魔女編27話 真空裂波
追われる俺と、追うクシリト。
南へ向かって飛行する俺の後方から容赦無い攻撃が浴びせかけられるが、今はなんとかギリギリで躱し続けている状態だ。
ギリギリになってしまうのは精神に余裕のある時みたいに“必要最低限の挙動で避けている”からではなく、本当に見切るのが厳しいからだ。
現に俺の体は既に擦り傷切り傷だらけであり、持ち前の自己修復能力がなければ、今頃は出血量が笑えないレベルになっているかもしれなかった。
全く、いつになったら奴の魔法使用の限界が訪れるんだ。
アディの情報を疑うわけじゃないけど、クシリトの精神力の底が全く窺い知れない。
昔戦った時とは比べ物にならない程、無尽蔵に魔法を行使してくるのだ。
俺は既に、防戦一方になっていた。
飛行しながら背後に気を配り、避ける動作を繰り返す。
俺は今、戦争映画で飛行機乗りがよく言う“背後を取られる”状態がいかに不利なのか、身をもって体感している。
「チッ、このままじゃ埒が明かないぞ」
俺は体を捻って敵の氷弾を避けつつ、雑木林の方へと降下を開始した。
あの林を越えるとセシルが待っているであろう川原がある。
普段は林など飛び越えてしまうけど、今回ばかりは遮蔽物の多い環境に飛び込んだ方が良いと思う。
クシリトに比べれば俺の方が体が小さいし、魔法腕や魔法翼は小回りを効かせた動きに役立つから、風魔法で飛行するクシリトを撒くには林の環境はもってこいだ。
俺は木々の中に身を突っ込ませると、着地し、過電流を利用した筋肉操作による跳躍を開始した。
電流が俺の脚に作用し、限界以上の力を引き出す。
──何も考えずに前へ跳ねろ。
障害物など気にするな。
魔法腕で木々を弾いて無理矢理軌道を変えてやる──!
「甘いぞカンナ・ノイド。立体機動から平面移動に切り替えたのは命取りだったな」
俺の地獄耳が背後で呟くクシリトの不穏な台詞をしっかりと捉える。
平面だと?
俺は木々を弾きながら、左右方向だけでなく、高低差も付けて移動しているんだぞ。
なるべくランダムな動きになるように、行く先を悟られないようにと。
「集え、森の息吹、錆の素、蒼き粒子──」
呪文の……詠唱!
クシリトは俺を追いながら、長々とした呪文を唱え続ける。
この世界の魔法には本来呪文は不要。
それでも何かしら口にしながら技を出すのは、イメージ補助のためである。
魔法の達人であるクシリトが、この状況下で、こんなにも長い詠唱を行うということは、つまり。
──次に来るのは、間違いなく大技だということ。
そしてそれは────この俺に致命傷をもたらす程の高威力である可能性が非常に高いということだ。
平面移動は命取り……クシリトの台詞を思い返す。
あれは、たかだか数メートルの高低差など誤差の範疇だと言わんばかりの範囲攻撃魔法を持っているという意味なのではないか。
「──! 飛ばないと」
俺は魔法翼を展開し、再び上空へと飛びあがろうとした。
が、しかし。
「今更逃れようたってもう遅い! 全てを滅せよ、“真空裂波”!」
クシリトが突き出した掌から、恐るべき勢いで風が迫ってきた。
そして──。
次に俺が目にした光景は、どこまでも広がる青い空だった。
草の一本すら生えていない、荒涼たる平地だった。
風の音すらも存在しない、無音の空間。
音がしないのは当然だった。
何故なら、今、この世界の時間は静止している。
──否。
ゆっくり、ゆっくりと、カタツムリの歩みのような速度で時は流れている。
いつの間に時の大河の止水域に来てしまったんだろう。
こんなにも時間をゆっくりに感じるなんて。
俺はクシリトの方へと目を向けた。
奴もまた、腕を前に伸ばした状態で固まっていた。
彼の背後には先程まで俺がいた雑木林の世界が取り残されている。
一方、彼の前からは不毛な大地だ。
彼を中心に、前方半径三百メートルの半円内の一切が消え失せてしまっている。
吹き飛ばされた……んじゃない。
本当に、何もかもが存在しなくなっていた。
彼の言葉通りに“全ては滅せられた”のである。
では何故、俺は空を見上げているのだろう。
どうしてこんなにも時間が遅いのだろう。
──その答えは、やがて動きを取り戻した、本来の時間の中で判明する。
「あ゛ア゛あああァあ゛アアアアッ────!!」
気が付けば、俺は地面の上でのたうち回りながら、自分でもよくわからない絶叫を上げていた。
声帯が引きちぎれるんじゃないかという勢いでひたすらに母音を叫んでいる。
一体、なにをしているんだ、俺は。
「あし、……あしがァァあああ゛あ゛!!」
あし……足……脚?
俺は──何を──。
そして、俺の中の正気は、事態に気がついた。
感覚が無い。
脚先の、いや、太腿から先の、感覚が全く無いのだ。
見てしまった。
目視してしまった。
──俺の右脚のふくらはぎから下、左脚の大腿部より先が消滅しているのを。
「ア゛アぁアッ! お、俺の脚……脚が無いぃぃいイイ゛い!!」
自分の状態を認識した途端に襲ってくるのは、尋常じゃないほどの恐怖だった。
痛いのは痛いが、多分脳味噌が痛みの回路をぶっ飛ばしてくれているから、まだ耐えることが出来る。
だが、これから自分の身に何が起きるのかを考えた時にたまらなく怖くなった。
どうして俺がこんな目に。
黒の魔女を生み出すために、アルカ以外のノール家をぶち殺す役目だって遂行できていないのに。
その役目が終わるまでは死ぬことは無いはずなのに。
まさか──魔女に騙されたのか?
初めからノール家の殺害と魔女の発生は無関係であり、単に俺を嵌めるために魔女が嘘を吐いただけなのでは。
ああ、止めだ止めだこんな思考。
今考えたってしょうがないことは後回しにしよう。
考えるべきは、生き残る方法だ。
「ちくしょう、くし、りと……クシリトぉぉおおお!!」
痛みも、恐怖も、全て怒りに塗り替える。
クシリトへの恨みを原動力にして状況を好転させるのだ。
そういえば、呪いとか心霊の類は《科学世界》の専売特許なんだっけか。
では、かの世界出身の俺は、堂々と宣言しよう。
「この野郎、呪ってやる」と。
俺は魔法腕を操作して上体を起こす。
さらに、脚の切断面を氷漬けにして強制的に止血すると共に、冷たさで痛みをかき消した。
クシリトが余裕ぶって歩いてくるのが見える。
どこまでも舐めた態度で居やがることに、心底恨めしく思う。
本当に呪い殺すぞ、うらめしや。
「カン、ナ……もう、諦めろ。お前は、ここで終わりだ」
「ハッ、誰が……諦めるかよ。往生際が悪いんだ、俺は」
脂汗をかきながら、俺はクシリトと対峙する。
魔法腕、魔法翼。魔法力場の形成法を編み出しておいて良かった。
今なら失った脚の代わりに魔法脚でも作ることだってできるからな。
「クッ、だが本当にお前の命運は尽きたぞ。……この状況、お前は、ゲホッ──詰み、だ」
瞬間。
クシリトの放った“そよ風”が、周囲の魔晶をすべて吹き飛ばした。
俺を中心にぽっかりと、魔晶の無い空間が出来上がってしまう。
魔晶が無ければ力場を練っても反映させるものが無い。
魔法腕の類は一切が無効化される。
「うそ、だろ」
体の支えを失くした俺は、地面へと落下し背中を強打した。
肺の空気が強く押し出され、呼吸が出来なくなる。
怒りで塗りつぶしたはずの恐怖が再び俺を包み込む。
耳元で死神が囁いているみたいだ。
俺が十数年前、飛空艇の中で戦った、あの、死神だ。
“ふふふ、貴女も早くこちらへいらっしゃいな。カンナさん”
そうやって俺を嘲笑っているんだ。
「い、嫌だ……死にたくない、死にたくない──!!」
俺は地面を這ってクシリトから少しでも距離を取ろうともがいた。
そんなことをしたってどうにもならないことくらい、冷静になれば簡単に判断が付くはずなのに、俺は無様にも芋虫のように体をくねらせながら逃走を続けようとする。
そんな俺の右手の甲を貫くように、背後から炎の弾丸が打ち込まれた。
魔晶を散らされた空間ではクシリト本人も魔法が使えないはずなのに。
俺の右腕は完全に炎に包まれて肉が焦げた時の匂いを撒き散らしていた。
「熱い、熱い熱いアツイ!」
あまりの熱さに悶える。
地面を転げまわって消火しようにも、両脚が無いのでそれも難しい。
俺は右腕を地面に何度も何度も叩きつけた。
腕がひしゃげようと、骨という骨が折れようとお構いなしに、炎を払うべく懸命に腕を打ちつけ続けた。
「──ううう……もう、許してくだざい」
終いには何も考えられなくなって、そんな言葉が自然と口から零れ落ちた。
地面をずりずりと這って体の向きを変え、残っていた左手でクシリトのズボンの裾を掴む。
「お願いです。あやまりばすから、許じで、ください゛」
俺は必死で奴の脚を掴み、顔を見上げた。
そこには能面のような表情で俺を見下ろす夜叉が一人、右手に魔法銃を構えて俺に銃口を向けている。
そうか、アレで撃たれたから右手が燃えたのだと朧げに理解する。
今更だけどな。
「おね゛がい、なんでもじばす。おがねもあげる゛、し、セックスだって、なんだっでしてあげるがら」
俺は、クシリトに蹴り飛ばされた。
受け身も取れすに大地に転がる俺。
「ふざけるな、僕が愛するのは妻だけだ。お前が殺した、メイサだけだ!」
ああ、間接的に俺が殺したことになるのか。
それは悪いことをしたな。
「いたぶってから殺そうと思っていたが、もう死んでしまえ、カンナ・ノイド!!」
クシリトが引き金に指をかけるのを、俺は虚ろな目で見つめていた。
あーあ、ここでゲームオーバーか。
次に生まれ変わったら、その時は上手くやらないと……。
あるかも無いかもわからない来世という奴に思いを馳せていると、事態が急変する。
「ゲホッ、ゴホッ──はぁ……ハァ……うぐぅッ!?」
突然、クシリトが苦しみ始めたのだ。
いや、予兆はあった。
大技を使ったあたりから、クシリトもまた苦痛に顔を歪めていたんだ。
──義眼の、使用限界!
ついに待ち望んでいた瞬間がやって来たのだ。
俺がクシリトを打倒しうる唯一無二の勝機。
「ああああッ! くそッ、僕の脳が壊れる前に、こいつを殺すッ! 殺す、殺す、コロス!」
あかん、こんなの勝機じゃない。
相手は既に正気じゃないんだ。
クシリトは最後の力を振り絞って魔法銃を構え直した。
そして──。
引き金は、確実に引かれていた。
銃口から真っ赤な炎が噴き出してくるのを、俺は確かに見た。
だけど、届かない。
クシリトの怒りを全部込めたはずの炎魔法は、俺には決して届かない。
何故ならば。
「お前……なんで、そいつを庇うんだ──ケホッ、そいつは母さんの仇だぞ……!」
「グフッ──うるせぇ、クソ親父。お前におれの気持ちが分かるかよ……! ううッ……!」
俺を守るようにして、腕を大きく広げて、クシリトの前に立ちはだかった存在がいたからだ。
彼はクシリトの最大出力の火炎弾を受けて、体を炎に焼かれながら、それでも父親であるクシリトに明確な敵意を向けたまま、仁王立ちを続けている。
彼の名は、セシル・ノール。
俺とクシリトの双方に恨みを抱いていたはずの、あの青年だ。




