魔女編30話 鮮やかに紅の華咲く
俺はセシルと二人、部屋に取り残された。
時折彼の額に触れて体温を確認し、高くなってきた時は冷たい霧を当ててやる。
俺は彼の髪の毛先にそっと触れた。
彼はすやすやと眠り続けている。
セシルを見ていると、なんだかロキを思い出す。
喧嘩から始まった関係であることや、普段はきつい言動が目立つのに、ふとした時に甘えて来るところ。
──当時のロキよりも今のセシルの方が年齢は上のはずなのに、大人びているのはロキの方だけどさ。
「あの時の幸せは、取り返せるのかな」
上手くやらないと。
俺は改めて心に誓う。
「全部が落ち着いたら、アロエに会いに行こう」
懲罰を避けるために随分遠くまで来てしまった。
アロエには寂しい思いしかさせていないし、なんとかして帰る方法を考えよう。
ノール家の人……つまり黒の魔女を生み出すためのトリガーもわかったし、彼らとの関係性もかなり変化したからな。
歴史の巻き直しを急ぐ必要は無くなったんだ。
だから、もう少しだけ──彼女の隣にいさせてほしい。
……アディと浮気をしたことはどうやって詫びよう。
つーか今更だけど、俺ってアディに対してもかなり失礼なことをしていないか?
自分の苦しさを紛らわせるため、恋人でも無いのに体の関係を持ってしまったのだから。
はは、考えてみれば、俺って実は恋多き人間なのか?
ロキにアロエにアディ、セシルのことも割と気に入っているし……想いに応えることは出来なかったが、エメダスティやシアノ──ソランも大切な存在だ。
前世の頃の方がよほど多くの性的関係を結んでいたけど(数えていないけど百人斬りは達成しているに違いない)、今の方がよほど恋愛体質だと思う。
それともこの辺りはサイコパスとソシオパスの違いなのだろうか。
先天的に脳に異常があった奏夜と、脳は正常でも魂が異常だったカンナ。
──ううん、そんなことを考えるのが無駄だな。
もしかすると俺は、自分自身に貼ってしまったレッテルに縛られ過ぎていたのかもしれない。
“サイコパスである大浅 奏夜の転生体”という固定概念に振り回されていたのかな。
これからは考えを改めないと。
俺はもうサイコパスの奏夜じゃない。
私はこの世界を生きるただのカンナ・ノイドなんだ。
ここに至るまでに遠回りをしすぎてしまったけれど、私はもう、大丈夫だ。
私が一人で哲学に耽っていると、部屋の扉が開いた。
「セシルの様子はどう?」
「アル……じゃなくてエリスか」
てっきりアルカがクシリトを連れて戻ってきたのかと思ったが、入ってきたのは先に出て行ったはずのエリスだった。
その手にはタオルの入った桶が握られている。
そうか、セシルのために取りに行ってくれていたんだな。
少々時間がかかったのはどうも解せないが、どこかで泣いていたのかもしれない。
「セシルは、さっき落ち着いて眠ったところだよ。まだまだ体温調節は他人が面倒を見なければいけないけど、山は越えたんじゃないかな」
「そっか……可哀想ね」
ん? 可哀想?
まあ確かに、しばらくは不便だろうな。
これが私のいた時代の日本だったら後遺障碍を一生に渡って引き摺ることになりかねなかったが、ここは《魔法世界》。
表皮を汗腺細胞ごと培養して移植するのも出来ない話ではいはずだ。
「セシルにとってはもう少しの辛抱だな」
私がそう言いながらセシルの髪を撫でると、焼け焦げていたそれはボロボロと崩れ落ちてしまった。
私は慌てて手を引っ込める。
ちょっと毛先がチリチリになってしまった程度かと思ったが、髪の毛の大部分が炭化してしまっているのかもしれない。
よくもまあこれだけの炎から生き残ったよ。大した奴だ。
「……ねえ、知ってる? セシルってばカンナのことが好きだったんだよ」
「あ、うん。そうみたいだな」
私がそう仕向けた、というのが真相なんだけど。
過剰にボディタッチをしてみたり、わざと素肌を見せつけてみたり、な。
それでもまさか命懸けで私を助けてくれるほど好いてくれているとは思わなかった。
何気なく撒いておいた種が、意外な形で芽吹いたって感じだ。
「いっつも家に帰ってくる度に“カンナからこんなこと教わった”とか“もう少しで勝つ”だとか、嬉しそうに話してた」
「母親の仇のはずの私に、そこまで入れ込むなんて相当だな」
「……そう。本当に馬鹿な子」
私は桶に氷水を張ってタオルを浸し、軽く絞ったそれをセシルの首の上に乗せた。
魔法で少しだけ風を送ってやると、彼はくすぐったそうにしながらも、表情がとても柔らかになった。
頭よりも首元を冷やす方が効果的と聞くからな。
身体に触れるとまだ少し熱い気もするが、こうやって濡れタオルで冷やしているうちは大丈夫だろう。
私はセシルの頭頂眼に自分の頭頂眼を近づけて、治癒の魔法をかけ始めた。
エリスはその様子を微笑みながら眺めている。
「大好きなカンナ先生に手当てしてもらえて、セシルは幸せだね」
「そ、そうなのかな」
む、なんか照れるぞ。
エリスにそう言われると、なんだか家族公認のお付き合いをしている気分になる。
別に恋人関係ではないにせよ、私を取り巻く恋愛関係の一端には違いないからな。
ちなみにロキの時は、初めて親御さんに会ったのは彼の葬儀の場だったから、そういう甘ったるい空気を相手の家族に茶化されるなんて経験をしたことは無かった。
アロエについては同性愛故におおっぴらに出来ないところが多く、家族公認ではあるけども、心から打ち解けるようなことは出来なかったように思う。
「未来では、皆が幸せになれればいいな」
私の言う“皆が幸せ”とは世界平和だとかそんな大それたものではなく、私の周りの人たちが等しく幸せに、という感じだ。
もしも歴史の修正がうまくいったなら、あるいは。
そんなふうに考えてしまう。
「それは難しいよ。カンナ」
「どうしてそんなことを言うんだよ。夢見るくらい良いじゃないか」
アルカは私の背後にそっと近づいてきて、寄り添うように肩を抱いてきた。
優しい手つきで、慈しむように。
なんだろう、触れているだけで彼女から悲しみの感情が流れ込んでくる気がする。
言葉には言い表せない、深く暗い悲しみの色だ。
そしてエリスは、とある事実を打ち明けるのである。
「私ね、もう長くないんだって」
「へ?」
「生まれつき心臓が弱かったんだけど、ほら、私最近無理して働いていたじゃない? 体を売るために合わない避妊薬を飲み続けて……」
そう言えば、彼女の身体は酷く痩せこけている。
体が弱いとは聞いていたけれど、もしかして、余命幾ばくも無いということなのか。
「もう、限界だったんだ。心も体も、悲鳴を上げてた。お母さんが殺されて、働かなきゃいけないのに普通の仕事では無理で、嫌いなおじさんともエッチしなきゃ生きていけなくて。それで……セシルまでこんな目に」
「……そう、か」
エリスの人生を狂わせたのは私だ。
私がクシリトを策略に巻き込まなければ。
いや、帝国派を滅ぼすことをしなければ。
あるいは帝国派に目を付けられる原因となったタコヤキの開発の助言なんてしなければ。
もっと言えば──私が生まれてなど来なければ、エリスは今でも幸せだったに違いない。
「でもね、変なんだ。あなたのことをあれだけ恨んでいたはずなのに、今は感謝すらしてしまっている。私、変だよね。セシルも、きっと……どこかがおかしくなってしまったのよ」
“魂の総量”……。
おそらくエリスもセシルも、私の内包する魂に魅せられてしまったんだ。
転生者の持つ、生まれつきのカリスマ性に。
普通は生まれてからの人生経験で磨かれるべきそれを、初めから持ち込んでしまっているという、人生における不正行為。
「私には、人の魂に揺さぶりをかけ、魅了してしまうという悪徳があるんだ。エリスもセシルも、それにきっとアルカだってそれに影響を受けているんだと思う。だから、その気持ちはまやかしだ。気に病む必要なんかないさ」
エリスは勢い良くかぶりを振った。
強い否定の意思。
では私の存在を拒絶しているのだろうと思ったら、どうも、その逆のようだった。
「そんなこと言わないで、カンナ。私は──私はあなたのことが好きなの。愛しているの! この気持ちをまやかしにしないで!」
「いやいやいや、ちょっと待て。どうしてそうなる。お前も……お前もなのか、セシルだけじゃなく、エリスも──」
私は狼狽えた。
“ああモテモテで困っちゃうわ、私♪”とはならなかった。
だって、これは流石に異常すぎる。
いくら私の魂が他の人間とは違うとは言っても、これほどの短期間に、複数の人間……それも本来は憎まれて当然の人間からこれほどの好意を受けるなんて。
一体何が起きている?
これは尋常じゃない感情の変化だ。
何かあると考えるのが普通だ。
──魂が暴走しているのか。
──それとも、その時が近づいている証なのだろうか。
“特異点”。黒の魔女の、誕生の時に。
「私ね、考えてたんだ。私がいなくなる前に、家族に遺せるものは何かって。それで、気が付いたの。これからも介護が必要になる可哀そうなセシルの為に……あなたを残してあげれば良いんだって」
「おいおいセシルは要介護者扱いかよ。今は大変だろうけど、ちゃんと回復するさ。だから」
私の言葉を遮るように、エリスは叫ぶ。
「違う! 私があれだけ苦しんだもの、セシルだってずっと苦しむのよ!」
ちょっと、何を言っているのかわからない。
確かにエリスは辛い人生を歩んできただろう。
ずっとずっと苦しくて、助けて欲しくて仕方がなかったのだろう。
でも、その言い方じゃあ、まるでセシルにも苦しんで欲しいみたいじゃないか。
自分と同等の苦しみを家族に望んでいるようじゃないか。
しかし、分かる、わかるんだ。
エリスは本気でセシルを心配しているって、声色からはっきりと伝わってくるんだ。
だからこそ余計に分からない。
エリスは一体どうしてしまったのだろう。
「あなたを愛しているわ、カンナ。だからあなたはきっと、これからも私達の家族を支えてくれる。アルカもなついているし、良いわよね? あなたが生き残ることが二人の幸せなのよ!」
「な……ッ」
矢継ぎ早に飛び出してくるエリスの狂気に、私は何も言えなくなってしまった。
一つ一つの文にはしっかりと意味がありそうなのに、まるで繋がっていない。
AIが適当な文章を自動作成しているような、そんな違和感。
「そのためにはお父さんの存在が邪魔なのよ。いいお父さんだったんだけどね、お母さんが殺されてからおかしくなっちゃった。今だってカンナを殺そうとしているし、セシルだって殺されかけた。あの男は、危険よ」
「エリス」
「だから、お願いよカンナ。お父さんを殺して。私たちの家族を守って」
「エリス!」
ああ……エリスにこんな台詞を言わせているものが何か、今の私には分かってしまう。
エリスをこんなにしたのは、紛う事なく私だ。
仲の良かった家族を引き裂いて、狂気に染めたのは私なんだ。
「だからね、カンナにあげる」
何を、とは聞けなかった。
私が尋ねる前に、エリスが事を起こしたからだ。
彼女は隠し持っていた調理用ナイフを自らの首筋に当てて、一気に腕を引いたのだ。
その間、一瞬たりとも動きを止めるようなタイミングは無く、まるで流れるような動きでエリスは首の動脈を解放した。
「私の脚……あなたにあげる! 私が死んだら、切り取って持っていってぇえええ!」
「バッ──何してんだエリス!?」
自殺するときに出来るはずのためらい傷なんてひとつもない。
エリスは初めから覚悟を決めていたように、一才の迷いなく頸動脈を断ち切った。
「あ゛ああァ゛ァッ、凄い、赤い、赤い゛のォォ!! 綺麗──なの、イ、ッグゥウウ」
部屋の至る所を、エリスの鮮血が染め上げていく。
空気タンクがいっぱいになった水鉄砲のように。
園芸用の噴霧器みたいに。
床を、壁を、私の体を、セシルの体も、何もかもを血液で彩色していく。
私は生暖かなその体液を身体中に浴びながら、魔法腕を用いてエリスに飛び掛かった。
首を圧迫し、止血しようと試みる。
同時進行で全力の治癒魔法を掛けるが、果たして間に合うのだろうか。
今の一瞬で身体中の血が抜けてしまったんじゃないかというぐらいに、部屋の中には大量の血溜まりが形成されていた。
「カン、ナあ゛ああ、私の脚、使っでぇぇええ♡」
「──クソがぁああ、何でこんなことをするんだエリィィス!」
毒づいてみても、状況が変化するわけではない。
狂ってしまったエリスを止めるには何もかもが遅すぎたんだ。
それでも諦めるわけにはいかない。
何とかしないと、何とかしないと、何とかしないと!
【高速バスの中、ルームミラー越しにその光景を見た】
【美園が包丁を突き立てる度に、少女の、あるいは少年の血液が飛沫となって飛び散った】
な、何だ──!?
【やがて後部座席の周辺には血の海が出来上がった】
や、やめろ。
【運転席にいた俺は、自分の計画がうまくいったことを確信し】
やめてくれ────!
【一人、ほくそ笑んだ】
ふざっっけるな、なんてものを思い出させるのだ。
あれは俺が死んだ日のこと。
私が生まれる前のこと。
同じような光景の中で、俺は……笑っていたんだ。
ああ、あああああッ……。
なんて、ことだ。
なんて酷いことをしてしまったんだ、私は。
あの二人、名前はなんて言ったっけ。
私が命を奪った人間なのに、私は名前を思い出してやることすら出来ないのか──。
私は涙を流していた。
今更になって後悔するなんて。
私はどれだけの罪を背負っているんだ。どれだけの償いをしなければならないのだ。
畜生、これ以上死なせてなるものか。
私はもう、サイコパスの大浅 奏夜なんかじゃない。
「私は銀の魔女、カンナ・ノイドだあああああ!」
私は頬の涙を腕で拭い、気合を入れ直した。
やってやろうじゃないか、私はエリスを死なせない!
血溜まりの血液を魔法力場で操作する。
水魔法の要領だ。
出来る、私には出来る!
どれだけ魔法を練習してきたと思っている!
どれだけの修羅場を潜ってきたと思っているんだ!
何をしようとしているのか。
そんなものは決まりきっている。
──床に溜まったエリス自身の血液を、彼女の体内に輸血するのだ……!




