魔女編09話 恋をする人される人
一ノ月の末頃。
アディと楽しく裸のお付き合い(意味深)をした翌日の朝。
俺達はマムマリア東端のリアス海岸を見通せる高台にて、白い獣の集団に取り囲まれていた。
「ん、ありがとう」
自身の使役する三頭の狼に括り付けられた手紙を受け取ったアディは、反対に今現在の自分の状況を記した手紙を狼たちの首輪に結ぶ。
彼女が合図をすると三頭は一斉に駆け出した。
スリーマンセルで動く彼らは、実は人造人間の一種なのだという。
抑制された感情に、人間並の知能を持つ獣型の人造人間。
《科学世界》もビックリの恐るべき生体兵器である。
アディは彼らのような存在を各地へ派遣するとともに、他所の情報屋とも連携しながら商品(=情報)を掻き集めているのだ。
「その手紙、何が書いてあるんだ」
俺が何気なしに尋ねると、アディは表情を崩すことなく掌を差し出してきた。
「中身を知りたければ情報を買うの」
なんとも商魂逞しいことだ。
しかし俺の懐事情はかなり厳しく、昨夜の宿代でほとんどすっからかんなのだった。
そこで、試しにこんな提案をしてみる。
「俺からの熱いキスでは駄目か?」
「ん」
俺の冗談に、アディはこくりと頷いた。
彼女は目を閉じて、腕を後ろで組んだポーズになり、顎を軽く上げて体を僅かに前傾させる。
唇を差し出す仕草。
まさかの、OKサインである。
俺は生唾を呑んで軽く咳払いをし、彼女の唇にそっと顔を寄せていった。
──が。
「あいたっ!」
次の瞬間には、俺はアディから軽い頭突きを貰っていた。
鼻にクリーンヒットし、俺は思い切り仰け反る。
おのれ、キス待ちかと思わせて攻撃を仕掛けてくるとはなんと卑怯な。
しかし頭突きをした当人も思いの外痛かったのか、額を手で擦るようにしていた。
表情はそのままに、ほんのちょっぴり涙目になっていて可愛い。
「キミの接吻なんかいらない。さっきのはアディちゃんジョーク」
「どちらかっつーとカンナちゃんジョークに対するノリツッコミだよな」
鼻の頭を押さえながら、即座に治癒魔法をかけた。
おー痛かった。
まだ鼻がムズムズすると思ったら、ちょっと鼻血が出ていた。
まあ、治したから良いけど。
血の付いた手を魔法で洗い流しつつ、横目でアディの顔を伺った。
海風に黒い髪を任せながら、紅色の瞳で絶壁の海岸線を眺める褐色肌の少女。
彼女の感情は相も変わらず顔には出ないが、数ミリの単位で目を細めているのは考え事の印だろうか。
「お前さ、王都レオまでは俺と行動を共にするんだよな」
「ん。そのつもりなの」
こいつは自身の目的のために、俺を王都まで導こうとしている。
本当は、“俺と行動を共にする”ではなくて、俺自身が“彼女と一緒に移動しなければならないような展開に誘導されている”気さえしていた。
アディは情報屋。
意図的に情報を隠したり、都合の良いように言い回しを変えて情報を伝えたりすれば、俺の運命など容易に変えてしまえるだろう。
危険な存在だ。
以前の俺ならこういう手合はバッサリと切り捨てていた。
関わっているだけでリスクが大きすぎる。
彼女から得られる知見よりも、不確定な未来の方がより安全度は高そうに思う。
しかし、今の俺はそれができない。
「じゃあ、次のルートを案内してくれ」
俺はクロウの干し肉の最後の一切れをアディに渡した。
情報屋アディーネ・ローラットへ支払う情報の対価として、だ。
彼女はそれを奪い取るように受け取ると、宿で朝食を食べた後だというのに、早速干し肉に齧りついていた。
よほど好きな味だったのだろう。
「たひはにうへほったも」
「フッ、そうかい。それは良かった」
お行儀など全く無視して食欲に走るアディを見て、俺はたぶん傍から見てもわからないほどに、小さく苦笑した。
食い意地の張ったアディに呆れているのではない。
彼女に対して抱く淡い気持ちを自覚して、危険だと知りつつも彼女を断ち切ることが出来ない自分自身に呆れたのだ。
今ならはっきり言える。
──俺はアディに恋をしたのだ。
ある人は、愛は“まごころ”で、恋は“したごころ”だと言う。
だが、俺はこれに真っ向から異を唱えたい。
愛とはその人の為に身を削っても良いと思える心の状態だ。
ロキや、アロエに対する気持ちだ。
あるいは我が子がまだ子宮の中にいたときに感じていた愛しさも、愛の一部なのだろう。
一方で恋とは、どれだけ想っても届かないもどかしさに付けられた名前だ。
俺がアディに対して抱く気持ち。
そしておそらく──かつて美園に感じていた気持ち。
きっとあれは愛ではなくて恋だったのだろう。
はは、今更気づくなんて皮肉だよな。
愛も、恋も、本質的には同じ“好き”という感情だ。
一方で、愛にも恋にも当てはまらない“好き”を、人は“欲”と呼ぶのだ。
俺は欲に生き、欲に死んで、何十年も経ってようやく愛に辿り着き、最後に恋を理解したのだ。
俺は少し、遠回りをし過ぎたな。
「どうしたの、神妙な面持ちをして」
「いや別に。今日もアディが可愛いなって思っただけだよ」
「ボクのことを可愛いというのはキミくらいなの」
アディはぷいとそっぽを向いて、頭のサイドにずらしてあった仮面を正面に直した。
いつも仮面みたいに固定された表情だから、わざわざ面を被る必要はないように思えるのだが、もしかするとこれは彼女なりの照れ隠しの表現なのかもしれない。
「じゃあ、報酬も貰ったことだし道案内をするの。昨日の午後から海岸警備隊に数人の魔闘士が加わって捜索を始めたみたい。クシリト・ノールは盆地の街道で待機を続けているみたいだけど、魔闘士の中には古式使い魔の手練れもいるから、見つかると応援を呼ばれて厄介なの」
なるほど。
マムマリアの北端から割と海岸線に近いところを貫いていた東の街道も、この辺りに至ると盆地を抜ける形で内陸寄りに変わる。
だから街道沿いの警備に注力してしまうと、その分海岸線上が手薄になってしまうのだ。
多分密航ルートの存在も警戒し、海上に人員を増強して配置することにしたんだな。
「だとすれば、海岸と街道に挟まれた山地を抜ける必要があるか」
東部山地は低山の連続する少し厄介な地形で、マムマリア山脈とは違い、稜線が続いているわけではないから高度は低くとも通り抜けがキツい。
また、似たような景色が百キロ以上も連続するから遭難リスクも高いと聞く。
魔法で飛行できる俺が道に迷うことは少ないと思うがな。
「地元民しか知らないような抜け道もあるけど、聞きたい?」
「もう支払えるものが無いし、多分、その道は俺の知ってるルートだと思う。旧帝国時代の馬車道跡だろ」
「カンナ・ノイドもなかなかの情報通なの」
アディは皮肉なのか他意無しなのかはわからないが、俺にお褒めの言葉を与えた。
とはいえ、実を言えば俺が東部山地を縦走する古道の存在を知っているのは至極当然の話なのだ。
俺は追われる立場になる以前から、この付近には定期的に立ち寄っていた。
と、いうのも、俺はそこに暮らす者達から修行をつけてもらっていたからだ。
師匠と呼んでも差し支えない、そんな人達。
同時に、今は出来るだけ会うのを避けたい連中でもある。
「悪いけど、俺は道なき道を進もうと思う」
「どうして」
俺はひと呼吸置いてからアディに答えた。
「万が一にも遭遇するようなことがあっては困る人が、近くにいるからだ」
***
世界歴一〇〇〇九年のニノ月はじめ。
世の中は春の陽気だが、ここはご生憎様の雨模様。
俺は濡れた衣服に体温を奪われながら、山の中をひた走っていた。
昔から寒いのは苦手だ。
数年にもわたる北の国での野営生活を通じて随分と耐性はついてきたものの、まさに今、命の危険感じるほどの低体温に俺は喘いでいた。
なにせ全身くまなく水に濡れ、その状態で走るものだから常に強い風を受けている状態。
いくら春先でもこのままでは凍えて死んでしまう。
木陰や洞窟で雨をやり過ごし、炎魔法で暖を取ればいいのだが、今はそれが難しいという事情があった。
「いたぞ、こっちだ! 追えぇぇッ!」
俺は舌打ちと共に急遽進路を転換して、木々の間を縫うように疾走った。
沢を飛び越え、崖を登り、巨岩の隙間をすり抜けて、追ってから逃れるべく全力で駆ける。
俺にピタリとついてくるのは、自らの影法師と下級魔闘士三名のみ。
アディとは、四時間近くも前に逸れてしまっていた。
まあ、あいつは指名手配犯でもないから捕まったとしても色々と言い訳は立つだろう。
それに、本当に優れた情報屋ならば、俺がどこに行こうと合流してくるはずだ。
だから俺は彼女についてあれやこれやと心配はしていない……のだけども、一ヶ月弱も一緒にいた存在が傍にいない状況には一抹の寂しさを禁じ得ない。
「ちく、しょぉッ!」
俺は毒づきながら、必死の思いで逃げ続けた。
──
─
その場所がどこか気が付いた時、俺は“しめた”と思うと同時に、“やられた”と思った。
無我夢中で逃げ続け、追い詰められた先にあったのは、石灰質の岩の中にぽっかりと口を開けた洞窟であった。
俺の勝手知ったる鍾乳洞だったのだ。
山中を敵に追われ、必死こいて逃げた先がここになるなんて、原因は一つしか考えられない。
……あいつめ。やってくれたな。
俺は狭い洞窟の入り口に体を滑り込ませると、いきなり広くなる洞窟の“大玄関”を真っ直ぐに走り抜ける。
足元には大量の水が洞窟内を川となって流れていて、俺は流れに逆らうようにして鍾乳洞の奥を目指した。
そして、最奥部に到着すると、迷うことなくそこにあった地底湖に身を投げる。
窮地に絶望して自死を選んだわけでは無いぞ。
俺は知っているのだ。
この地底湖は水の中で、別の洞窟に繋がっていると。
初見では絶対に気づくことのできない抜け道。
このまま追っ手がこの道に気が付かなければ、俺の逃走劇はここで終わりを告げるはずだ。
光魔法で微かに闇を照らしながら、頭をぶつけないように慎重に泳ぐ。
ここは水中洞窟。
前後左右どこを見渡しても水と岩の世界だ。
普通の川には必ずあるものが、ここには存在しない。
──水面だ。
左右から迫る岩の壁は天井までピッタリと覆い尽くし、眼下にはどこまでも続いていそうな暗い水。
絶望的な圧迫感と、息継ぎのできない恐怖。
これら全てを我慢して進み、狭い岩の隙間を抜ければ、そこには待ち望んだものが待っていた。
俺の光魔法で揺れる水面、すなわち空気の層。
俺はここに来てようやく呼吸が可能になったのだ。
「ぷはあっ!」
俺は水の上へと顔を出して、肺一杯にたっぷりの酸素を補給した。
ここから先は、別の地上に繋がっている。
酸欠で死ぬなんて未来は、これで無くなったわけだ。
そして、酸素があるなら炎魔法が使える。
炎の球を作り出した俺は、ずぶ濡れで重くなった服を肌から引っ剥がして裸になった。
魔法腕で服を絞り、火球の熱を無駄にはしまいと洗濯物を干すかの如く宙に掲げる。
「さささささ寒いぃぃ! こ、こここれはきっついぃぃ」
歯をカタカタと鳴らしながら、全身で熱を吸収すべく、一糸纏わぬあられもない姿のまま、大の字で炎の前に立ちはだかった。
体に熱が戻るのと同時に、思考力が回復していくのを感じる。
俺は、助かったのだ。
「……」
そんな俺の背後から、ゆっくりと近づいてくる影が二つ。
俺はすぐに気配に勘付いたが、あえて無視するように炎を見つめ続けた。
しかし、彼らは歩みを止めず、程なくして俺のすぐ後ろで立ち止まった。
いい加減気づかぬフリは不可能だと諦めて、俺は振り返る。
毛皮を縫い合わせたような粗野な装束の二人組が、俺の様子を無言で見つめていた。
一人はこれでもかというほど美しい青年だった。
黄金の髪に切れ長の青い瞳。高い身長に赤い肌。
──ん?
この男の肌は雪のように白かったはずだが……ああ、そうか。
私のエロティックな裸体を目の当たりにして赤面してしまっているのだな。初心な奴め。
そしてもう一人。
アップ気味に後頭部に結いつけられた、瑠璃色の長い髪。
見る者全てを見惚れさせる紫紺の瞳に、皺の刻まれた眉間からきりりと吊り上がる綺麗な眉。
口をへの字に結んだまま、仏頂面で睨みつけてくる絶世の美女。
「……やはりこちらへ逃げ込んで来ると思いましたよ、カンナ姉様」
「う。ひ、久しぶりだなぁ、シアノ」
八年前に袂を分かったはずの我が師匠が一人、シアノ・ニクスオットがそこにいた。




