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エピローグ

「ふう。洗濯終わり、っと」


 彼女は最後のシーツを干し終えると、額の汗を腕で拭った。

 コリト湖に面したこの施設には風がよく通り抜けるものの、流石(さすが)に真夏の暑さを誤魔化(ごまか)すことは出来ない。

 湖の湿り気をたっぷりと含んだ南風が、滴る汗を乾かすこともなく吹き抜けていく。


 ──なんだか、ウチのおさげ髪を絞ったらそれなりに汗が(あふ)れてくるかもしれない。

 なんてことを考えながら、彼女は溜息混じりに振り返った。

 途端、彼女の胸めがけて五人程の子供達が飛び込んでくる。


「アロエせんせーーー、おせんたくおわった!?」

「アロエせんしぇえ、あしょぼぉ」

「わ、わ、わ、待って。待ってってば。ウチ、今汗臭いからすりすりしちゃダメぇ!」


 彼女──アロエ・ノイドはこうして半ば無理やり子供達の手によって拉致された。

 空調の効いた、涼しい室内へと。

 引き戸を開けて上履きに履き替え、子供達のプレイングルームへ移動する。

 アロエは揉みくちゃにされながらも、満面の笑顔で子供達と午後を過ごすのだった。


 日が落ちて、夜。


「アロエさん、洗い物なら俺がやろうか?」


 年長者の少年が手伝いを申し出てくる。

 アロエは首を横に振ると、彼に別のお願いをした。


「君は子供達に本を読んであげて。ウチ、ちょっと相手するのに疲れちゃったからさ」

「うぃー、りょうかーい」


 少年の後ろ姿を横目に見ながら、アロエは食事の後片付けを継続した。


 アロエがこの孤児院を設立したのは今から七年前。

 旦那役のカンナと(たもと)を分かってから二年ほど後の事だった。

 カンナがいないのにも関わらずノイド家にお世話になるのは申し訳がないと、せめて慈善事業を行うことでノイド家の名声に寄与できないかと考えたのが始まり。

 運営の為の資金は、自身が経営する不動産収入から捻出したので、一切の迷惑はかけていないつもりだった。


 ところが最近になって、その不動産の契約者の多くがノイド家に縁のある者であったという事実を知り、結局自分では何も出来ないのかと凹んでいた所だった。


「もう少し独立しないとカンナに笑われちゃうよね……」


 独り言を(つぶや)きながら皿洗いに(いそ)しむのは、もはや日課になっていた。

 ふう、と額を(ぬぐ)う。

 と同時に、手に付着していた洗剤が胸元に落ちてしまった。

 彼女は「しまった」と小さく呟いて、流水にて急いで手を(すす)ぎ、タオルを手に取るなり今まさに服に染み込まんとする洗剤を軽く拭き取った。


 そんな折だった。

 先ほど見送ったはずの少年が申し訳なさそうな顔で戻ってくる。


「どうしたの?」


 アロエがそう尋ねると、彼は少し緊張した様子で、自分の手を揉みながら上目(づか)いで言った。


「あのね、アロエさん。表に不審な人が来ているんだ。どうしよう、魔法学校だって入ったばかりだし、俺……まだ戦えねーよ」


 アロエは少年の様子に何か嫌な予感を覚え、即座に動いた。


「皆をプレイングルームに集めて。何かあったら庭から逃げる事。出来る?」

「う、うん。任せて!」


 少年はアロエの言葉に強く(うなず)き、駆け足で子供達を呼び戻しに行った。


 一方のアロエは玄関へ。

 のぞき窓から外の様子を伺うと、確かに全身黒づくめの怪しい人影が門のところをうろついている。

 フードを目深(まぶか)(かぶ)り、その顔には何かの動物をあしらったような仮面を身に着けていた。


 アロエは外を警戒しつつも、どこか懐かしい気分になった。

 不審者の恰好は、カナデとして活動していたカンナに似ていたからだ。


 アロエは恐る恐る扉を開けると、すぐ正面の門のところにいたそいつに声を掛ける。


「なにか、当園に御用ですか。何もないのであれば、子供達の寝る時間ですのでどうかお引き取りを」


 彼女の言葉を聞いたそいつは、おもむろに仮面を外すと深々と頭を下げた。


「ごめんなさい、なの。……あの、実はお届け物に上がらせてもらったのだけど、遅い時間になっちゃったから、どうしようか迷っていたの」


 そう言って顔を上げたそいつは、可愛らしい顔をした少女だった。

 黒髪で紅い瞳をした褐色肌の少女。

 ひたすらに無表情だが、全くと言って良いほど敵意を感じさせないような、不思議な空気感。


「あんた……エメダスティの葬儀の時にいた?」


 アロエには、彼女に心当たりがあった。

 同級生の葬儀の時に、この辺りでは珍しい、褐色肌の少女が参列していたのを覚えていたのだ。


「ん。よく覚えているの。ボクは、アディーネ・ローラット。カンナ・ノイドさんから荷物を預かっている、運び屋なの」

「カンナから……!」


 カンナの名を聞いたアロエは警戒心がいきなり解けたように扉を完全に開け放って、早足気味でアディーネのいる門の前まで移動するとそのまま留め具を外した。

 近くに並び立つと、アディーネはアロエよりも随分(ずいぶん)と小さい。

 身長も、胸のサイズも。

 カンナの好みとは違うはずなのに、この時のアロエは妙に女の勘が働いた。


「荷物、ありがとうね。ところであんたさ」

「……?」

「カンナの、なに?」


 瞬間、アディーネの顔が引きつった。

 やはり自分の勘は正しかったのだとアロエは確信する。


 カンナの奴め、全然帰ってこないと思ったら、こんな少女を手篭(てご)めにして、あまつさえ正妻であるウチの前に浮気相手を送りつけてくるなんて。

 ……などと考えながら、アロエは施設の玄関の方へ振り向き、緊急退避をしようとしていた子供達に笑顔を向けて、“二階へ行っていなさい”のジェスチャーをした。


「アディーネさん、少し、お話ししましょうか♡」


 アロエの圧に、アディーネは戦々恐々としながらも従う他なかった。


──


 アロエに言われるがまま部屋に通されたアディーネはどこか落ち着かない様子で応接室のソファに腰掛けていた。

 彼女がこの場所を訪れるのは初めてでは無い。

 だが、以前とは状況がかなり異なっているから、本当はアロエと顔を付き合わせるのだって極力避けたいと考えていたのだ。


「こら、あんた達部屋に戻ってなさい!」


 応接間の扉の向こうからアロエの声が聞こえてくると、まもなく彼女が部屋に入ってくる。

 扉が開いた瞬間に、廊下から子供達の足音が響いてきたのを聞いたアディーネは、状況を把握した。


「ごめんなさい。ボクが来たせいで、子供達が寝られなくなっちゃったの」

「ああ、良いのよ。あの子達どうせ夜更かしするんだから。はい、カッファ。安物の豆でごめんね」

「いいえ、お構いなく……」


 アロエの目には、アディーネから汗のエフェクトが飛び散っているように見えている。

 困っているのか焦っているのか、落ち着かない様子であることはアロエにはバレバレであった。

 表情を変えないよう気をつけているアディーネだったが、顔色であったり目線の動きで意外と感情は読まれやすいのだ。


 ──ふぅん、カンナってこういうのも好きなんだ。


 アロエは目の前の少女に対して激しい嫉妬心を燃やしつつも、どこか複雑な心境だった。

 カンナが《銀の鴉(シルヴァクロウ)》として最後の戦いに挑む前、アロエに別れ話を切り出そうとしたことがあった。

 その時は別れることなく離れて暮らすことを選択したのだが、結局、あの日以来十年近くもカンナとは会えていない。

 たまに届く便りだけが二人の絆を繋ぎ止めていると言っても過言ではなかった。


 しかし、アロエはそれでもカンナを信じていた。

 自分を遠ざけたのは戦いに巻き込まれないようにするためだと。

 万が一にもカンナが敗北した時、自分をも逮捕されないようにするためだと。

 そう、言い聞かせ続けてきたのだ。

 

 だのに、カンナが手紙を託したその相手は、自分とは真逆のタイプの女の子。

 しかもその様子を見るに、既に関係を持っているっぽい……アロエの中の心の()り所が音を立てて崩れていくようだった。


「……ねえ。届け物、ここで開けてみても良いかな」


 アディーネは頷いた。

 アロエが受け取った包みの端を破って開封すると、中から出てきたのは一冊の本だった。


「これは、いつもの日記……か……あれ」


 アロエは直感的に思う。

 これは、妙だと。

 普段のカンナはこう言った日記に加えて必ず手紙を同封してくるのに、今回はどこにも見当たらない。

 念のためにページの間を探してみるが、そういったメッセージの類は全く見当たらなかった。

 しかも、日記の内容は尻切れとんぼになっていて、見るからに書いている途中である。


「これを渡した時、カンナは何か言ってた?」

「ん。ピスケス連邦へ向かう事にしたから、しばらく会えなくなるって」

「そう……なんだ」


 二人共が目を伏せて、しばし無言の時間が流れた。

 アロエはカンナの日記のページを(めく)り、アディーネはカッファに少しだけ口を付けて、それきりだ。

 お互いに気まずい雰囲気になり、余計に声が掛けられなくなる。


 アロエは日記の中にアディーネについての記述が極端に少ない事にも気付いた。


 ──これはいよいよ黒ね。後ろめたい事だから伏せていたんだ。


 カンナとアディーネの関係に確信を持ったアロエは文句の一つでも言ってやろうとアディーネへと向き直る。

 ところが、アディーネの顔を見た瞬間、喉まで出かかった罵詈雑言(ばりぞうごん)はすっと腹の底へと引っ込んでしまった。

 相変わらず表情を変えないアディーネの瞳の向こうに、深い後悔と、強い覚悟が見えた気がしたからだ。

 その眼差しに、強い既視感を覚えた。


「あんた、カッファ飲む時ブラックなんだね」

「え、あ、うん。そうなの」


 ブラックだからなんだというのだ。

 クリームを入れずにカッファを飲む人などごまんといる。

 そのはずなのに、アロエの心の中では言いようのない違和感が広がっていく。


 アディーネとは、何者だ。

 どうしてカンナの日記を持っている。

 どうしてエメダスティの葬儀に来ていたんだ。


 ──エメダスティの……そうだ、あの時も。


 あの時も、アディーネは今と同じ目をしていた。

 エメダスティの棺に向かって涙ぐむ人達を見ながら、クシリト・ノールの横であの表情を浮かべていた。

 そして……同じ顔を、荒木(あらき) 美園(みその)=エメダスティも──。


「なぁんだ、そういうことか」

「え?」


 アロエは手にしていた日記本を閉じ、テーブルの上に置くと自分の分のカッファを口に近付けた。

 香りを楽しむようにカップを揺らし、少しだけ口に含んでこくりと飲み下す。

 満足げな表情を浮かべたアロエは、悪戯(いたずら)な微笑みをアディーネに向けた。


「気が付いた? これ、安物だって言ったけど、本当はエックス……ハーヴェイ・シジャク様から頂いた最高級品なんだ」

「えぇッ!? そ、そうなの?」


 慌てるアディーネを見て、アロエはくすくすと笑った。


「うん、変に口調を変えるよりは、素の方がまだ良いね」

「あ……」


 ──まったく、詰めが甘いんだから。


「それで、アディーネはどうやってカンナと出会ったの」


 アディーネは一瞬迷ってから、やがて諦めたように素の話し方で語り始めた。


「……えっとね、あれはまだ梅雨入りの前だったかな。カンナちゃんがマムマリアへ渡ろうとしていたときにね──」


 アディーネは語って聞かせた。

 国境越えの戦いでカンナの相棒だったドラゴンが死んでしまったこと、その肉を二人で一緒に食べたこと、王国軍の動きを先読みしつつ海岸沿いを進んだこと、風呂でカンナに揉みくちゃにされたこと……。

 カンナをとある山村へと誘導してかつての仲間と再会させたこと。

 王都に入ってカンナの隠れ家に案内され、一緒に暮らし始めたこと。

 カンナとの思い出話の一つ一つをアロエに伝えていく。


 アロエは時折目頭を押さえながら、アディーネの話を頷きつつ聞いていた。

 それは、アロエ自身が成し得なかった、カンナと共に過ごす時間の話だ。

 素性もよくわからない少女に、アロエのポジションが奪われてしまった話だ。


 それでもアロエはアディーネに恨みを抱くこともなかったし、アディーネもまた、アロエに対して真剣に向き合っている。

 カンナを愛し、愛された二人にしかわからない世界。


「それにしてもさ、すぐそこまで来といて魔法国じゃなくてピスケス連邦に行くって言ったんだ?」


 この質問には、一瞬、アディーネが言葉に詰まった。

 マムマリア王国の王都レオとアロエのいる魔法国ハドロス領コリト地区は、かなりの距離が開いているものの、実は航路で結ばれており、定期連絡船も就航している。

 物理的には遠方でも、心理的には間近だったのである。

 もっとも世界的な犯罪者として手配されていたカンナ・ノイドにとって、そんな航路は使い物にならないのであるが、問題は、どうしてここまで来てコリトにいるアロエに意識が向かなかったのか、ということだ。

 それは即ち、カンナがアロエへの興味を失ったということではないのか。


「カンナちゃんは……」


 アディーネは困った。

 カンナがピスケス領に行くというのは咄嗟(とっさ)についた嘘である。

 カンナ・ノイドはもう、この世にはいない。

 彼女が最期の瞬間にアディーネに言い残したのは、“アロエに自分の死を伏せる”ことだった。

 

「カンナちゃんは……キミのことを一番に気にかけていたよ。ボクはね、結局最後までキミの代わりにはなれなかったんだ」


 アディーネが選んだのは、カンナの言葉を代弁すること。

 彼女がアロエに本当に伝えたかった言葉を。


「彼女は言っていたよ、“アロエのことを愛している”って。だから……」


 アディーネは再び何も言えなくなってしまう。

 なぜかと言えば、カンナを殺したのはアディーネなのだから。

 本来カンナの想いを代弁する資格など自分には無いのだと、アディーネ自身が考えているからである。


 アロエは、そんなアディーネの想いを知ってか知らずか、笑って答えた。


「あはは! なによ、そんなにしんみりしちゃってさ。もしかしてあんたもカンナに距離置かれちゃった感じ? まったく、罪な女だよね、カンナは。本当に、ウケるわ!」


 アロエの笑顔に釣られてか、アディーネもふっと口元を(ほころ)ばせた。


「本当に……奔放(ほんぽう)な人だよね、彼女は」


 そう言ってカッファをもう一口だけ含んだアディーネ。

 名残(なごり)を惜しむようにカップを唇から離すと、スッとソファから立ち上がる。


「──ごめん、ボクそろそろ行かないといけないんだ」


 え、と驚いた顔をして、アロエも立ち上がった。


「行くって、どこに」


 アディーネは笑顔で言う。


「知人の手術が控えているんだ。ボクが付き添う事になっているから、行ってあげないと」

「そう、なんだ」


 アロエの、アディーネを引き止めようと伸ばしかけた腕がゆっくりと降りる。

 旅立とうとする彼女の眼が、あの、覚悟と悲哀に満たされたものになっていたから。

 ここでアディーネを引き止めるのは無理なんだと、アロエは思った。


 せめてと思い、


「ねえ、明日の朝まではここにいれないの? ウチ、もう少しあなたの話が聞きたい」


 そう伝えてみるが、アディーネは首を横に振った。


「近くに飛空艇を待たせているんだ。すぐにでも行かなくちゃ」


 こうまで言われては止めることはできない。

 アロエは諦めて、せめて門の前までは彼女を見送る事に決めた。


──


 客人が去った後の応接間。

 部屋に戻ってきたアロエの前に置かれているのは飲みかけのカッファが二つ。


 アロエはソファに腰を下ろすと、自分のカップをアディーネのカップに軽くくっつけた。

 奏夜(そうや)と美園の世界では、送別の際にグラスを打ち合わせるのだと言う。

 それを、真似たのだ。

 陶器の乾いた音が部屋に小さく響く。

 揺れる液面に浮かぶ照明の色を眺めながら、アロエは呟いた。


「あんたもきっと、カンナのところに行っちゃうんだね、バカダスティ。本当に、異世界の人って勝手。勝手に愛して、勝手に逝っちゃうんだから」


 カップを置き、カンナの日記を手に取る。

 最後に書かれたページを指でそっとなぞるようにして、アロエは少し目を細めた。

──


ここまでお読みいただいた皆様、本当にありがとうございます。

良ければ評価、ご感想などをいただけると幸いです!


重ね重ねになりますが、完結までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!

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