入学編14話 雪の降る
翌日。異変は朝から既に始まっていた。
それは、私が珍しくも目覚まし器の鳴る前に起きた事実とはなんら関係がない。とはいえ何か嫌な予感がして目が覚めたのもまた事実である。
ベッドに横たわったまま窓を見ると、半透明のガラスに大量の霜が降りていて、外を見通すことが出来なかった。
私はベッドから体を起こし、眠たい目を擦りながら、まだ薄暗い廊下を歩く。侍女の一人が起きていたので、ホットミルクだけお願いして洗面台へ向かった。
蛇口を捻るが水が出てこない。タンクの水が切れたのだろうか。今外に出て給水するのは面倒だ、なんて思いながら水魔法で洗顔用の水を代用しようとした。ところがなかなか水が集まらない。
結局少量の水で布を濡らして顔を拭くにとどまった。
侍女にその話をしたら、天井へ伸びる水道管を弱い炎魔法で暖めるだけで蛇口を復活させた。どうもあまりの寒さに管の中の水が凍りつき、栓になっていたらしい。
また、水魔法の作用機序は空気の寒暖差に関係するので、寒い時は水が集まりづらくなるのだとか。知らなかった。そのうち学校でも習うのだろう。
昨日の事もあるので、早めに朝食を食べた私は朝練に行く時よりも早い時刻に家を出た。今日は一番乗りでマイシィの家に着いてやるのだ。
「ううう、さささ寒いぃぃ! ゆゆゆ雪もめちゃくちゃ積もってるし最悪だ」
あまりにも寒いので、思っている事が全部独り言になって出てしまう。風が無いのが救いだが、とにかく寒いのでローブをきゅっと握りしめて隙間のないようにしながら歩いた。
しばらくすると、遠くの方で鐘の音が聞こえてきた。
カンカンカンカンカン……!
これは、非常を知らせる鐘だ。
畑の先の方に目を凝らせば、救急救命医療の魔動車が鐘を鳴らしながら走っていくのが見えた。向かう先は、学校の方面である。
「えー、なんだよいいい嫌な予感がするんだけど」
またも心の声が口をついて出たところで、私は小走りになった。急いでマイシィのところに行かなくちゃ。マイシィの顔を見ないとこの不安は拭えない気がするのだ。
雪のせいでかなり手こずったものの、マイシィの住むフマル家には走り始めてから五分ほどで到着した。
フマル家の辺りは家々の密度が少し高めで、ちょっとした商店街のようになっている。カインの鍛冶屋もこの辺りに店を構えている。工房までは少し離れているけど。
家の前には馬車が既に待機していた。この馬車はフマル家の所有物ではなく、ストレプト家が手配して乗合馬車を貸切にしたものだ。御者のおじさんは毎朝駐車舎屋から馬車を移動させ、外で待っている。
マイシィが学校を休んでいた時も、ちゃんと朝には待っていてくれていたようだ。エメダスティは遠慮して乗らなかったらしいが。
「おおおおはようございます、ききき今日は冷えますね」
私は御者のおじさんに話しかけた。おじさんは寒そうに震えながら、手袋をした手を擦り合わせていた。そしておじさん以上に震えていて歯をカチカチ鳴らしている私を見てちょっと笑った。
「おはようございますカンナ様。この地方にしては珍しく雪ですなぁ」
「こここんな天気ですから、家の中で待せてもらうか、ききき客車に移動してはいかがでしょう」
おじさんは首を横に振って、
「馬も寒い中待っていますから、私だけが暖を取るわけには参りません」
と言った。
馬の背中には羽毛のように毛羽立った布がかけられ、脚にソックスのような毛糸の防寒具も履かせてあった。むしろ馬の方が暖かそうである。
この人は馬を仕事の道具ではなくパートナーだと考え、対等な立場で接する人なんだろう。きっと炎魔法を使わないのも、馬を怖がらせてしまうからに違いない。そんな人を無理に説得するのも良くないと思った。
「わわかりました。では、すすすせめて温かい飲み物を用意してもらいますのでうう受け取ってください」
「ありがとうございます、お優しいのですね」
「いえ、そそそそんな事はありませんよ。すすす少しお待ちくださいね」
私はフマル家のドアノッカーを数回鳴らして中に入れてもらうと、早速心優しい御者と、何よりも自分のために温かな飲み物をお願いするのだった。
──
─
エメダスティのご両親に挨拶したり、エメダスティの弟の寝顔を眺めたりしていたら、出発しなければならない時間になっていた。外に出て、再び御者に挨拶をした後、客車へ移動した。客車には暖房はないが、空気が遮られる分寒さはいくらかマシである。
深々と降り積もる雪の中、馬車は静かに出発した。家の窓と同様に、馬車の窓は霜が降りて凍りつき、外を窺い知る事は難しかったが、少なくとも馬車の周りには誰もいない事は明白であった。
「今日は親衛隊来なかったね」
「まあ、こんな天気じゃ仕方ないよね」
マイシィとエメダスティはそう言うが、私はあの人達ならば雪の中を這ってでもやってきそうな気がしていた。まさか昨日ちょっとした騒ぎになったから怖気付いたと言うわけではあるまい。むしろ新聞部の記事を指差しながら、俺たち話題になってる、と喜んでいた隊員もいたくらいである。
「……ど、どうしたのカンナちゃん」
私が不安そうな顔をしていたからだろうか、エメダスティが気にかけてくれた。
「心の中にさ、なんかモヤモヤしたものがずっとある感じがする」
「こんな天気だからかな?」
「うーん……」
頭の中にこびりついて離れないのは緊急車両の鐘の音。
まさか彼らの身に何かあったのではないか? という不安がどうしても拭い去る事ができなかった。
しかし確証もないことを言ってマイシィに余計な心配をさせてしまうのは申し訳がないので、今は何も言わないことにした。
「さささ寒すぎて頭が回ってないのかも!」
「あはは! カンナちゃん寒いの弱いからねぇ」
「そそそ、そうなんだよ! カチカチカチカチ」
そう、これで良い。
こうやって笑ってくれてれば私もうれしい。
──この時の不安の種が、杞憂に終わってくれたらもっと良かったのに。
馬がいつもよりも慎重に歩いたからか、学校に到着する頃には出発から一時間近くがかかっていた。校門の前まで行こうとすると、なぜだか馬車の大渋滞が発生していた。
「御者さん、ここで下ろしてもらって良いですよ。これ以上進んだらきっと転回も難しくなりますし」
私がおじさんに声をかけると、彼もここで降りることに賛成してくれた。いつまでたっても前の馬車が動く気配を見せないからだ。
客車を離れて少し歩くとやっと校門が見えてきた。するとそこでは昨日の騒ぎの比ではないほどの大騒動になっていた。
救急車両が少なくとも三台、保安隊の馬車も数台停まっていて、校門の周りは野次馬や生徒たちでごった返し、保安隊が道を開けるように叫んでいる。校舎の入り口付近では医者や看護師が出たり入ったりを繰り返し、やがて担架に乗せられた血塗れの学生が一人二人と運び出されていった。
生徒たちは教室には入る事が許されず、ひとまず講堂の中で待機するよう命じられた。
私の隣で、マイシィが青い顔をして震えていた。
私達は見てしまったのだ。
マイシィ親衛隊のメンバーたちが次々に担架で運び出されていくところを。
──
─
そのまま一時間ほど待機させられたが、ついにその日の学校は臨時休校となった。
講堂に集まった生徒たちには簡単な状況説明と、取るべき行動の指示がなされた。
以下がその内容である。
1:本日未明に、王立魔法学校の男子寮内にて傷害事件が発生した。
2:幸い被害者の命に別状はないが、犯人がまだ捕まっていない。
3:本日は臨時休校とし、生徒は帰宅。
4:寮生については宿を手配するのでそちらに移動。
5:少なくとも今日一日は絶対に外出しないこと。
6:今後については職員で会議の上、明日の朝、各地区の広場にて申し伝える。
説明を聞き終わった生徒達の反応はさまざまであった。
せっかくここまで来たのにと憤る者、あの雪の中引き返さなければならないことに嘆く者、事件の被害者を心配する者、事件の詳細が知りたくて聞きまわる者。一・二年生の中には怖さのあまりに泣き出してしまう子も少なくはなかった。ひょっとすると犯人はこの中にいるのかもしれないからだ。
「帰宅の際、近所に住む者同士でなるべく固まって移動するように! 馬車に乗り合わせられるならそうして!」
制帽を被った私の担任教師が生徒たちに大きな声で呼びかけていた。心なしか顔が疲れて見える。先生にとっても前代未聞の事態であり、これから会議やら保護者への説明やらで大変な目に遭うのだろうな。
「あ! カンナさん、マイシィちゃん、エメダスティ君」
先生は私たちを見つけると、慌てた様子で駆け寄ってきた。
「……マイシィちゃんのその感じだと、誰が被害に遭ったのかわかっているようね」
「はい」
マイシィの代わりに私が返事をした。
「きっとマイシィちゃんに大きくかかわっている事件だと思うの。詳しいことは解らないけれど……」
先生はその続きをなかなか言い出せずにいる。
「何かしらの処罰があると?」
私が言うと、先生は首を横に振った。
しかしその悲しげな表情が、おそらく処罰に近い何かがあるということを暗示していた。
「最悪は、転校してもらうことになるかもしれない。それはこれからの職員会議次第だけど……」
転校……?
マイシィが、この学校からいなくなる?
どうして。
この子は何も悪いことをしていないのに、どうして彼女が割を食わなきゃならないんだ。
「わかってる。マイシィちゃんにやましいところは何もない。でもね、事を収めるために強硬的な意見も出ているのは事実なの。カンナさん、あなたなら理解してくれるよね」
「理解はできますが納得は致しかねます。そもそも、私でなくマイシィが納得できる結論を望みます」
私の発言を聞いて、先生がふふ、と笑う。口角がわずかに上がるものの、その目から悲しみの色は消えていない。
「……あなた、本当に十一歳? 本当にしっかりしてて、すごいと思う。私なんかよりずっと大人」
「そんなことありません。私は私の親友を守りたくて、ただ必死なだけです」
そう、本当にただそれだけなのだ。
「私もマイシィちゃんがいなくなったら寂しいし、つらい。だから、ほかの先生たちの意見に負けないよう頑張るね!」
「先生……」
マイシィは少しだけ嬉しそうに表情を緩めた。
彼女は気付いているのだろうか。先生の言い方では、先生以外のほかの教師全員が敵のようだと。つまり、このままでは十中八九マイシィは転校させられてしまう。
クローラとマイシィが離れれば事態は解決。
それでいいものか。私は絶対に拒否をする。絶対に、マイシィを離したりなんかしてやらない。
「それじゃあ、先生は行くから。あなたたちも気をつけて帰りなさい」
そう言って先生はその場を離れた。何人かの生徒に早く帰るようにと呼びかけながら、おそらく職員室と言う戦場へ向かったのだ。
(あ……)
しまった、思うことが一つあった。今の先生ならロキ先輩の名前を教えてくれたんじゃないのか。そうすれば事態は良い方向へ向かったのではないか。
「ごめんマイシィ! 先に帰ってて!」
「え!? 一緒に帰るんじゃ───」
マイシィに返事する時間も惜しかった私は、そのまま彼女の方を見ることもなく駆け出した。そんなに遠くへは行っていないはず。追いかけて、尋ねるのだ。マイシィを転校させずに済むかもしれないと言って、情報を引き出すのだ。
「カンナ様!」
ふいに、私を呼び止める声が聞こえた。私はそれどころではないので無視して走った。
ところがその声は、私を逃すまいと追いかけながらしきりに私の名前を呼ぶのだ。
「カンナ様! お待ちください!」
「下僕の会のやつか! 今は忙しいから後に───」
しかし彼の一言で、私は足を止めることになった。
「マイシィ様のロッカーに物を入れたという人物を見つけました!!」
一瞬、世界から音が喪失したように感じた。
一瞬、世界の動きが静止したように感じた。
今、なんて言った?
マイシィのロッカーに何かを入れた奴?
それが、このタイミングで……?
怪しい。そいつは本当に犯人なのか? 誰かの策略ではないのか。
だって、今まで全く手がかりすらなかったのに、どうして今なんだ。
「おい」
「はっ」
「そいつの……名前は?」
下僕の男が名前を告げる。私はそいつに全く聞き覚えがなかった。
いや嘘だ。
正確には、そいつのファーストネームだけは何度も耳にしていたはずだ。
何度も、
何度も、
何度も
何度も
何度も
何度も
何度も
何度も
何度も
何度も
何度も
何度も
何度も
何度も
何度も
何度も
何度も
何度も
何度も
何度もマイシィの口から名前を聞かされていた。
「アロエ・フェロックス」
おさげ髪の、あいつだ。




