入学編09話 忠告
「!? ──マイシィ、それ……」
マイシィの指からポタポタと血が滴っていた。
右手の人差し指と中指の辺りに深い切り傷。どこかで切ったのか?
「ろ、ロッカーに、かみそり……?」
マイシィの横にいたおさげ髪の子が教えてくれる。彼女は、開いたロッカーの扉部分を指さしながら、固まっていた。
私は大股で彼女の方へと歩いていった。
黒髪のクラスメイトも遅れてやってきたがとりあえず無視だ。
マイシィの背後を通ってロッカーの扉の外側を見た。取手の部分に血が付いている。
「うそ……取手にカミソリ付けられてたの!?」
黒髪の子が驚きの声を上げた。
しかしそんな事は私も把握できている。いちいち声に出さないでほしい。今大事なのは、誰が、何の為にこんな事をしたかだ。
(……違う、だろッ! 私は馬鹿か!!)
私は自分の頬をピシャリと叩く。いちばん大切な事は、マイシィの怪我の心配だろう。犯人捜しじゃない!
「マイシィだいじょ……う……?」
私が声をかけようとした時、マイシィはこちらを見ていなかった。大怪我を追ったはずの右手は、ロッカーの扉にかけられたまま気にしている素振りもない。
私達の声は恐らく聞こえていない。ただ一点を、ロッカーの中身を見つめるのみだ。
──破壊された、大切なペンダントだった何かを。
「うそ……なんで……うそだ……うそだ……いや……」
ペンダントのチェーンは何か所も切断され、ペンダントトップの貝殻は破壊され、金属部分もひしゃげていた。
悪質なのは、ペンダントを盗む、破壊する、ではなく破壊して元の位置に戻したことだ。わざわざ本人に破壊してやったことをアピールして、マイシィに心理的ダメージを与えようとしている、そんな悪意が透けて見える。
「きもちわるいきもちわるいきもちわるい……!」
マイシィはうわ言のように何かをブツブツと呟く。やがて、血が服についてしまうのも構わずに両手で口を押えて、嘔吐きだす。
私はマイシィの背中をさすってあげようと手を伸ばしたが、間に合わず、ついに彼女はその場で吐いてしまった。
「マイシィちゃん!」
おさげの子が駆け寄ろうとするのを、私が手で制した。どうせマイシィの方へ来たところでできることは何もない。私が傍について介抱しているのだから、彼女がやるべきは別の事だ。
「先生呼んできて」
「──え、でも……」
「良いから早くしろ!!」
彼女は半泣きになりながらくるりとターンして誰かを呼びに行こうと一歩踏み出した。
慌てていて前を見ていなかったのだろう、走り出したと同時に、別の人物にぶつかってしまった。勢いあまって尻もちをつきそうになった彼女の腕を、ぶつけられた当人が咄嗟に掴んで引き戻す。
おかげでおさげの子は転ばずに済んだ。
私はおさげの子の腕をつかんでいる、その男性を見上げた。前髪だけを伸ばしたアンバランスな髪形、中性的な見た目の少年。
「カイン!」
どうしてここに、と思ったが、周りを見ると結構な人数が遠巻きに見ていた。騒ぎを聞きつけたやじ馬どもだ。その中にはマイシィファンクラブの連中もいるが、青い顔をして震えるだけで、動こうとする者はいなかった。
さらに、見覚えのある長身の二人。クローラの取り巻きの二人組も、腕を組んでこちらを睨むように見つめていた。やはりあいつらも一枚噛んでいるのか、と苛立つ。私は心の中で激しく舌打ちをした後、再びカインを見上げた。
「……何があった?」
「あ、あの──」
「……ああ、君は早く先生を呼んできて」
カインはおさげの子にそう言うと、自分はすっと身を乗り出してマイシィの様子を確認する。
「……吐いたのか? ……血が出てるじゃないか。 カンナは治癒魔法は使える?」
「―――まだ、習ってない」
じゃあ、と言ってカインはマイシィの隣に跪き、怪我した右手を持ち上げた。それを自らの額のところまで持っていくと、左右の瞼を閉じた。第三の目、頭頂眼に意識を集中させているのだ。
彼のダークブラウンの頭頂眼が僅かに光って見えた。実際に光っているのではなくて、彼の頭頂眼から形成された魔法力場が活性化し、光っているという錯覚を生み出すのだ。それだけ治癒魔法にかける精神力が大きく、集中が必要ということだ。
ちなみに治癒とは言っても完全回復させるわけではないらしく、せいぜい人間の自然治癒力を高めて回復を早めるだけなのだとか。
それでもマイシィの指の傷はみるみる塞がっていく。剃刀で綺麗に切れたのは不幸中の幸いだった。
「ありがとう……ッカイン兄──ッ、せんぱい……」
カインはマイシィに優しく微笑むと、髪をくしゃくしゃと撫でた。
なんだいなんだい、カインよ。普段は表情が薄いからわからなかったけど、笑うとそれなりにイケメンっぽく見えるじゃあないか。顔のパーツとかは正直そこまでなんだが、雰囲気が、ちゃんと頼れるお兄さんしているって感じ。
「ハッ──ハッ──」
指の傷は塞がったものの、マイシィの息はまだ荒い。心についた傷が癒えていないからだ。
大切なものはもう返ってこない。私が同じペンダントを再度取り寄せたところで、それはもう別物だ。
私はマイシィの介抱をカインに預け、すっくと立ち上がる。口を真一文字に結んだまま、すぐそばに控えている、もう一人の存在を真っ直ぐに見つめた。
そいつは、ブロンドの髪を優雅にかき上げながら、私たちの事をどこか冷めた目で見ていた。憐れむような視線、と言い換えてもいい。
たぶん、この場にいる誰よりも治癒魔法が使えて、マイシィの近くに最初からいた人物だ。
でも彼女はマイシィを助けなかった。動こうとすらしなかった。その行動が意味するところは、おそらくそういうことだろう。
「クローラ様。……これは一体どういうことでしょうか」
私は怒りを滲ませながら、彼女に尋ねた。
否、怒りを滲ませたのではなく、どれだけ抑えようとしても言葉尻に怒気を孕んでしまうのだ。声が震えてしまうのだ。
こんなところで揉め事を起こすべきではない相手だと理解しているはずなのに、文句の一つでも言ってやらないとって思って、堪えなきゃいけないのに、もう、ダメなのだ。
……だのに。
なのにあいつは。
「そんなもの、私が聞きたいくらいですわ」
「しらばっくれる気ですか」
思わず挑発的なことを口走ってしまったが、何も後悔はしていない。むしろ言ってやった、っていう気になっている。
「──フン、敵意を持たれるのはご勝手ですけど」
クローラはここにきて数歩分マイシィに近づくと、少しだけ屈んでマイシィに目線を合わせた。
あまりに自然なその動作に、私は止めるという発想が出来なかった。あ、と思った時には次の一言を言われてしまっていた。
「言ったじゃありませんか。調子に乗っていると、痛い目に遭いますわよって」
キレた。
何がって、堪忍袋の緒さ。
しかし、何も出来なかった。
クローラの権力に恐れ慄いたとか、揉め事は良くないと日和っただとか、そういう事ではない。何もさせてもらえなかったのだ。
「動くな」
私の喉笛に、何やら長い物が押し当てられていた。その瞬間、私は何か冷たい物を感じ、ぞわりと体毛が逆立った。
恐れ慄き、身の危険を感じた事を形容したのではない。本当に冷気を感じるのだ。
体が動かせないので目だけを声の方へ向けると、クローラ一派の一人、背の高い女が私の真横に立ち、喉元に剣を突きつけているのが見えた。
そして頑張って自分の、喉元を確認してみると、剣だと思っていたのは剣ではなく、半透明な棒状の何かだった。それは氷。おそらく学校内で抜刀するわけにはいかないから、魔法で瞬時に作りだした物だろう。
しかし反応できなかった。気配すら感じ取る事は出来なかった。
私も十一歳にしてはそこそこ戦える方だと自負している。魔闘大会にも、参加資格があるのならば出てみたいと思っていたくらいだ。
それが、反応できなかった。恐るべき力量の差。
七年生ともなればこんなに強くなるものなのか、それともこの女が化け物じみているだけなのか。後者であることを願いたい。そうでなければ、ちょっと自信を無くす。
「クローラ様、いかがなさいますか」
女は静かな口調で言う。
「そうね。……放してあげなさい、イブ。その子、多分もう何もできないわ」
私の喉元からプレッシャーが引いていくのと同時に、体の感覚が戻ってきた。
なんだか自由になった気がすると思ったら、肘や膝関節の所が少し濡れていた。
どうも、気圧されたから動けないのかと思っていたが、私の体は実際に氷で拘束されていたようなのだ。氷柱のようなものを作り出すだけでなく、相手の体にも氷を纏わせるとは、やっぱり化け物だ。
「はい、お疲れさん」
急に背後から肩をたたかれた。その声は、クローラ一派の長身の男のものだ。
今の今まで背後に立たれている事にすら気が付かなかった。氷は解かれたというのに、冷や汗が背中を伝い落ちていく。
「さ。もういいわ。行きますわよ」
クローラはすっと立ち上がると、お供を二人従えて歩き出した。もう、私たちの方へは一瞥もくれない。やることはやったから興味を無くしてしまったと言わんばかりの態度だった。
「──ま、ま待ってください」
不意に、聞き馴染んだ声がした。
私は強張ってしまっていた身体を無理やり動かして振り返る。
そこには、マイシィの同居人である丸い身体の少年がいた。黒髪おかっぱの子は少年の腕にしがみつきながら、彼の背後に隠れるようにして立っている。黒髪の子の反応がさっきから薄いと思っていたら、人を呼んできたらしい。呼んできたのがどうにも頼りない人物なのは残念だが。
少年は言った。
「ど、どうしてマイシィちゃんやカンナちゃんにひ、酷いことをするんですか」
足が震えているぞ、少年よ。しかしクローラに意見するとは、案外と根性が座っているな。
だが、相手は復権派貴族。平民が意見などすると、余計に話がこじれそうだ。
「貴様! 誰に向かって口をきいているんだ!」
案の定、男性の方が声を荒げた。
ひい、と縮こまる少年。なんだい、君の雄姿はここまでか。
するとクローラは男性を視線で制しながら言った。
「言っておきますけどね。私はマイシィ・ストレプトに忠告差し上げただけですのよ。あくまで忠告です。この私が直接彼女に手を出すわけにはいきませんから」
「で、でも──」
少年はなおも食い下がる。
が。
「話は以上よ。──イブ、ロキ」
「「はっ」」
彼らは少年たちの事を押しのけるようにして校舎奥へと歩いていく。
もう誰も彼らを止めることはしなかった。
できなかった。




