序章3話 美園の追憶
私、荒木 美園は人を殺した。
殺意はない。
悪意もない。
動機は、恐怖したからだ。
とても恐ろしい目に遭って、そこから逃れようと暗闇の中をもがいて、ようやく辿り着いた洞窟からの抜け道。
わずかな隙間から光が差し込む。
やった、ここから出られる!
そう思って手を伸ばす。
すると、背後から死神が声をかけてきた。
――そこから出たいのかい? ならば、最後に一つ言うことを聞いてもらおう。
そうして、人を殺した。
手にした包丁からは命の雫が赤く滴っている。
背中を貫いた際の感覚がまだ手に残っている。
洞窟の外には自由は無かった。
一面に広がるのは地獄だった。
「う、うわああああ! コトネ、コトネぇぇえええ!」
その声に、はっと我に帰った。
通路側に座っている少年……恐らくまだ高校生くらいの男の子。
彼に覆いかぶさるように、窓側に座っていた少女が身を乗り出して倒れている。
少女の背中からは真っ赤な液体が染み出すように流れている。
彼女が肩を上下させるたびに、傷口から空気?が漏れ出る。
それと同時に服の赤い染みは面積を拡大させていた。
男の子は彼女の傷口を手で抑え込む。
まるで、そこから命が零れ落ちていくのを必死に止めようとしているかのよう。
ああ、私はまだ人を殺してはいなかった。
全然よくない状況なのに、良かったと思ってしまった。
どのみち致命傷だ。助かる余地はない。
私が人殺しになるタイミングが変わっただけで、結果は何も変わってはいないというのに。
良かった、と思ってしまったんだ。
私は横目で周囲の状況を確認する。
ここは路線バスの中だ。山梨に向かうはずの便を乗っ取って、東京方面へと行き先を変更させた。
なぜそうしたのかは、私にもわからない。あの男が何をさせたいのかなんて、わかるはずもない。
私はただ命令に従っているだけなのだ。
不思議と悲鳴は上がらなかった。
叫んでいるのは目の前で恋人を刺された男子高校生だけだ。
きっと本当は乗客の誰もが叫びたいと、助けを呼びたいと、そして逃げ出したいと思っていることだろう。
それでも彼らが声を上げなかったのは、バスジャック犯たる私を怖がっているからに他ならない。
あの時、バスの後方にいた男子高校生は、私に隠れて外部に連絡を取ろうと試みた。
私はそれに気づいてしまった。
気づいてしまったからには、殺すしかない。
殺さなければ、次に死ぬのはきっと自分自身だから。
ところが、私が包丁を突き出した先に割り込んできた壁があった。
隣席の少女――コトネと呼ばれていたな――が少年を咄嗟に庇い、左肩甲骨の下あたりに包丁が刺さった。
少年の絶叫。
いっそう身を竦める乗客たち。
彼らはこう直感したに違いない。
この女は本気だ、きっと逆らえば自分達も殺されてしまう、と。
「せん……ぱ……い……」
コトネさんが弱々しく息を吐いた……としか形容できないほどの掠れた声を出した。
瞬間、彼女の身体が細かく痙攣を始めた。
まもなく事切れるに違いない。申し訳なさで胸がいっぱいになる。
少年は涙を湛えた瞳で私を睨みつけてきた。
その視線だけで呪い殺されそうだと思った。
それだけのことをしてしまったのだ、私は。
「もう、やめてください! 殺さないで下さい!」
そう叫んだのは、少年ではなかった。運転手だ。
高速道路を運転中の彼には、殺されたくなければ運転を続けるようにと言ってある。
だからバスを停めて乗客を助けることはできないが、ルームミラー越しに私の様子は確認しているようだった。
一瞬躊躇した私に、運転中の男は再び乗客に手は出すなと叫んだ。
しかし、私の脳内では別の声が響いていた。
――コロセ。今すぐにコロセ。
瞬間的に頭を押さえた。
やめてください。もうこれ以上、私に人を殺させないでください。
「もう、人殺しはやめてください! お願いですから!」
――さあ、人をコロセ! 早くしろ!
「包丁を、離してください!」
――包丁を、突き立てろ!
気持ち悪い。
とにかく気持ち悪い。
吐き気がする。
二種類の違う意味のセリフが頭の中で反響し、脳内をぐちゃぐちゃにミキサーする。
命を乞う言葉と、命を簒奪する言葉が、歪なマーブル模様を作り出す。
否、もっと濃密だ。
黒と白の絵の具をぐちゃぐちゃにかき混ぜて、しかもそれはグレーにはならず、ドス黒い赤に変わるイメージ。
運転手がしきりに訴えるのに感化されたのか、乗客たちからもチラホラと声が上がり始める。
そいつらは異口同音に、殺すな、止めろと訴えてくる。
私 に は そ れ ら 総 て が コ ロ セ に 聴 こ え る
目の前で少女を抱く少年は言った。
「助けてください」
わたしの中で何かが切れた。
急に訪れたのは虚無感と全能感。
私は包丁を少年の首筋に突き立てた。
よくわからないことを叫びながら、無我夢中で刺し続けた。
刺して刺して刺しまくって、気がついた時には。
元々少年と少女だった何かが赤い湖の中に横たわっていた。
こうして私、荒木 美園は人を殺した。
***
私が人殺しになった最初のきっかけは、二十年ほど前。
季節は冬。私は、彼に出会った――。
―――
――
―
「や、やややめてください!」
「ヤヤヤメテクダサーイ、だってよ!」
「ヤヤヤヤヤヤメテクダサーイ」
四人の男たちはケラケラと笑った。
幹線道路の高架が川に差し掛かり、跨いでいく、そんな場所。
高架下には段ボールやブルーシートの残骸が散らばっていた。
私は知っている。あそこに住んでいたホームレスのおじいさんは、先日亡くなったのだ。
冬の寒さが原因かとも言われたが、体に複数のアザがあったとかで、何者かに襲撃された可能性も囁かれていた。
中学生が石を投げつけていたという話もあり、犯人はうちの学校の生徒だともっぱらの噂である。
私の目の前にいる男たち、正確には中学生の男子たちが噂となっている張本人たちである。
私は彼らに取り囲まれていた。
制服を着崩したリーダー格の少年が、私のスカートをひらひらと振っている。
今しがた剥ぎ取られたセーラー服のスカートだ。
私は地面に尻餅をついた姿勢で、下着を見られないように必死で下半身を手で覆う。
「かか、かえっかえしてください!」
「んん? なにをォ?? 言ってみろよ、オラ」
「……ッ!」
“スカート”。
その一言は言えなかった。
言いたくなかった。彼らの目的の一つが、私にサ行から始まる単語を喋らせることだからだ。
私には当時、軽い発話障碍があった。
サ行の音がどうしても苦手で、何かの言葉に続けて言うとできるのだけれど、文頭にサ行を持ってくることができないのだ。
もしもサ行から話を始めようとすると、最初の一文字を不自然に長く発音してしまう。
“スーーーカート”みたいになってしまうのだ。
彼らはそのことを十分知っている。
私がうまく発音できなくなるたびにしつこく絡まれ、いじられた。
「わ、わわ私のスカートです!」
「……チッ」
少年たちは期待通りの台詞を引き出せなかったからか、途端に不機嫌な表情になった。
このように、「私の」を付けると普通に話すことができるのだ。
ただ、私にはもう一つ、緊張するとサ行以外の言葉であってもスムーズに発話できない悪癖もあった。
だから私はできる限り人と会話しないように生きてきた。
無口で、暗いやつ。周囲にはそんな風に思われていたのだろう。
困ったときに助けを求められるような、深いつながりのある友人など一人もいなかった。
「おい、ちょっとコイツの上半身も剥こうぜ」
ひッという声が漏れ、思わず縮こまった。
両腕で体を抱きかかえるようにして身構える。
すると今度は下半身がおろそかになって、男たちに下着をおもいっきり見られてしまった。
「おい、お前パンツ濡れてんじゃん?」
「なになに? 漏らしたのか? それとも俺らに見られて感じちゃった?」
なんてことはない、尻もちをついたところにちょっとした水溜まりがあったのだ。
漏らしたわけでも、ましてや性的にどうこうということは一切なかった。
それでも湿った下着を見られて、恥ずかしくて、死にたくなった。
そして次の瞬間、後ろから一人の男子に羽交い絞めにされた。
体が急激に持ち上げられ、両腕で締め上げられた。
無理やり立ち上がらせられて、抵抗もろくにできないままショーツに手をかけられた。
「下から行っちゃおうぜ―――」
そう言いかけた男の手が止まった。
突如、おい、と声がかけられたのだ。
堤防の上から見下ろすように立っていた声の主は、自分と同い年くらいの少年だった。
自分よりもかなり幼く見える、美形ではないにしてもバランスの良い整った顔。
整いすぎて何も特徴がなく、きっと一度見ただけでは記憶に残らないような、そんな顔。
その顔と不釣り合いなほどすらりと伸びた手足。
身長は百八十センチくらいはありそうだった。
近隣の有名私立中学のブレザーをきっちり着こなし、カバンを肩にかけるようにして持っている姿が鮮明に目に焼き付いた。
「げ、あいつ野久中学の……」
ショーツに手をかけていたリーダー格の男は私から手を放し、一歩だけ少年から距離を取った。
私を羽交い絞めにしている男は事態をうまく呑み込めない様子だったが、あとの二人はリーダーと同じように川岸の方へと後ずさった。
明らかにビビっている、そんな印象。
ブレザーの少年はそんなに恐ろしい存在なのだろうか?
背は高いものの、対して強そうには見えない。
いいとこのおぼっちゃまといった感じの少年。
しかし彼は臆することなく堤防を下る階段を降り、不良少年たちに近づいていく。
「おい、なんだてめぇ! ブッ殺すぞ!」
私を羽交い絞めにしたまま、男は叫んだ。
汚い唾が私の頭に降りかかる。
頭のすぐ近くで叫ぶものだから、耳がキンとなって少し痛かった。
少年は何か思いついたような表情を見せた後、怪しげな笑みを作り、言った。
「あまり強い言葉を使うなよ」
「は?」
「弱く見えるぞ」
私は知っていた。その当時流行っていた漫画の、敵役の名台詞。
現実に、しかもこんな緊迫した場面でそんな台詞を放つなど、どうかしているとしか思えなかった。
だが一定の効果はあったようで、背後の男は何も言えなくなってしまう。
「あれ? 知らない? 最近ジャンプに載ってる漫画なんだけどさぁ」
少年はポリポリと頭を搔いた。
その飄々とした態度にイラついたのか、背後の男が再び大声で威嚇した。
「うるせぇ! なんなんだよお前!」
すると少年ははたと動きを止め、大げさにため息をついた。
「それよりお前、その女の子放してやれよ」
「あんだとゴル───
「おいユウキ!! さっさと美園を放せ!!」
男のセリフを遮るように、リーダーが叫ぶ。
数秒のタイムラグはあったものの、私を拘束する腕から力が抜け、やがて解放された。
私は自分の足で立っていることもできず、その場にへたり込んでしまうのだった。
なんだか腰が抜けて、立ち上がることができない。
その状態で男たちの顔を見たが、明らかに恐怖している様子が見て取れた。
一人なんかは手が震えている。
「何でですかイタミ先輩! こいつ一体何なんですか!」
「いいからユウキ、行くぞお前」
「行くってどこに……」
「バカ、帰るんだよバカ」
バカと二回も言われたユウキはふてくされた表情で、その場を離れていくリーダーの後を追った。
振り向きざまに、イタミたちに気づかれないように、私に唾を吐きかけて。
最後までクズな奴だった。
ブレザーの少年はにこやかな表情のまま、男たちが去っていくのを見送っていた。
やがて彼らが堤防を登り切るのを見届けると、地面に落ちていた私のスカートを拾い上げ、私に手渡してくれた。
心なしか、頬が赤らんでいるように見える。
手渡す際は、こう、顔を横に背ける感じで、川の方を見ながら手を伸ばしてきた。
「あ、あのさ。これ、早く履きなよ」
「う、うん。あ、ああありがとう」
急いでスカートを履く。
男たちに乱雑に扱われたせいだろうか、繊維が伸びて、ちょっと腰回りが緩くなってしまったかもしれない。
「あの……ごめんな」
「え、えっと、な、なにが?」
少年が急に謝ってくるので戸惑った。
「少し、その……見ちゃってさ」
何のことかと思ったが、彼の言わんとしているのが下着を見てしまったことに関する謝罪だと理解し、私は慌てて頭を振った。
謝罪なんていらなかった。
彼は何も悪くないどころか、危うく犯されていたかもしれない私を救ってくれたヒーローなのだから。
むしろ、先ほどまで飄々としていた彼が、こんなに初々しいというか純情なところを見せてくれたおかげで、私の緊張が解けた。
これならサ行以外の吃音を気にせず会話できる。
うん、私ならできる、そう思えた。
「助けていただいて、本当にありがとうございました。こ、このお礼はなんと申し上げてよいか……」
自分の思っていた以上に子供らしくない、かしこまったお礼の仕方になってしまったような気がする。
それを見て、少年は少し笑った。
「俺は何もしてないよ。ただ通りかかって、声をかけただけ。よかったよ、あいつらが勝手にビビってくれてさ」
彼はそう言うと、私にすっと近寄ってきて、頭を撫でてくれた。
急に触れられて、少しびくっとなったが、いやらしい触り方ではなく、なんというか……兄が妹を慰めているような、そんな撫で方だった。とてつもない幸福感に包まれる。
「よく頑張ったね」
その一言がとてもうれしくて、恐怖から解き放たれたのがわかって、今までため込んできた感情が瞼から液体となって零れ落ちた。
声を上げて泣きじゃくる私を、彼はずっとそばに付き添いながらあやしてくれた。
胸を貸してくれた。
辛かった。
今回のことだけじゃない。
今まで一人ぼっちで本当に辛かった。
誰にも相談できず、発する一言一言で笑われ、蔑まれ、虐げられた。
家族でさえ、私を真に理解してくれる人はいなかった。
私の痛みに気づいてくれる人はいなかった。
彼は違うと思った。
言葉は発さない。
でも、優しく撫でてくれるその手つき、その視線、その微笑がすべてを包んでくれた。
この人は私を救ってくれる。
心の底からそう思えたんだ。
――
―
しばらくそのまま彼のもとで泣いて、そのあと彼は私の荷物をもって家まで送り届けてくれた。
彼の去り際に、私はもう一度勇気をもって声をかけた。
「あの……な、名前を教えていただいても、いいですか?」
彼は振り向き、にっこりと笑ってこう言った。
「大浅 奏夜」