなかった。
学校からは奏夜ファンクラブは消滅し、静かな環境が戻ってきた。
男性恐怖症の私は、学校も週に一度、保健室に登校するのがようやっと、という状況であった。
奏夜は、奏夜だけは私の安心材料だった。
彼の声は安心する。
彼の体温は安心する。
彼との行為は、安心する。
ところがしばらくして、不穏な噂を耳にした。
元ファンクラブのメンバーから行方不明者が相次いでいるらしい。
その全員が、私の拉致監禁事件に多かれ少なかれ関与したとされる生徒だった。
そのくらいの時期から、奏夜に会えない日が続いた。
不安だった。やがて恐ろしくなった。
奏夜が……何かしてるんじゃないかと思った。
根拠はない。
でも、きっと彼が何かしてるんだと――考えてしまう自分が恐ろしくなった。
果たしてその恐怖は、杞憂に終わってはくれなかった。
ニか月ぶりに奏夜に会った。
場所は、彼の家だった。彼は、額に大きな傷を作っていた。
「ねえ……そーーーーのき、傷、ど、どどどうしたの……?」
「何でもないよ、美園は何も心配しなくていい」
そう言って私の頭をなでる奏夜。
嬉しかったが、何かが違った。
安心感が、まるでなかったのだ。
「さーーー、さ三年のリン先輩、い、いなくなった……って」
「うん。知ってるよ」
「すーーーーすすスズ先輩も、ど、どこにいいいるのか、わわからないって」
「うん。そうだね」
私は大きく息を吸い込んで。
ゆっくりと呼吸を整えて。
勇気を振り絞って、奏夜に尋ねた。
「生きてる、よね?」
彼はにっこり微笑むと、
「生きてるよ。だから安心して、ね?」
そう言った。生きてると、言い切った。
私を安心させようと出まかせを言ったのではない。
確信的に、生きていると、そう言ったのがわかった。
次の瞬間、私は反射的に彼の手を払いのけて、数歩後ろに下がっていた。
奏夜の驚いた表情。
なんで、と訝しげに視線を向けてくる。
「あ、あああなたが、やったの?」
何を、とは言わなかった。
何をしたのかが分からなかったからだ。
奏夜は少しの思案の後、口角だけを持ち上げた気味の悪い表情になり、言った。
「うん。そうだけど……美園のためなんだよ?」
彼の瞳の底に深淵を見た気がした。
「う、嘘!! わ、わわ私ッ……そーーーーんなの、のの望んでなんかッ……」
「だってさァ!!!」
奏夜は急に大きな声を出すと同時に立ち上がり、そばにあった小棚を足で蹴り倒した。
中身が床に散乱する。
私は奏夜のそんな激しい一面は見たことがなくて、驚いた拍子にすっ転んでしまった。
急いで立ち上がろうとしたが、奏夜がゆっくりと私に近づいてくるのが見えた。
「美園は俺のものなんだよ? それなのに、あいつらは美園を傷つけたんだ!! わかるだろう!? あいつらは一番やっちゃいけない行為をしたんだよ!!」
「わ、私は!! そーーーーうやの、物じゃ、ない」
奏夜の名前を、うまく言えなかった。
サ行の苦手な私でも、彼の名前だけはちゃんと呼ぶことができていた。
なのに。
言えなくなってしまった。
怖くなってしまった。
もう、元には戻れないんだと、この瞬間に理解した。
それは彼も同じだったらしい。
彼は力なくベッドに腰かけると、私の方には一瞥もくれずに、一言だけ。
たった一言だけ、今までありがとう、と言った。
無表情に。
―――
――
―
それからの私は、学校を辞めて、家を出た。
家族はずいぶんと心配していたが、元々心のどこかに壁を感じていた家族だ。
別れるときは涙も出なかった。
夜の街で働いた。
眼帯付きの、こんなナリなので嬢にはなれなかったが、キャバクラのボーイとして働いた。
不思議なもので、眼帯のボーイ姿は思いのほか客受けが良かった。
たまに嬢の代わりに客の話相手にもなった。
発話が苦手だから、相手の話を聞くだけの受け身の姿勢になってしまうのが、逆に良かったらしい。
そんなだから体を売らずともそれなりに稼ぐことはできていた。
時というのは残酷なもので、三十に差し掛かったくらいから人気は落ちた。
若いというのはそれだけで大きな武器となるのだ。
こればかりは致し方ない。
大した趣味を持たない私は、いくらかの貯蓄はあった。
私はそれを元手に自分の店を開くことにした。
古巣のオーナーも快く協力してくれて、若い嬢を数人レンタルさせてもらえることになった。
実質のれん分けみたいなものだった。
それからさらに二年が経って、ようやっと経営が軌道に乗り出した頃。
古巣のオーナーから急に呼び出された。
何事かと馳せ参じたわけだが、彼はどうにも浮かない顔で私に言った。
「大浅という男から、お前に話があると連絡があった」
何年もその名前を耳にしていなかったから、はじめは誰のことかと思ったが、間もなく奏夜のことだと思い至った。
オーナーは彼と繋がっていたのだ。
しかし不思議には思わなかった。
彼なら、夜の世界にコネクションを持っていてもなんらおかしくはない。
恐怖はあった。
自分の所有物のためなら何だってする男だ。
一体どんな目的で連絡をよこしてきたのかはわからない。
なぜこのタイミングで、なぜ私なんだ。
彼との関係はとうに切れている。
今更会うには、もっとこう、強烈な理由というのが必要だ。
だが同時に、決着をつけなければならないとも思った。
あの日、奏夜と別れたあの日から、ずっと心の奥底に隠してきたモヤモヤを取り払ってしまいたいと思っていた。
そのためには彼ともう一度向き合わないといけない。そう思ったのだ。
「オーナー、わかりました。 彼に会ってみます。大浅 そ」
そこで一旦区切って、呼吸を整える。
「奏夜に、会ってきます」
これが私の最後の間違いとなった。