魔女編32話 心に開いた穴
「ハァ……ハァ……」
朝、あれだけ気持ちの良かった青空は、いつのまにか陰鬱な雲に覆われている。
頬を撫でる生暖かい風の中に、少しだけ水滴が混じり始める。
梅雨の続き、あるいは夕立か。
雨足はみるみるうちに強まっていく。
「ハァ……! あはは!」
仰向けに倒れ、胸の辺りを鮮血に染めている我が宿敵。
ピクリとも動かずに、静かに雨に打たれている。
もう二度と、言葉を交わすことはあるまい。
「あはははは!」
私は彼の横で満足げな表情を浮かべていた。
我が左手は貫手の形のまま、大量の血液をポタポタとクシリトの胸に滴らせている。
やった、ついにやってやった。
感極まった私の頬を伝うのは、雨粒でなく、涙なのかもしれない。
私はゆっくりと、ノール家の建屋の方へ振り返る。
壁に磔にされたアルカは、うっすらと目を開けたまま、気を失っていた。
焦点を失った彼女の瞳は薄暗い雲をそのまま投影したかのように昏く沈んでいた。
氷に包まれた彼女の裸体は電熱と凍傷で酷く変色している。
完璧に思われた氷の拘束は、何と、そこかしこにクラックが入っていた。
父親を助けようと、あるいは私を殺そうと必死にもがいていた証だ。
「頑張ったんだな、アルカ」
私は彼女の方へと歩みを進め、氷を溶かしてやると彼女の惨たらしく美しい肢体を地面に横たえた。
氷から解放されてなお、アルカは虚な表情のまま雨に打たれている。
このままでは低体温症になってしまう──そう考え、私がアルカを持ち上げようと魔法腕を展開した、その時だった。
二つのことが、同時に起こった。
一つ目は、アルカの体が淡く発光を始めたことだ。
きっとこれが魔女化の予兆。
彼女が超越者に成る瞬間は、もう間近に迫っている。
そしてもう一つ。
それは我が身に降りかかった災難である。
ずぷり
──厭な、感触がした。
──私の左胸のあたりを、細長い何かが貫いていた。
「ゴフッ」
血を吐いた。
誰が?
私だ。
私の温かな命の雫。
それが、横たわり発光するアルカに降りかかり、彼女の体を真紅に染めていく。
私の胸を貫くのは長剣。
どこかで見覚えのある、魔法剣だった。
「この時を、ずっと待っていたんだ」
聞き馴染みのある声。
私の大好きな、あの子の声。
振り返ろうと首を曲げると、視界の端に褐色の肌が映る。
──なんで。
──どうしてなんだ。
「どうして、お前、が……私を殺すんだよ、アディ」
勢いよく剣が引き抜かれる。
魔法腕で体を支えていた私は、その瞬間、支えを失って地面へと落下した。
アルカの身体のすぐ脇に転がった私は、彼女に覆い被さらないよう気を付けながら上体を起こす。
見上げると、そこには全くの感情を無表情の仮面で覆い尽くした黒い少女が立っていた。
その手に握られている魔法剣は、確かにさっきまで私の胸を貫いていたものに相違ない。
私は胸に手を当てる。
腕を動かすだけで抉るような痛みが体の真ん中を突き抜け、夥しい量の血液が溢れたが、それでもこの胸に熱い脈動を感じる。
間一髪、凶刃は心臓を逸れていた。
「……あれ、心臓を刺したつもりだったんだけど」
アディはいつも通り無感情に言い放つ。
が、いつものアディと何かが違う。
同じように感情の起伏が感じられない話し方でも、普段のアディはもっと人間味があった。
アディの抑制された感情表現の中に、時々彼女の心根が垣間見える時があって、それがたまらなく好きだった。
表情筋は硬くとも、視線の動きで照れているのが分かるのが好きだった。
彼女が怒っている時、目に力が入って無表情が少し崩れるのが嬉しかった。
そんな彼女は今、本物の無感情で私を殺そうとしている。
恐ろしいことに、殺意すら感じない。
ただの機械的な作業のように、再び剣を突き立てようとしていた。
「ちょ……待て、よ。お前の目……的は、クシリトの殺害、だろ」
「ああごめん。あれは嘘なんだ」
アディは魔法剣を俺の右胸に突き刺した。
馬鹿野郎、お前、昨日の夜はその場所を愛おしそうに揉んでたじゃないか。
どうして躊躇いもなく凶器を突き立てられるんだよ。
「ボクの目的は、初めからキミだったのさ」
「どういう……ことだ」
魔法剣が引き抜かれると、先程よりも多くの血液が体外へと出ていってしまう。
私は必死に魔法力場で止血を試みた。
しかし、止血にばかり集中しすぎると防御が疎かになる。
もう、私の命なんてどうなっても良い。
だけど、この心臓だけはしっかりと守らなければ。
「ボクはキミを見極めようとしていた。キミがあの見晴台での戦い以降、どんな風に成長したのか知ろうと思っていた」
ざくっ。
右腕を刺される。
「するとどうだろう、キミは憑き物が落ちたみたいに真っ直ぐな生き方をしていた。少し、法の枷からは外れたモノではあったけど」
ざくっ。
左の太腿を刺された。
「気がつけば、また大好きになっていたよ。はは、何度騙されれば良いんだろうね、ボクは。僕は。私は」
「あで、ぃ」
ざくっ。 ざくっ。 ざくっ。
「だけど今日、ボクはキミの本性を知った。ボクはキミが、キミ自身の敵を殺害するぶんには仕方ないと思うようにしていたんだ。でも今日のキミは罪も無いスラムの人達を焼き払ってしまった。あれだけ別の方法が無いか模索していた“儀式”についても、結局はクシリトさんの家族を皆殺しにしたじゃないか。つまり──それがキミの答えなんだよね、カンナちゃん」
「お前、誰、だ……」
どう考えても普通じゃ無い。
今までのアディとは全く違う。
きっとアディの身体を乗っ取った何者かに違いない。
だけど……彼女の口ぶりからして、今まで一緒に過ごしてきた記憶は確かにアディの中にあるような気もする。
ともすれば、彼女は初めから偽りの人格を演じていたのか。
これが本当の、アディーネ・ローラット。
アディの握る魔法剣、あれはきっと見晴台の戦いで“彼”が使っていたものだ。
“彼”の憎しみが具現化した存在。
それがアディの正体なのだろうか。
そしてついに、剣の鋒が私の心臓に向けられる。
どうしよう、もうあれを防げるだけの魔法力は残っていない──!
焦る私。
無慈悲に腕を引き、突きのモーションに入るアディ。
命を断ち切る一撃を止めたのは、ある人物の一声だった。
「やめ、ろ……」
その声が聞こえた瞬間、アディの動きが止まる。
同時に、彼女の表情が僅かに動く。
このカオは、知っている。
アディがムッとした時に見せる、無表情の仮面が綻びを見せる瞬間だ。
彼女は私へ剣先を向けたまま、後ろに振り返って言った。
「生きていたんですか、クシリトさん」
そう、アディを止めたのはクシリトだった。
あの男、私が魔法で昏倒させたはずなんだけど、魔法も使えないくせに早くも自力で覚醒しやがった。
とはいえ体を動かすのも難しいようで、目線だけをこちらに向けながら掠れた声でアディに呼びかける。
「や、めるん、だ……たのむ」
「なんで……なんであなたがそんなことを言うんです、クシリトさん!」
アディは声を荒らげると同時に、私の方を一切見ずに魔法剣を横薙ぎに大振りした。
「うわっ」
咄嗟に首を竦めたおかげで助かったが、今の一瞬を油断していたら頭頂眼を切り裂かれていた。
今の私にとって、頭頂眼を失うことは即ち死に等しい。
止血の為の力場生成が出来なくなるからだ。
「今のを避けるんだね、カンナちゃん」
「──! わざとかよ、アディ」
殺気を感じさせないまま、隙あらば殺そうとしてくるアディは本当に恐ろしい。
怒り、憎しみ、その他諸々の感情を乗せて襲ってきたクシリトとはまるで違う。
“殺すのは当然の行為であり、そこに気持ちを込める必要は無い”とでも言うように、機械的に剣を動かしている。
彼女はある意味、暗殺者のごとき精神状態になっているのかもしれない。
つまり、私を殺すのは個人的な感情によるものでは無く、ある種の“責務”だと考えている節があるのだ。
仕事のように、淡々と。
そのような心理に追い込んでしまったのもまた、私だ。
「クシリトさんも、殺されかけておいてよくもカンナちゃんを庇えますね。彼女は奥さんの仇でもあるんですよ」
「わか……ってるさ。でも──」
……そうか、クシリトはなんとなく気付いているのか。私の意図に。
だから殺すのを引き止めようとしてくれているのかな。
しかしアディはクシリトの言葉に耳を貸そうとはしなかった。
それどころか彼に対して激しい憤りを感じているようだった。
私に相対するのとは真逆で、クシリトには憎悪にも似た感情を見せつける。
「どうしてあなたが彼女の味方をするんですか。二人で約束したじゃないですか……カンナちゃんを殺すって」
それは、いつの話なんだ。
「おい待て……アディ、お前は初めからクシリトと手を組んでいたのか」
私が尋ねると、彼女は私の方を振り返り、笑った。
少し前に見せてくれた、悪意の無い柔らかな微笑み。
その顔は、決して殺そうとしている相手の前で見せるような表情じゃ無い。
──私と言う悪魔を愛という武器でもって退治する天使の笑顔。
しかしその根底にあるのは紛れもなく狂気だ。
「ボクはクシリトさんの弱点を教えたでしょ。あれはね、キミをクシリトさんの元へ誘い込んで挟み撃ちにするための罠だったんだよ。現にキミはボクの情報を信じてボロボロになるまで戦い、不意を突かれた。ボクの作戦は大成功さ」
「私はお前を信じていたのに」
私が苦々しく呟くと、アディは私と目線を合わせるように、しゃがんで顔を突き合わせてきた。
「信じていたのはボクも同じ。だけど、それを無下にしたのはキミだ。もしかすると、クシリトさんを裏切るのはボクかも知れなかったんだ。ボクは本気でキミのことを好きになってしまったんだから」
なるほど、納得した。
アディもまた、私のことを好きでいてくれていたんだ。
そして、恋だとか愛だとかという感情は、少しベクトルを変えるだけで簡単に失望へと転化する。
それがアディが私を殺そうとする遠因。
憎悪から情愛に、愛情から嫌悪に変化させるのは簡単だ。
ただし失望というのは厄介で、一度でもこの心理に置かれると取り戻すのは困難である。
「──だけど今思えばキミへの恋心も、キミの持つ魂の総量に無意識に惹かれてしまったからなのかもしれないね。クシリトさんがそうであるように、ノール家の人達がキミを信用してしまったように、ボクもまたキミに洗脳されていたんだ」
私は洗脳したつもりなんて……いや、これに関してはたぶんアディが正しい。
そして、魂の総量という不正行為を利用しながら生きてきた私には、洗脳と言われても否定することはできない。
「まあ、ボクも知らず知らずのうちにキミを魅了してしまうほどの魂になっていたみたいだけど、やっぱり‘サイコパス’には勝てなかったね」
「そんな……アディは……私が‘サイコパス’じゃなくて‘ソシオパス’だって、言ったじゃないか」
私はあの一言で随分と救われたのに。
脳の欠陥であるサイコパスではなく、後天的なソシオパスであれば、きっと真っ当な思考に矯正が出来るはず。
大浅 奏夜を忘れて、ただのカンナ・ノイドとして生きられると思えたきっかけは、アディのくれた言葉だったんだ。
しかし、彼女は冷たく言い放つ。
ほんのり笑顔を浮かべながら、大きく目を見開いて、その、仄暗い穴の底のような眼差しを向けて。
「知らないよ、ボクにとってはどちらも異常者なんだから」
ああ。
私の中の何かが崩れていく。
精神的な支柱の一つが綺麗さっぱり無くなってしまった。
心にポッカリと穴が開いてしまったどころか、その穴からアディと過ごした日々の思い出まで吸い出されていくよう。
「アディ……お前は……」
私がこの後、どんな台詞を続けようとしたのか、わからなくなる。
想いのままに溢れてきた言葉は、その行く先を無くして宙へと霧散してしまった。
それと同時に、ふと気付く。
きっと恋に曇っていた視界から余計なものが剥ぎ取られ、妙に冷静になったのだ。
私はこう思った。
──待てよ、何故アディは魂の量について言及できるんだ、と。
今思えば、アディには幾つもおかしな言動が見られた気がする。
それが彼女という人物を考える時のヒントになっていたんだ。
【唐突な「カンナちゃん」呼び】
アディは普段、フルネームやファーストネームを呼び捨てにすることが多いのに、時折私を敬称付きで呼ぶのだ。
アディも私と仲良くなりたくて、あえて愛称みたいに使っているのかと思っていたが、彼女がカンナちゃんと呼ぶ時は、大抵が慌てている時や本音を覗かせる時だった気がする。
【慌てた時に、少し吃る】
慌てた時といえば、彼女は稀に吃りが入っていた。
それはそれで自然な反応なのかもしれないが、アディのキャラを考えると違和感がある。
むしろ、あれが素の反応で、普段が偽りだったと考えた方がしっくりこないか。
【マイシィが呼び捨てにするほどの間柄】
これについては前から疑問に思っていた。
マイシィはアディとは違い、初対面でも、どんなに仲が良くても、敬称付きで相手を呼ぶ。
怒っている時は別だけど、普段呼び捨てにするのは夫婦ほどに親密な関係の人物だけだ。
そういえば一人だけ……マイシィがニックネーム呼びを徹底していた奴がいたな。
あれはあれで信頼の証だったのかもしれないが──しかし……。
【見覚えのある魔法剣】
……そうだ。
アディは今、魔法剣を握っている。
この世界、特に旧魔法帝国領内において、剣は騎士の証であり容易に手に入れられるものではない。
魔法銃の方が入手が楽なくらいだ。
それなのにアディは剣を隠し持っていた──しかも、あのデザインは間違いなく“彼”の物。
“彼”の遺品を受け継いだ可能性もなくはないが、全てを総合すると、アディーネ・ローラットは────。
【サイコパス/ソシオパス】
そういえば、アディはどうしてサイコパスやソシオパスといった《科学世界》の精神用語を知っていたんだ。
魂の量についての知識、かの世界についての知識。
これはアディが情報屋だからという理由で片付けて良いものだろうか。いや、違う。
……“彼”には時々、《科学世界》の単語を理解しているような節があった。
いつだったか、彼は自分の名前の入ったラベルを見て、怪訝そうな顔をしていたっけ。
そのラベルに書かれていたのは──日本語だったのに。
ああああっ、畜生、なんでこんな時に気がつくんだ。
マイシィ達が《銀の鴉》が私の組織だと見抜いたのは、組織の名が英語だったからに違いない。
証拠がどうとか関係なく、あれを名乗った時点で持ち主が割れていたんだ。
だから疑いもなく私を責めてきたんだろう。
「アディ……お前は……」
今なら、この台詞の続きが言える。
今まで忌避していた事実を確認するための言葉を紡ぐことが出来てしまう。
私は呼吸を整え、言った。
「お前は、エメダスティなのか。そして────《科学世界》よりの転生者。そうだろう?」
瞬間、アディから表情が消えた。
彼女の口角、目元、眉根、耳の角度まで、顔面のあらゆる筋肉が弛緩していく。
それからほんの少しだけ目を細めたアディは、静かに答えた。
「凄い、よくわかったねカンナちゃん。ボクの正体だけじゃなく、転生者であることまで」
「白々しいな。サイコパスだとかなんだとか、わざと向こうの単語を使って気付かせたんだろう」
アディ……エメダスティは頷いた。
私の大好きな、あの微笑みを湛えて。
今ならわかる。
この顔は、昔、私を膝枕してくれた時に見せていた笑顔じゃないか。
「本気で好きだったから、気付いて欲しくなったんだ。まあ、それもこれも今となってはボクの黒歴史だよ」
「隠したい過去ってことか。悲しいな、あんなに愛し合ったのに」
エメダスティはくすくすと笑った。
もうアディという人形を演じる必要がなくなったからか、その所作は完全にエメダスティのものだ。
「それにね、キミにはもう一つ、知っておいてほしいことがあるんだよ」
「なんだ?」
何かを慈しむような表情になったエメダスティは、私の方へと身を寄せて、耳元でそっと囁いた。
『私は荒木 美園だよ。久しぶりだね、奏夜』
直後。
私の胸のど真ん中に、エメダスティの魔法剣が突き立てられた。




