魔女編20話 これから殺す相手
世界歴一〇〇〇九年三ノ月の二十日。
雨の降り続く暗い夜、俺は王都レオの南の外れにあるペルシカ地区を訪れていた。
夜の闇に溶け込む黒い衣装に、白い狐の仮面。
《銀の鴉》時代によく着ていた、カナデとして人前に姿を表す際の恰好によく似たスタイルである。
あの頃と違うのは、仮面が新調されたものであることと、髪の長さが長いままであることだ。
本日の目的地は娼館だ。
暗く沈む町の中でその一画だけが煌々とした輝きを放っている。
表向きは大衆酒場であり、一階部分では普通に料理も提供されているのだが、実際には女中に声を掛けて金を払えば二階に上がり、夜の遊びも可能だという。
俺は心の中に男性的な意識も残っているから、女を抱くのに興味がないわけでは無い。
だが愛する者や恋する相手のことを想うとその辺の女になど食指が動かないもので、つまるところ、俺が娼館を尋ねたのには別の理由があると言うことだ。
べ、別に言い訳をしているんじゃ無いぞ。
「いらっしゃ……お客様、もしかして女性ですか」
店に入ると、金髪巨乳のちゃんねーがぎこちない笑顔で出迎えた。
胸の谷間を露わにして、明らかに男を誘っている恰好である。
うーん、アロエよりでかいが、やはり欲情はしないな。まあどうでも良いけど。
「ここは酒場だろ? 女が入っちゃいけないのか」
「あ、いえ……」
金髪女は引き攣ったような笑顔で俺をカウンター席まで案内する。
俺が店内を歩く姿を、何人もの男達が睨みつけるような勢いで凝視していた。
彼らは俺の容姿に惹かれているわけでは無く、おそらく違法風俗の取り締まりを警戒しているのだろう。
こんな場所に女がやって来るなんて不自然だからだ。
もっとも、本気で潜入査察をするならば男性の方が適任だろうがな。
「いらっしゃい、お嬢さん」
どう見てもヤクザ上がりなイカつい親父がカウンターの中から声を掛けて来た。
体つきはゴツいのに身なりは小綺麗で、ブラウンの髪をオールバックにしてサングラスをかけ、バーテンの恰好をしている。
指には高そうな貴金属の指輪がいくつか。
相当儲かっているらしい。
「お嬢さん、仮面をしてちゃあ酒は飲めないぜ」
「ああ、それもそうだな」
俺は仮面を外してカウンターの上に置いた。
俺の顔を見たバーテンの親父は耳をピクリと動かした。
どうやら謎の客の正体がカンナ・ノイドだと気が付いたらしい。
「とんだ上玉が来たかと思えば、こいつァ……」
親父は「ちょっと待ってろ」と言って厨房の方へ引っ込み、十秒とかからないうちにカウンターへ戻って来た。
その手には予備用と思われる大型のサングラスが保持されていた。
左右のレンズが一体型になっていて、目元まで完全に隠れるタイプだ。
「顔、見られたら困るんだろ。一応これをかけときな」
「ありがとう」
俺は親父からサングラスを受け取るとそれを身に付けた。
親父の心遣いに感謝する。
「俺ァこう見えてもマフィアだとかヤクザだとかに縁はなくてよォ。昔はショバ代を巡って奴らによく嫌がらせをされたもんだ。それを救ってくれたのがアンタだ。もしも会えたら礼が言いたいってずっと思ってた」
「そうかい」
そういえば、最近はどこの店にも貼られている、俺の顔写真付きの指名手配ポスターがこの店には無い。
親父が感謝していると言うのも本当の話なのだろうな。
《銀の鴉》による裏組織潰しは、色々なところに影響を及ぼしたのだと改めて認識した。
「だけどこの店にはアンタに恨みを持つ奴も働いてる。そいつァ今は二階で客の相手をしているが、もし降りて来たら、申し訳ないがまた顔を隠しちゃァくれないか」
「まあ色んな奴がいるよな。仕方ない、協力するよ」
実のところ、俺がこの店に来たのはそいつに用があるからなんだがな。
俺は親父に酒と、軽いつまみを注文した。
すると彼は今日のお代はいらないと言って、ミルク貝の酒蒸しとイェールを出してくれた。
ミルク貝は磯に行けばどこにでも見られるような貝だが、この辺りでは養殖も盛んで、天然物よりも身が大きくてプリプリの食感を楽しめる。地元の名産だ。
俺は親父に礼を言うと、早速、件の貝に舌鼓を打つのだった。
──
─
そうして二十分程が過ぎた頃、不意に親父がカウンターを指でタップしたのに気が付く。
俺は狐の面を被り直すと階段の方へ目を向けた。
脂の乗ったイケイケの兄ちゃんに寄り添うようにして、紅色の服を着た黒髪の女性が一階へ降りてくる。
二人とも着衣が僅かに乱れていたことから、行為の後なのだろうと容易に推測できる。
女性の衣装は所々の肌が露出しつつも大事なところは決して見せないというデザインであり、これに劣情を抱く男性も少なくないだろう。
しかも女性はかなりの美形だ。彼女と同等以上のレベルの容姿を持つ嬢は、少なくともこのフロアにはいない。
ただしその身体は痩せていて、健康的な肉体とは程遠い印象だった。
「あ」
一階に降り立った彼女と、目が合ってしまった気がする。
女性は俺の方を一瞥すると、途端に眉根を寄せて訝しげな表情を見せた。
仮面をした怪しげな女がカウンターにいるのだから、不審に思うのも当然なのだが、どうやら仮面に驚いたのではないらしいことが後の彼女の態度で判明する。
「おん? どうしたのリリちゃん」
「……なんでもないわよ」
リリというのは俺の知る彼女の名と違うから、仕事の上での源氏名だろう。
彼女は男の腕を引き、「もっと飲みましょう」とテーブルに誘っていた。
しかしどこか不機嫌だ。
俺と目が合う前の彼女は割と上機嫌に見えたのに。
不機嫌の理由。それはきっと、先刻目があった際に俺がカンナ・ノイドだと気づいたからだろう。
カンナ・ノイドが王都内に潜伏していると報道されている中で、銀髪の、顔を隠しているような女がいたら……そりゃ正体を看破するのも容易いよな。
この娼館の連中のように新聞なんか読まないような層ならともかく、俺に恨みを抱いている人間であれば尚更だ。
「オーナー、やっぱり俺は帰った方がいいみたいだ」
「……すまねェ」
本当は彼女──エリス・ノールと話をすることが第一目的だったのだが、姿が確認できただけでも良しとしよう。
お代はいらんと言われたが、俺はチップだと言って正規料金以上の金額をカウンターの上に置くと、そのまま店を出た。
外に出れば、いまだに止まない雨が家々の屋根を叩く音。
上階の窓から嬌声が漏れ聞こえるのが耳に入ると、ここは娼館だったのだと再認識させられる。
はぁと一回溜息を吐き、俺は通りに足を踏み出した。
魔法力場で雨を防ぎつつ、俺は手ぶらで夜の闇の中に溶けた。
***
翌日。空一面を雲が覆い、雨は小降りになったり止んだりを繰り返している。
俺はアディからもらったメモを元に次なる目的地へと向かった。
ペルシカ地区のさらに端、王都レオの最南端である。
そこには建設中の王都環状鉄道の高架橋があり、情報では高架下で地元の悪ガキ達が屯していることが多いとか。
彼らはギャングチームと名乗る程に力を付けているわけではないが、地元では有名な不良少年団らしい。
しかし俺の目的は彼ら自身でなく、彼らを狩りに来る“喧嘩屋”だ。
近々、不良グループと喧嘩屋との決闘が行われるという噂があった。
高架近くに寝床を作って数日張っていようと思っていたら、案外あっさりと喧嘩屋は見つかった。
なんのことはない、俺が現場に着いた時、既に戦いは決着していたのだ。
不良少年達は高架下の雨に濡れていない部分に、複数人が折り重なるように倒れ、あるいは蹲って呻き声をあげていた。
一方的にコテンパンにされてしまったらしい。
喧嘩屋はそんな生ける屍の山を見下ろすように一人立ち尽くしていた。
黒い短髪の、カーキのタンクトップにアーミーパンツ姿。
筋肉質なその肉体は、ハリウッドのアクション俳優を想起させるものだった。
圧勝したにも関わらず、彼の表情はどこか不満げだ。
血に塗れた自らの拳を睨みつけるようにしながら小さく舌打ちするのを、俺の地獄耳ははっきりと捉えた。
「おーおー、こいつはすごいな。この人数相手に魔法も使わず圧勝したのか」
「誰だテメェ」
音もなく近寄った俺の声掛けにも驚くことなく答えた喧嘩屋。
男は黒い瞳の三白眼を俺に向けると、目を細めながら頬を引き攣らせた。
ズボンのポケットから箱の潰れたタバコを取り出し、炎魔法で点火する。
「妙竹林な仮面をつけやがって、馬鹿にしてんのかァ? ……オレは今機嫌が悪いんだよ、クソが」
「顔は父親そっくりだけど、口は悪いんだな」
「あァ!? なんでそこでクソ親父が出てくんだよ」
いやはや本当に口が悪い。
反抗期を拗らせたまま大人になってしまったのかこの若者は。
俺が親なら性根から叩き直してやりたくなるところだが、この捻くれた性格の元を辿れば俺の考えた策謀に行き当たるんだよなぁ。
「……テメェまさか、昨日姉貴のところに来たっていう女か」
「そうだとしたら?」
「決まってる、ブッ殺す」
喧嘩屋は真っ直ぐに俺の方へ突っ込んでくる。
横たえられた不良達の体を踏みつけるのもお構いなしに、本当に一直線に走って来た。
俺が魔法で石飛礫を投擲してみるが、奴はそれら全てを拳で弾く。
追撃が来るのもお構いなしといった具合で、もう奴の目には俺しか見えていないようだった。
「カンナ・ノイドォォ!」
「おいおい、まだ意識のある連中の前で俺の名前を叫んでくれるなよセシル・ノール君」
こういう手合いは力で黙らせるに限る。
俺は脚を開いて腰を落とし、迎撃体制に入った。
彼は黒の魔女の兄。
どうせこれから殺すことになる相手なんだ、手加減などする必要は無いだろうさ。




