入学編19話 ロキ
「お前は、いつぞやの」
その瞬間、空気が変わった。
雪と氷に覆われたこの見晴台広場に、雪や氷とは比較にならないほど冷たい感情が首をもたげる。見るものを凍り付かせるような、その感情を敵意と言う。マイシィを誘惑するときの優しい雰囲気はそこに無く、ただ一つの敵意をもってロキは私たちの方へと向き直った。
美しい金髪に怪しさを滾らせた深紅の瞳。先ほどまでの穏やかな表情はどこへやら、渓谷よりも深いしわが眉間を縦に裂いていた。怒りのあまりに頬は引きつって、遠目からでは笑っているようにすら見える。
だが、彼の中に笑うという感情が入り込む余地はもうない。
真っ黒く塗りつぶされた心は、目の前の障害物を排除すべく動き出す。
彼は儀礼用の剣の鞘に手をかけた。いつでも剣は抜けるのだという意思表示。心の弱い相手であれば、それだけで怖気づいてしまうだろうが、ロキと対峙するこの少年──エメダスティにはまるで効果がなかった。
あるいは抜刀のモーションに入っていることにも気づいていないのだろうか。
エメダスティはただ、まっすぐにロキの眼だけを見つめていた。
「いつからそこにいた? 私の邪魔をするつもりならそれなりの覚悟は出来ているな?」
マイシィに愛を囁いたときより何段階にもトーンを引き下げたような声色。
どちらかといえば私にとってはこちらの方が耳馴染みがある。他人を見下しつつ憎悪をぶつける時の彼の声だ。
「マイシィちゃんから、離れろ!」
「貴様……平民の分際でよくも……!」
エメダスティの命令口調にカチンときたのか、エメダスティを折檻すべく大股で歩き始めた。剣からはすでに手を離してはいるが、その代わりに拳を振り上げている。
「ろ、ロキ先輩! やめて、エメ君は私の大事な友達だから……」
ロキは一瞬動きを止め、無感情な眼差しだけをマイシィの方へ向けた。
「もし私が彼を見逃したら……その時はマイシィ、私と結婚してくれるか」
「──ッ」
マイシィは言葉に詰まってしまう。
「それとも、私が彼を決闘で倒したなら、結婚を認めてくれるのかな?」
おかしい。結婚にこだわり過ぎている気がする。交際というステップを完全に無視してその先の約束をさせようとしているのは、純潔を重んじる貴族の性か。
それにしても、もっと違う関係性ではだめなのだろうか。本当にマイシィを愛してしまったが故なのだろうか。
いや、違うな。
今のロキの目は、マイシィをただの記号としか見ていない。
マイシィ・ストレプトという文字列を、自分の中に組み入れたいだけだ。
ロキの目的が分かった気がする。それは、マイシィと婚姻関係を結ぶこと。正確には、ストレプト家と外戚関係になることで、復権派と国王派を結びつける事だ。
十一歳の子供である私達にはまだまだ縁遠いと思われた“結婚”のワード。
しかしそれは男女を契約で縛り付けるためのカードである。
こと貴族においては婚姻関係一つで戦争が起き、一族が栄華を迎え、国が滅び、私欲を満たせる、最も基本的にして最大効果を発揮する“魔法”だ。
「何を……言って……?」
「さっきは私のことを受け入れてくれたんじゃないのかい?」
「それは──」
混乱するマイシィに、エメダスティは叫んだ。
「そいつの言うことを聞いちゃだめだ、マイシィちゃん! そいつは君のことを愛してはいない、全部出まかせだ!」
それを聞いたロキはわざとらしく両手を広げた。
「じゃあ君は彼女が本気で落ち込んでいるとき、何かしてあげられたのか? 丸く収めることができたのか?」
「ぼ、僕はマイシィちゃんのそばに……」
「そばにいてやることはできただろうさ、親戚だもんな。でも、それだけだ。何かを解決することなど貴様にはできやしない」
エメダスティの必死の訴えに、ロキは余裕の様子だ。怒ってはいるものの、きっと、エメダスティの言葉など軽くいなせるつもりでいるのだ。
「そ、それは……」
一瞬言い負かされそうになるエメダスティだったが、
「でも──」
彼には、確信があった。ロキがマイシィを何かに利用しようとしているという確信が。
貴族ではないエメダスティにとって、ロキの狙いの細部を知ることは難しいだろう。
しかし、彼がマイシィを愛しているというのが嘘だと言い切れる自信があった。
くしくもエメダスティと同じ事を私も考えている。とある一点において、ロキの言葉が嘘であると言い切れる部分が存在する。それは。
「マイシィちゃんがケガをした時、ロキ先輩は見ているだけだったじゃないか! なんで駆け寄らない!? なんで治してあげない!? それができる力がありながら、何もしなかったあなたには、マイシィちゃんを幸せになんてできるわけがない! 愛する資格なんてない!!」
「エメ君……」
エメダスティの必死の叫び。その言葉は誰よりも、マイシィの心に突き刺さった。
「そうだ……あの時助けてくれたのはカイン兄で……ロキ先輩は──」
マイシィが何か核心に触れそうになったので、ロキは一旦構えを解いた。
小走りでマイシィの元に駆け寄り、今度は両膝を雪の上に降ろした。彼の高級そうな外套の裾が、雪に濡れて汚れていくのも気にしない素振り。
とても悲しそうな顔をして、どこか最初の時の優しい雰囲気を滲ませながら、マイシィの肩に手を置いて語り始めた。
「違うんだよ、マイシィ。聞いてくれ。私はあの時、クローラ様に命令されていたんだ。決して手は出すな、と。仮にも復権派貴族が国王派貴族の娘を助けたとなれば、派閥間抗争に良くない風が吹いてしまうかもしれない。だから、仕方なかったんだ」
ロキの言葉には、本心と嘘が折り重ねられているように感じた。
おそらく発言の内容は真実を指しているのだと思う。クローラの側近二人は、確かにあの時マイシィに手出しはしようとはしなかった。良い意味でも悪い意味でもだ。
それは、貴族の派閥というものが微妙なバランスを保っているからに違いないだろう。そういう側面は確かにあると思う。
──だけどさ。
──もう、限界だ。
大きく息を吸い込む。目の前で友達が頑張っているんだ。私も負けてはいられないのだ。
私は、叫んだ。
「そういう派閥だとか、力関係とか、全部ぶち壊してでも相手を守ろうとする気持ちこそが愛なんじゃないのですか!? それができなかったあなたに愛を語る資格がないっていうのはエメダスティの言うとおりだと思います!」
私は、我慢ができなくてついに口をはさんでしまう。
私がロキに物申せば、ノイド家も派閥争いに巻き込まれてしまう……そんな風に考えて、表立って反抗できなかった自分が嫌だった。
直接対決が嫌だったから、自分より立場の弱い者を利用して、弱い立場の者を尋問して、そうやってどんどん嫌な自分が増えていった。
だから、今捨てよう。
弱い自分を捨てよう。
今ここでロキに物申すことができなかったら、それは私自身がマイシィを愛する気持ちを否定することになってしまうから。
たとえそれが所有欲から生じる歪んだ気持ちだったとしても、この感情はきっと愛に違いないのだ。だから、自分の台詞に矛盾を生まないためにも、私はロキと対立しなければならない。
「地方貴族ごときに真の貴族の何がわかる。派閥トップのご令嬢だぞ、あの方は」
「そうやって他人を見下すような派閥の事などは知りたくもありません」
ロキの頬の筋肉がピクリと動く。
「……カンナ・ノイド。貴様、今の発言がどういう意味を持つのか分からんわけではあるまい。そいつは、ノイド家が復権派に反抗するという解釈で良いんだな?」
私はロキの発言を聞いて、
──なんか、急に冷静になった。
「ロキ先輩。今のあなたと私との因縁に家は関係ありませんよ」
「そんなことはない。地方貴族である貴様には家同士の繋がりが分からないだけだ」
私はロキの方へと歩み寄り、あと一歩の距離の所まで詰め寄った。
下から見上げる形で、ロキを睨みつける。
「いいえ、これはノイド家とプロヴェニア家の争いではありません。あくまでも私とあなたの問題です。ロキト・プロヴェニア先輩」
「名前を……お前、それをどこで」
情報の出所を言えるわけがない。これは私の大切な友人からの贈り物だ。
私はたとえどんな辱めを受けようとも彼女の名前を出すつもりはないのだ。
だから、精一杯の虚勢をもってして、ロキを挑発しよう。
「それとも、“名前を呼んではいけないあの人”とでもお呼びいたしましょうか?」
私はわざとらしくにやりとした表情を作る。
ロキはきっと、見下すことには慣れていても見下されることには慣れていない。このまま挑発を続ければ、いつかは怒る。怒って暴力に訴える。すると私は必ずコテンパンにやられるだろう。
やられるが、しかし。
十代の少女を暴行したという事実が、今度はロキを追い詰めるだろう。権力を持たない私が、腐っても権力者であるロキに打ち勝つための方法の一つがこれだ。
「そもそも、今日のあなたの行動をクローラ様はご存知なんですか?」
瞬間、ロキの目が大きく見開かれる。
正直確率は半々だったが、いまので確信に変わる。ロキは独断で動いている。
つまり、こういうことだ。
ロキことロキト・プロヴェニアは復権派貴族の中でも割と立場が弱い、と私は考えている。だから少しでも立場を強めたいという思惑があった。クローラの意思を先読みして行動していたのもそれが理由だろう。なんか悉く窘められていた印象があるが、クローラには信用されていそうな感じがした。
だが、ロキ本人は姉との立場の違いに悩んでいた。ロキの姉はクローラの騎士として正式に認められているのだ。だからこそ常時帯刀を許されている。
それに対してロキは側近ではあるが騎士ではない。復権派全体で見れば下っ端扱いされていてもおかしくはない。
彼は学生の時分に少しでも力をつける必要があった。大昔の貴族社会の気風を引き継ぐ復権派貴族にとって、権力抗争は日常だからだ。
目をつけたのはマイシィ。いや、ストレプト家だ。
対立派閥であるはずのストレプトと外戚関係になれば、あるいは対抗勢力を取り込んだようにも見えるのではなかろうか。
逆に復権派の中で立場が悪くなった際には国王派に保護してもらう事もできる。
だからマイシィに今起きている状況を利用して、彼女に近づいたのだ。
「──違いますか、ロキ先輩」
ロキは私の目をじっと見つめながら私の論説を聞いていた。話が終わるまで、否定も肯定もしなかった。やがて私の話を聞き終えたロキは目を閉じて、しばらく思考を巡らせていた。
雪の広場に、訪れる静寂。
少し、風が出てきただろうか。
相変わらず月は眩しくて、私たちの影をくっきりと浮かび上がらせている。
ロキが、目を開いて月を見た。
私はロキから目が離せなかった。彼の一挙手一投足が、我々の運命を左右するのだから。
「つ──」
ロキが口を開く。
「月が綺麗だ」
「……は?」
少し、思っていたのとは違った台詞が出てきて戸惑う。
ロキは、空を仰ぐのをやめて、私の方へ顔を向けた。
「ひとつ聞くが」
彼は言う。
「お前は私がこの状況を利用していると言ったが、マイシィを取り巻く一連の事件を、私が作り出したとは考えなかったのか」




